筆休め【柔らかな洗脳】
リゼットの義姉ジェシカは、怒りを露わに馬車へと乗りこんだ。
持っていた扇子を床に叩きつけ「クソがっ!」と口汚く叫ぶ。
「どいつもこいつも、あのグズの話ばっかしてんじゃないわよ……!」
シャルルに夜会のエスコートを拒まれた。それだけでも腹立たしいというのに、別のエスコート役を見つけて夜会に行けば、王都に戻ってきたあの女伯と、その代筆者についての話題で皆持ち切りだった。
先ほどの貴族たちとの会話を思い出す。
『ハロウズ伯爵、王都に戻ってこられたのなら、社交界には復帰なさらないのかしら?』
『ぜひお会いしたいわよねぇ』
『私のお母様が、伯爵様にお手紙を書いたら、とても美しいお返事がきたと喜んでいたわ!』
『やっぱり三蹟のお手紙は違うのね?』
『それが、ご病気が完治されたわけではないそうで、代筆者を立てたそうなの。その代筆者というのがね……』
ここで女たちはちらちらとジェシカを見ていた。
とっくにこの話の続きなど全員知っているのに、わざわざジェシカの前で改めて噂として話す貴族たちの嫌らしい顔に、唾を吐いてやりたかった。
『リゼット・フェローって、もしかしてジェシカ様の義妹さんのお名前では?』
『義妹さんから、伯爵様のお話何か聞いていませんの?』
『ご家族そろって筆跡が美しいなんて、素敵だわぁ。ところで、先日出したお手紙の返事はいついただけます?』
女たちのあの人を小馬鹿にした顔を思い出すと、怒りで頭がおかしくなりそうだ。
もう皆が気付いている。これまで持て囃されてきたジェシカたちの手紙が、実はすべてリゼットが代筆していたものだったと。
別に代筆がいるのはおかしいことではない。貴族なんてほとんどが、字の上手い元貴族などを雇っていたりするものだ。それを表立って言ってはいないだけで、ジェシカだけでなく皆やっている。
だが、ジェシカの場合はリゼットの筆跡が特に美しかったせいで話題になってしまった。
デビュタント前の妹に代筆させているとは言えず、ジェシカと母は自分で書いているとするしかなかったのだ。
つまり、いまジェシカが貴族たちに馬鹿にされているのは、すべてリゼットのせいなのである。
馬車を飛ばせと御者に命令し、ジェシカが向かった先はフェロー家ではなかった。
デュシャン伯爵邸。門も建物も白さ際立つ邸宅は、今夜ジェシカのエスコートを断ってくれたシャルルが住む家である。
夜も更けているというのに、先触れなく訪問したジェシカに、シャルルはとても迷惑そうな顔をした。
そのことにも腹が立つが、デュシャン伯爵夫妻の前で思うがまま当たり散らすわけにはいかない。
リゼットはシャルルに部屋に入れるよう言ったが「疲れているから」と遠回しに帰れと断られた。仕方なくリゼットのことで話があると言うと、渋々部屋に通される。
結局この男もリゼットのことがないと、ジェシカの話など聞きやしない。
これまで散々利用してきたくせに、と自分のことは棚に上げ、怒りのままジェシカはシャルルの胸倉をつかんだ。
「ねぇ、何でまだリゼットは戻ってこないわけ? 会いに行ったんでしょ? 何で強引にでも連れ戻さないのよ!」
シャルルはうんざりした顔でジェシカの腕をつかみ、振り払った。
長めの前髪をかきわけると「手紙が……」と憂いを帯びた顔で呟く。
「手紙? 手紙が何よっ」
「リゼットに手紙を書いたのに……返事がこない」
この世の終わりかのように言ったシャルルに、ジェシカは頭の中でブチッと何かが切れる音が聞こえた。
「はぁ⁉ 手紙!? 冗談でしょ、手紙書いただけ!?」
「僕が! 僕がリゼットに手紙を書いたんだぞ? あの子が僕に返事を書かないなんてこと、いままで一度もなかった!」
「馬鹿じゃないの⁉ 一回くらい無視されたくらい何よ!」
「一回じゃない! 何回も……何通も書いたんだ」
髪を掻き乱し、シャルルはなぜ返事がないのかとぶつぶつ繰り返す。
その姿にジェシカは自分の心が急速に冷えていくのを感じた。
何なのだ、この情けない男は。こんな男をリゼットから奪ってやったと、自分はいい気になっていたのか。
爵位も継げない、頭も回らない、情けない。こんな男に価値なんか微塵もない。
「……確かに、あの子が手紙の返事をそんなに書かないなんて、変よねぇ」
「そ、そうだろう? あの子は本当に手紙が好きだし、僕が手紙を書いたときは、とても嬉しそうに笑うんだ」
