第9話「ラブコメ世界を生きる主人公になれたら良かったのに」
「和生くん」
「はい」
「……怒って……は……いない?」
中学のときから大人の世界で仕事をしている笹田さんには、人の心を読む能力でもあるのか。
そんなことを思ってしまうくらい、笹田さんは随分ご丁寧に俺の心を察してくる。
「怒ってないですよ。自信は失いかけてますけど」
「えっと……それはどういう意味?」
「笹田さんは、そのまま純粋に育ってください」
「カッコいいことを言っているようで、どうしてそこで笑うの!」
次の駅に着くまでの、ほんの短い時間だけど、電車内に人はほとんどいない。
それでも俺と笹田さんの貸し切りってわけではなくて、車内には数えられる程度の人は乗っている。
「高校生って、ときどき狡い」
「高校生に戻ります?」
「和生くんとは二歳! 二歳しか違わない……じゃなくて、和生くんは妙に人を扱うのが上手いっていうか……」
「子どもでもあり、大人でもある微妙な立場ですからね」
それなのに笹田結奈という人間は、この場の空気を自分の味方へと変えてしまう。
どこにでもあるような電車という光景の一部に、きらきらとした光のようなものを差し込ませて明るい空気へと変えていってしまう。
「少しでも子どもって自覚があるなら、甘えちゃえばいいのに」
「っ」
口説き文句のようなセリフを耳にして、一瞬心臓の音はドキりと高鳴った。
「和生くん?」
「俺からすると、声優って職業が狡いと思います……」
そしてつい、そんな男を口説き落とすようなセリフを言ってきた彼女の瞳に魅入ってしまった。
まるで彼女の瞳は、窓を流れる景色なんて見させない。まるで、私だけを見ていなさいと命令を下しているかのよう。
「照れている和生くんを見られるなんて、貴重ね」
「からかわないでください……」
「ふふふっ、可愛い」
これを、ギャップフェチというのかなんなのか。
どこかのアイドルグループに入っているかのような可愛らしい外見をしているのに、ときどき俺の心理をすべて把握しているかのように主導権を握っていく。
これが本当に年上のやることなのかって思うけれど、大人社会を生きていれば、そんなことは朝飯前の得意技なのかもしれない。
「もう、嫌です……」
「和生くん?」
タイミングが良すぎるって、こういうときのことを言うのかもしれない。
笹田さんは天然っぷりを炸裂させたまま、電車は次の駅へと到着した。
そして次から次へと人々が乗り込んできて、電車は次の目的地へと向かっていく。
「和生くん、もう少し寄っても大丈夫」
「ありがとうございます」
鮨詰め電車と言うには大袈裟だけど、電車に乗り込んだ当初とは比べ物にならないくらい人との距離が近づいた。
満員電車ではないかれど、お互いに気を遣わなければいけないくらいの混み具合。
「俺、近すぎません? 大丈夫ですか?」
「和生くんだから、大丈夫」
「そういうこと言わないでください……」
和生くんだから、って言葉を強調されたのは絶対にワザとだと思われる。
絶対に彼女は、俺のことをからかっている。
(俺はこうやって、先輩に弄ばれていく人生なのかなー……)
だけど、笹田さんは恐ろしいくらい天然な性格。
これがワザとでもなんでもなくて素だとしたら、彼女に惚れ込んでいる男性はこの世に溢れ返っているんじゃないか。そんな妄想に背筋が凍りそうになる。
「……壁ドンできそうな距離ね」
「そこまで混んでないです」
別に聞かれて困るような話ではないけど、お互いに小声で話してしまう。
そこがなんだか二人だけの秘密っぽい感じにもなって、恋愛ドラマのような少女マンガのような良い雰囲気を運び込む。
「やってみる?」
「古いですって」
だけど、落ち着け。俺!
ここは、公共の場だ!
「やらない理由が古いというだけなら、やってみる?」
「職業ボイスを使わないでください」
「これも、好きを知るための経験だと思って」
ああ、もう絶対にワザとだ。
ここだけは、完全に確信犯だと分かる。
俺は絶対に、からかわれている。
「和生先輩は、私を独り占めしたくないんですか?」
「絶対にやりませんよ」
あくまでも、小声。
お互いにしか聞こえないくらいの大きさで会話しているはずなのに、笹田さんの声がガンガンと頭の中に響いてくるかのよう。
それに合わせて、普段呼ばれたことがない先輩という呼び名。
『ひま咲か』に登場するキャラクターを連想させる、その呼び方に頭がくらくらしてきそうだ。
「か・ず・き・せ・ん・ぱ・い」
その、語尾にハートが付きそうな名前の呼び方は本気でやめてほしい。
からかわれているだけだっていうのに、本気で可笑しな気分になってきそうな笹田さんの声に聴覚すべてを奪われそうだった。
「私を守ってください? 和生先輩」
落ち着け。落ち着こう、俺。
笹田さんが言いたいことは分かっているだろ?
壁ドンって言うか、ほら、あれだ。
満員電車の中で彼女を両手で守ってあげる的な、ああいう優しい彼氏……か、どうかはよく分からないけど、とにかくあんなシチュエーションを笹田さんは指しているのだろう。
「人気声優の自覚、持ってくださいよ」
「ふふっ、ははっ」
こんな風に返すのが精いっぱいな自分が情けない。
自分でも顔が火照っていっているような気がするのは分かるし、恥ずかしくて笹田さんの顔を見られなくなっている自分がいるのも分かっているけど、とにかくこの状況から逃げ出したいくらい緊張してしまっている。
「笹田さん……」
「ふふっ、ごめんなさい」
目の前にいるのは、ただの可愛い同居人。
ただの可愛い先輩でしかないはずなのに。




