2通目【花の国から】
外から響いてきた蹄の音に、リゼットはメリンダたちの乗った馬車が戻ってきたのだと思った。
何か忘れ物でもしたのだろうか。馬の嘶きが聞こえた所で、そっとエントランスの扉を開けて外を伺ったリゼットは、目の前に停まっていた馬車に驚いた。
決して派手ではないが、装飾が細やかで品のある馬車だ。つないだ鹿毛の馬もたいそう立派で、フェロー家所有の馬車とはまるで違う。
その馬車から降りてきたのは、高級そうな馬車に似合った豪奢な男だった。
豊かな黒髪を軽く後ろになでつけた男は、青い瞳で鋭く周囲に視線を走らせる。
男は黒い軍服を着ていた。肩、襟、胸にいくつも徽章を飾っている。軍人には詳しくないリゼットだが、きっと偉い人だと緊張した。
「ど、どちらさまでしょう……?」
初めて目にする軍人にドキドキしながら声をかけると、威圧感たっぷりに見下ろされた。
目つきは鋭いが凛々しい顔立ち。近衛騎士のシャルルとはまた違う雄々しい美しさだ。まるでおとぎ話に出てくる、戦を司る軍神バランディールのようで、思わずじーっと観察してしまう。
「王国軍中央司令部大佐、アンベール子爵。ウィリアム・ロンダリエだ」
軍人らしい、新入りの部下に対するような角ばった挨拶だ。
思わず敬礼してしまいそうになったリゼットは、慌ててドレスの裾をつまみ頭を下げようとして、インク壺を持っていたことを忘れていた。
「あっ! わ、わ、と、ああ……っ!」
落としかけたインク壺をなんとか受け止めようとして、弾いてしまった壺が磨き上げられた皮のブーツを真っ黒に染めてしまった。
サァッと血の気が引く音がした。お客様に対し、とんでもない失態をしてしまった。
(しかもこの方、いまロンダリエって言った……!)
ロンダリエと言えば、王族の流れを組むかの名門ロンダリエ公爵家しかない。
建国からの忠臣と名高いロンダリエは、代々軍務中心に財務政務に置いても優秀な人材を輩出し、広大な領地に大規模な鉱山地帯を有する、富と権力を有り余るほど持つ王国序列一位の貴族だ。
下級貴族のフェロー子爵家とは縁のない大貴族であることくらい、引きこもりのリゼットでも知っている。
まあ、家に届く手紙の中でも、そのロンダリエについての話題が書かれていることが度々あるから知っているのだが。
つまり、とてもとても高貴な身分の方の靴を汚してしまった。
自分の首が飛ぶのを想像してしまったリゼットは、思わず地面に膝をついた。
「も、申し訳ありません!」
慌ててハンカチでアンベール子爵の靴を拭いたが、革靴に染みこんだインクはまったく落ちそうにない。
涙目になったとき、上から「やめろ」と低い声が落ちてきて肩が跳ねた。
「申し訳ありません……本当に……べ、弁償いたします!」
「必要ない」
「でも……!」
「騒がしいね。何をやっているんだ」
突然、馬車の中からあきれたような声がした。
しっとりと深みのある女性の声にリゼットがハッと顔を上げると、アンベール子爵がエスコートに差し出した手を取る、少し骨ばった白い手が見えた。
軍人にエスコートされ馬車から降りてきたのは、たおやかな、しかし凄みのある淑女だった。
生きていたら母と同じくらいか、それより少し上だろうか。グレイヘアをゆるく結い上げ、ほっそりとした体に沿うドレスを上品に着こなした女性は、宝石のような硬質な美しさをかもし出している。
まるで愛読する小説に出てくる、妖精の女王のようだ。女王は主人公と敵対する黒幕で、悪い魔女でもあるのだが、その強さと気高さがリゼットは大好きなのだ。
「こんばんは。お前がリゼット・フェローだね」
リゼットはぽかんと口を開け放っていることにも気づかず、ただただ目の前の美女に見惚れてしまっていた。
固まるリゼットに、美女と軍人がいぶかしげに眉を寄せ顔を見合わせる。ふたりのそんな様子すら美しい。もう眼福のひとことに尽きた。
