74通目【怪我と謝罪】
王太子宮に向かうと、通されたのは応接室ではなくアンリの執務室だった。
まだ朝も早いというのに、王太子の机には書類が山積みになっており、そこに埋もれるようになりながらアンリがペンを動かしつつ補佐官に指示を出している。
「国王陛下から二週間の謹慎を言い渡されたそうだ」
「えっ⁉」
「その間、陛下の分の政務案決裁も命じられたらしい」
それで早朝からこの仕事量なのか。
仕事が落ち着くまでソファーで待たせてもらっていると、やがて王太子は補佐官たちにいくつかの書類を渡し言づけて部屋から出すとこちらにやってきた。
「待たせたな」
そう言って目の前に座ったアンリの顔を見て、リゼットは悲鳴を上げかけた。
太陽のように眩い美貌を持つ王太子の右頬が、唇のあたりから赤黒く腫れあがっていたのだ。
リゼットの視線に気づいたアンリが、自分の頬に触れて笑う。
腫れで上手く顔を動かせないのだろう。笑顔が引きつっていた。
「ご令嬢に見せるものではなかったか。どこかの軍人がとんでもない腕力馬鹿でな」
「加減はしましたよ。証拠に、左手を使いました」
利き手ではない手で殴ってこの腫れなのか。リゼットはさすが軍神と感心して良いのか震えるべきか迷った。
ウィリアムが本気を出していたら、アンリの顔は今頃どんなことになっていたのだろう。
「この馬鹿力め……」
「殿下が軟弱なだけでは?」
バチバチと両者の間で火花が散る。
リゼットはふたりを見比べてからそろりと手を挙げた。
「どうした、リゼット嬢」
「あの、とっても痛そうですが、大丈夫なのですか? 骨に異常などは? 跡が残ったりはしないのでしょうか……?」
「リゼット嬢は私の心配してくれるのか」
「心配など必要ないぞ。あの程度、謹慎が解ける頃には元通りだ」
「子爵は少しくらい心配するふりでもして見せろ」
やはりふたりは火花を散らすが、リゼットはほっと胸を撫でおろした。
どうやらウィリアムの言う通り、本当に見た目ほどひどい怪我ではないようだ。
「良かったです! では、ウィリアム様にお咎めなどはありませんか? 王太子殿下に手を挙げるのは、遠縁であっても不敬に当たるのではないかと心配で……」
素直に心のままに口にしたリゼットに、部屋が一瞬静まり返る。
ウィリアムは気を良くしたように足を組みかえ、アンリは逆に不満そうにひじかけに肘をついた。
「なるほど。リゼット嬢は殴られた私ではなく、殴った子爵を心配していたと」
「あ! も、もちろん王太子殿下のことも心配しておりました! とてもショックを受けていらしたようなので……大丈夫ですか?」
少し決まり悪く思いながら訊ねると、ため息をつかれてしまった。
心配していたのは本当なのだが、嘘っぽく聞こえてしまったようだ。それとも取って付けたように感じられてしまったか。
「もういい。いや、良くはないな……。リゼット嬢」
「は、はい!」
「そなたを呼んだのは、言わなければならないことがあるからだ」
「はぁ。何でしょう……?」
アンリは一度ピンと背筋を伸ばすと、リゼットに向かって突然、深く頭を下げた。
「危険な目に遭わせ、すまなかった」
いつもの人を食ったような態度は鳴りをひそめ、まるで真人間のような謝罪だった。
驚いたのはリゼットだけではないようで、ウィリアムもわずかに目を見開いている。
「で、殿下! どうか頭をお上げください!」
この国の王太子が、つまり次期国王が自分に向かって頭を下げているという事実を受け止められない。
リゼットが言ってもアンリは頭を下げたまま動こうとしない。ウィリアムからも何か言ってくれと目で合図をすると、軍神は軽く肩をすくめた。
「しばらくこのままでいいのではないか?」
「ウィリアム様! 王太子殿下は私を守ろうと動いてくださっていたと、もうおわかりでしょう?」
「考えがそうであっても、実際やったのは君を危険に晒す行為だ。到底許せることではない」
「も~~~! 私が許します! 謝罪を受け入れますから、殿下はどうか頭をお上げください!」
「感謝する」
あっさりと頭を上げた王太子は笑顔だった。さきほどの真摯な謝罪は何だったのか。
それでこそアンリだとほっとするが、やはり痛々しい右頬のせいで複雑な気持ちになった。
ウィリアムには「優しさを越えて甘すぎるぞ」と言われたが、心の安寧のためにもどうかこれ以上王太子を責めるのはやめてもらいたい。
「子爵の言葉ももっともだ。謝罪の言葉だけでは足りないだろう。リゼット嬢には詫びに何か贈りたい。希望があれば王太子としての権限を最大限用いて用意しよう」
「いえ! そういう仰々しいものはちょっと……お気持ちだけで十分です!」
高位の人間は簡単に高価な贈り物をすることは、ロンダリエの面々のおかげですでに学んでいる。
王太子からの高価な贈り物など、恐ろしすぎてとてもではないが受け取れない。謹んで辞退させてもらおう。
「まぁ、リゼット嬢ならそう言うだろうことは予想がついていた。なので私が君に今後必要になるだろうものを用意してある。もちろん、それ以外に何か思いついたときには言ってくれ。……ああ、ちょうど到着したようだ」
入室を求める知らせに王太子が許可を出すと、ひとりの貴族がひどく疲れた顔で現れた。
それはリゼットの父親、フェロー子爵だった。
「お父様!?」
「リゼット……」
久しぶりの親子の対面だったが、熱い抱擁を交わすような仲ではない。
父はリゼットを見てどこか安心したように肩の力を抜いた。王太子に席を勧められたが「いえ、私はここで」と恐縮している。
父は、こんなにも頼りなげだっただろうか。
以前はもっと厳しく冷たい雰囲気で、リゼットの目には大きく映ったものだ。
しかしやつれた様子で居心地悪そうに身を縮めている目の前の父は、とても小さく見えた。
「フェロー子爵。書類は用意できたか?」
「はい。こちらに……」
王太子は子爵から書類を受け取り目を通すと、侍従がサッと差し出したペンと印章で処理をした。
一体何の書類なのだろう。
手元をちらちらと見ていると、王太子は見えやすいよう書類をリゼットに向け広げてくれた。
「子爵と夫人の離縁状だ。この瞬間、子爵の離婚は正式に受理された。よって、あのジェシカという娘はリゼットとは一切関係のない赤の他人となる」
ハッとしてリゼットは父を見た。
粛々と王太子の沙汰を聞いている父の顔は固く、何を考えているのかはわからない。
「お父様は……本当にそれでよろしいのですか?」
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