「ええ、わかってるわ。きっと、あの女伯って女狐が、シャルルの手紙を握り潰しているんだわ」
「……ハロウズ伯爵が?」
「リゼットはシャルルから手紙が来ていることを知らないのよ。だから返事がないの。絶対そう」
「そうか……だから、そうだったのか」
シャルルの目に段々と輝きが戻ってくる。
ジェシカは同意を示しながら、心の中で「ほんとちょろいバカ」とシャルルを罵った。
シャルルの手紙がリゼットに届いているのかいないのか、本当のところはわからない。もしかしたらリゼットは手紙を受け取ったうえで、返事を書いていないのかもしれない。
唯一言えるのは、どちらにしろリゼットはもう、シャルルのことなど欠片も想っていないだろうということだ。
今日、夜会では女伯の代筆者の話題の他にもうひとつ、貴族たちを沸かせていた話題がある。
それが“アンベール子爵の恋人”についてだった。
『あの戦場の悪魔と呼ばれるロンダリエ大佐に恋人が出来たらしい』
『私の友人が、王立図書館で愛らしい令嬢と談笑するアンベール子爵を見たと』
『夕日のように鮮やかな髪をした女性だって?』
『あの鉄仮面のような顔の男がデレデレだったと聞いたぞ。一体どこの令嬢が子爵を射止めたんだ?』
どう考えてもそれはリゼットのことだった。
女伯の代筆者も、子爵の恋人も、どちらも正体はリゼット・フェローだ。
社交界に出さず、ずっと家で飼い殺しにしてやろうとしていたリゼットが、いまやデビュタント前だというのに社交界の話題の中心にいるなんて。
心の底から憎らしい。
(絶対に許さない。社交界になんて出させない。あいつの幸せは何がなんでも邪魔してやる)
あのリゼットが自分よりも目立つなんて、ジェシカには許しがたいことだ。
あれは不幸でいなければならない。リゼットが不幸であればあるほど、ジェシカは幸福を味わえるのだ。
リゼットの幸せは、ひとつひとつ潰してやる。その為なら何だって利用するし、自分の手だっていくらでも汚そう。
ジェシカは自分が不幸になることよりも、リゼットが幸せになることのほうが許しがたいのだ。
「……ねぇ、シャルル。もしかしてアンベール子爵の噂、聞いたんじゃないの?」
ふとジェシカが問いかけると、シャルルはわかりやすく肩を揺らした。
やはり王宮でもあのいけすかない軍人の恋人の噂は回っているのだろう。きっと夕焼け色の髪と聞いて、リゼットが思い浮かんだはずだ。
「ねぇ。もしかしたら、女伯と一緒になって、あの男がリゼットを監視しているのかも」
「……そ、そうだろうか」
「そうに決まってる。リゼットがあなた以外の男に心を開くわけないものね?」
「リゼット……そうだ。リゼットは僕がいなきゃダメなんだ。きっと僕に会えなくて泣いているはずだ」
「ああ、かわいそうなリゼット! あの子、シャルルが助けに来てくれるのを待ってるわ。あなたはリゼットにとって王子様だものね」
シャルルの背中を励ますように撫でながら、ジェシカはほくそ笑んだ。
このちょろい男が上手く動くことが出来れば、リゼットを再び邸に閉じこめることが叶うかもしれない。
だがジェシカは他人をそこまで信用したり、期待したりもしない。自分を裏切らないのは自分だけだからだ。
(図書館に出入りしているなら、そこで待ち伏せすればいい)
常にあの軍人が一緒にいるわけではないだろう。
リゼットがひとりになる瞬間もあるはずだ。そこを狙う。
まずは王立図書館に入るための手続きから始めなければならない。あそこは貴族でなければ入れない。その証明のためにはフェロー家の印章と義父の承認が必要だ。
女伯との一件から、義父はジェシカの行動を監視しているような節がある。
突然図書館に行きたいなどと言い出したら不審がられるだろう。どう自然に義父から印章を借りられるか。
方法はいくらでもあるし、演技は得意だ。元商人の娘が貴族の仲間入りをするために、どれだけの擬態が必要だったか。
(リゼット。いまのうちに思い出でも作っておくといいわ)
いま目の前の鏡を見れば、シャルルもいまジェシカの顔がどれほど醜く歪んでいるか気づくことが出来ただろう。
しかし生憎シャルルはリゼットのことで頭がいっぱいで、ついぞ顔を上げることはなかったのだった。
感想に誤字報告、ブクマ&☆☆☆☆☆評価をありがとうございます!