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黒歴史を背負った新人声優だってハッピーエンドを迎えたいっ  作者: 海坂依里
第2章「これが定番のラブコメ的展開だけど、それを受け入れられないのが新人声優」
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第10話「何が自分の芝居に活きてくるか」

「和生くんに守ってもらうには、和生くんとの距離を縮めないと駄目ね」

「あー、もう、どこのバカップルですか……」


 自分の項垂れていく様子を見て、ようやく彼女は甘い束縛から解放することを決めてくれたようだった。


「でも、男の人に、そんな安全スペースを取ってもらっても周囲の人に迷惑がかかるだけだから」


 元の、いつもの笹田さんらしさが戻ってきた。だけど、笹田さんは地声ですら可愛いのだから質が悪い。この心臓のドキドキをどうにかしてほしい。


「……憧れないんですか? そういうシチュエーションには」

「憧れないかな。恥ずかしくない?」

「確かに……」


 全力で否定してくるところまで可愛らしく見えてしまうとか、外見も声も可愛らしいと相乗効果というものが半端なく凄いことになるらしい。

 こんな姿を笹田さんファンが目撃したら、一目惚れしてしまうこと間違いないと思う。


「それに、私は和生くんの無敵素敵な大先輩にあたるから」

「自分で、無敵素敵とか言っちゃうんですね」

「そんな無敵素敵な大先輩は、世間の迷惑になるようなことできないの」


 先輩声優が、こんなにも後輩の俺のことを想ってくれているってことに驚いた。

 そして、目の前にいる可愛すぎる笹田さんの笑顔に魅入ってしまった。

 笹田さんのことしか、目に入らなくなった。


「っぅわ」

「え?」


 電車が急ブレーキを掛けたわけではない。

 急ブレーキを掛けたのではなく、普通のブレーキを掛けただけのことだった。

 ただそれだけのことだったけれど、次の駅に電車が到着するっていう意識が完全に抜け切っていたから油断した。


「すみませっ……」


 大きく見開かれた瞳が、凄く近くにあった。


「っ」


 長い睫毛。

 そういえば、笹田さんって二重瞼だったっけ。可愛いなぁ。

 良い香りがするなぁとか、思うことはいっぱいあるけれど!


「和生くん! 邪魔になってるから! 一旦、降りて!」

「はい……あの……本当にすみません……」


 電車のごく普通のブレーキの勢いに合わせて俺はバランスを崩し、笹田さんに壁ドンする形でなんとかその場へと踏み止まった。

 一瞬の出来事、ほんの僅かな時間の出来事。

 周囲の人に気づかれないくらいの長さでしかなかったけれど。


「体幹鍛えないと、こうなっちゃうって養成所の先生が基礎練習のときに仰っていたなって」

「本当にごめんなさい……反省しています……」


 この先輩は、相変わらず冷静だな!

 とか突っ込みたい気もするけど、完全に悪いのは自分だと分かっている。


(あれだよな、あれ。壁ドンって、好きな人とか憧れの人にされるからキュンとなるわけであって……)


 俺が笹田さんに突然ドンと押していったところで、それは彼女に恐怖心を与える材料にしかならない。


「怖がらせていたら、本当に申し訳ございません……」

「私は大丈夫。むしろ和生くんの方が堂々とした壁ドン状態で、かなり恥ずかしかったんじゃない?」

「言わないでください……触れないでください……」


 こういうところは、やっぱり凄く大人だと思ってしまう。

 男慣れしているとかそういうことじゃなくて、人に慣れている。

 何が起きても、動じない心を持ち合わせているっていうか。

 こんなに落ち着いた彼女を見ていると、やっぱり笹田さんは最初から『男が痴漢の魔の手から彼女を守る的ポーズ』をする気はなかったのだと理解する。


(やっぱり俺は、からかわれていただけか……)


 人から、からかわれやすい性格なのかもしれない。

 人から、弄ばれるような性格なのかもしれない。

 どちらにしたって、心臓に悪い出来事は仕事前には控えたい。


(俺ばっか、ドキドキしてるんだろうな……)


 笹田結奈を見返すために声優業界に飛び込んだって、デビューして半年程度で先輩声優の稼ぎを越えられるわけがない。

 せめて私生活では彼女を見返すために大人になりたいと思っても、やっぱり彼女の方が落ち着いていて泣きたくなってくる。


「やっぱ凄いね、和生くんは」

「突然どうかしました?」


 一つ一つの発言で、大人だってところをアピールしなければいけない。

 笹田さんは先輩声優ってだけでなくて、普段も凄く大人びたところがあるから。

 だからこそ、俺は笹田さんの期待を大きく超える人間を目指してみたい。


「たった一瞬の出来事だったけど、私、すっごくドキドキしちゃった」


 笹田さんの声と言葉が、すっと聴覚に馴染んでいく。

 心臓の高鳴りを抑えるので必死な俺を知ってか知らずか、笹田さんの言葉は落ち着いたはずの心臓を再びゆらゆら揺らし始める。


「あー……こういうところ、子どもっぽいって言われちゃうのかな」


 笹田さんの言葉で、どれだけ俺は心臓をドキドキさせられていることか。

 素面で、よくこんな言葉が言えるよねって感心さえしてしまう。

 笹田さんの言葉一つ一つに、笹田さんの一声一声に過剰に反応してしまう自分が恥ずかくなってくる。


「本当に嫌じゃなかったですか……?」

「むしろ、ドキドキしちゃった」


 笹田さんの声は冷静なのに、どうして俺の心臓は笹田さんの声に反応してしまうのだろうか。


「じゃあ……一緒ですね」

「和生くん?」

「俺も……すっげードキドキしました」

「ドキドキって……あれは、ただのアクシデント……」


 俺の不注意。

 ただ、それだけのこと。

 でも、実際、一瞬の出来事で物凄く心臓が高鳴ってしまったのは事実。


「俺も笹田さんと同じで、良い芝居ができそうな予感がしてきました」


 ほんの一瞬でも、オタク業界を騒がせている笹田さんの瞳を独占できたことは、本当に大きな出来事だったと思う。

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