迫力のある美女はリゼットを上から下まで眺めて「パッとしないね」と呟く。
「でも私にはわかるよ。お前は磨けば光る。なぜならお前はあの子にそっくりで……リゼット?」
「動きませんね。目を開けながら寝ているのか」
軍人がリゼットの前で手を叩いたことで、リゼットはようやく我に返った。
「はわわ……フィオレンツィア様……!」
「フィオ……? 私はそんな名前ではないよ」
「はっ! も、申し訳ありません! まるで物語に出てくる妖精の女王様のようにお美しいので、つい……」
お客様の前で何たることを、とリゼットは深々頭を下げる。
引きこもりが長いので、家人以外の人と接する機会がほぼないリゼットだ。会話やおもてなしのスキルが著しく低い。客人を目の前に、現実逃避のように妄想を繰り広げてしまうほどである。
恥じ入っていると、美女が考えるそぶりを見せ首をかしげた。
「フィオレンツィア……。トニオンスの作家、ダニエリの“花の国”かい?」
「そ、そうです! 花の国に出てくるフィオレンツィア様が現れたのかと……」
「まあ……あはははは!」
突然美女が弾けるように笑いだした。
たおやかな見た目からは想像もつかない、夜空に響き渡る高らかな笑い声だ。淑女らしからぬ笑い方だが、その豪快さがまた彼女の女王たらしめんとしているようだった。
「はぁ……面白い子だ。それに母親に……セリーヌに似ているね」
懐かしむような呟きに、リゼットはパッと顔を上げた。
「母をご存じなのですか⁉」
「知っているも何も、あの子は私の一番弟子さ」
「えっ? 母が、フィオレンツィア様の弟子……?」
一体何の? とリゼットが大きく首を傾げると、美女は艶やかな笑みを浮かべた。
この世のありとあらゆる生き物すべてを魅了するような、甘い毒を思わせる微笑だった。
「この手紙を書いたのはお前だね?」
「え? これは……」
女王が取り出して見せたのは、少し前にメリンダの名前で出した、貴族夫人への手紙だった。
「ええと……確かに代筆したのは私ですが」
「やはりね。……私はスカーレット・ハロウズ」
「スカーレット・ハロ……ハロウズ!?」
リゼットはその名前に思わず飛び上がった。ロンダリエ公爵家の名前が出てきたとき以上の驚きだった。
スカーレット・ハロウズと言えば、ここルマニフィカ王国の誇る三蹟のひとりではないか。
三蹟とは、最も巧みで美しい筆跡の、優れた能筆者の並称だ。顔ぶれは時代とともに入れ替わり、現三蹟がカヴェニャーク、ラビヨン、そしてハロウズである。
一体どれほど美しい筆跡なのか。彼らが手紙を書けば、きっとそれは芸術品になるのではないか。
そんな風に思い描いていた憧れのひとりが、いま目の前にいる。
特にハロウズと言えば【愛の伝道師】の異名を持つ、リゼットにとって神のような存在だ。
ハロウズの手紙を読めば誰かを愛したくなり、消えかけた恋の灯さえ再び激しく燃え上がるという。
どんな素敵な手紙なのだろう。読みたくて読みたくてたまらない。
「リゼット。お前を助けに来た。……いや、違うな、お前に助けてもらいに来たよ」
「へ……? 私が、フィオレ……ではなくて、ええと」
「スカーレット。ハロウズ伯爵とか女伯などと呼ぶ奴もいるが、私のことは気軽にスカーレットと呼んでおくれ」
親しげにスカーレットが左手を差し出してくる。
リゼットは迷うことなく彼女の手をとり跪くと、その甲に額を寄せて敬服を示した。それが自然で、当たり前のことだと思ったのだ。
が、それまで黙っていたウィリアムに「違う。握手だ」と指摘され、そうだったのかと慌てて立ち上がり手を握ると、スカーレットにまた豪快に笑われたのだった。
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