89通目【道標】
「何だい。しょぼくれた顔をして」
翌々日、淡い黄緑のバラと、可愛らしいピンクの薔薇ジャムを手土産にフェロー家に来てくれたスカーレットは、出迎えたリゼットを見てそう言った。
困った子だねぇ、という心の声が聴こえた気がして、リゼットはちょっぴり泣きそうな気持ちになる。つい、ハロウズ伯爵邸に戻りたいです! と言ってしまいたくなった。
「せっかく代筆の休みを与えたというのに、ウィリアムが一緒に来てほしいなんて言うから、何があったのかと思えば……」
スカーレットをエスコートしているウィリアムが、若干気まずそうな顔をしてそっぽを向く。
そうか。昨日、仕事帰りに様子を見に立ち寄ってくれたウィリアムが、意気消沈しているリゼットを心配して、スカーレットを連れてきてくれたらしい。
受け取った黄緑の薔薇の香りを思い切り吸いこんで、リゼットは笑顔でふたりを応接室に案内した。
「なるほどね。それでリゼットは、子爵としてやっていけるのかと、自信をなくしたわけか」
スカーレットが目の前にいると、ハロウズ伯爵邸に戻ったような安心感に包まれ、つい促されるまま不安を吐露してしまっていた。
スカーレットの庇護下から出て、父は当主の座を降り領地に行ってしまい、誰にも守ってもらえない、むしろ自分が誰かを守るべき立場になったことが、思っていた以上に重く圧しかかっている。
「はい……。私にはその器がないのではないかと。敬語も抜けませんし」
「確かに、使用人に敬語を使う貴族はいないな」
貴族の中の貴族であるウィリアムに言われ、しゅんとする。
「ですよね……」
「だが、他にいないからと言って、それが悪いわけではないだろう」
「……え?」
「敬語を使いたければ使えばいい」
まさかウィリアムがそんなことを言うなんて。思わずぱちぱちと瞬き、彫刻のように整った顔をじっと見返した。
「でも……良いのでしょうか?」
「それで君を嘲る者がいたとしても、君を咎められる者はいない」
「そうだね。誰がどう言おうと、リゼットはフェロー子爵だ。お前の好きにすればいいさ」
スカーレットにまで肯定され、むしろ戸惑ってしまう。良いのだろうか。何だかふたりにとても甘やかされている気がする。
リゼットの心を読んだかのように、ウィリアムは片眉を上げて続けた。
「私は君の、そういった礼儀正しさは嫌いじゃない」
しかめっ面が多いウィリアムの、珍しく優しい表情を見て、心がぽかぽかと温かくなる。
見た目に威圧感があるウィリアムだが、本当は優しい人だととっくに知っている。知っていても、彼の優しさはちょっと心臓に悪い。
今日だって、リゼットの様子を心配してスカーレットを連れて来てくれたのだ。家族でもないリゼットにこんなに優しくしてくれる一面を、戦場の悪魔と彼を恐れる人たちが知ったら、きっと驚くことだろう。
「あ、ありがとうございます……」
いつか、ウィリアムの心遣いに報いたい。リゼットの中に新たな目標がひとつ生まれた瞬間だった。
スカーレットはなぜか眩しいものを見るような目をしたあと「あとは……」と話を進めた。
「考えることが多すぎる、だったね。庭園や邸の内装はリゼットの好きにしたら良い……と言いたいところだが、ゼロから考えるとなると色々迷うのは理解できるよ」
「ス、スカーレットさまぁ~」
「最初はみんなそうさ。邸のことだけじゃない。社交の仕方、進め方、何だって悩むものだ。失敗しないように、上手くやらなければいけないと考える」
まったくその通りだったので、うんうんと前のめりでうなずく。
デビュタントを迎えたばかりの自分が子爵になったのだ。こんなのが貴族の当主なんて出来るのか、と考える人はきっといるだろう。父と交流のあった貴族、取引のある家も不安に思うはずだ。だからとにかくしっかり上手くやらなければと考えてしまう。
「だがそれだと、上手くやるとはどういうことか? という話になる」
「そ、そうなのです! 正解がわからないというか、いえ、父とまったく同じように出来れば正解なのかもしれませんが、それも違うような気がして。そもそも父とまったく同じようになんて出来る気がしませんし……」
「リゼット。こういったことに正解はないんだよ」
「え……? 正解が、ないのですか?」
不安になってウィリアムを見ると、彼も「ないな」とスカーレットに同意する。
「定石のようなものはあるが、正解はない。戦術と同じだ。社交という戦場で、いつも正解が用意されていると思うか?」
「私は戦場には立ったことがないのですが……」
軍神は何かとリゼットを戦場に立たせたがる。頑張って想像しようとはするが、一応リゼットも生まれついての貴族なので、知っているのは創作の中の戦場だけだ。
「そのときの状況を見極め、常に最善の手を考える。戦う相手や場所、己の立場によって変わるんだ。正解なんてものはない。もしあるとしても、それがわかるのはずっと未来のことになるだろう」
「そんな。正解がないのに、みなさんどうやって当主として重要な物事を決めているのでしょう? やっぱり、経験なのでしょうか?」
「経験によって判断することもあるだろうがね。大事なのは、自分の中に基準を作ることだ」
スカーレットは赤く塗られた爪の先で、とんとリゼットの胸を指した。
「基準、ですか?」
「迷うのは、判断をする基準が定まっていないからだ。基準さえあれば、そうそう迷うことはない。リゼットは本当は、すでにそれを知っているはずだよ」
一体スカーレットは何のことを言っているのだろう? 知っているのなら迷うことはないはずなのに。
首を傾げるリゼットの視界に、宝石を砕いたような細かな光が降ってきた。シエルがひらりと舞い降りたのだ。彼はそのまま耳打ちをしてきた。
『手紙のことを言ってるんじゃない?』
「手紙の……?」
『リゼットは手紙のことを決めるとき、あまり迷わないでしょ』
シエルの言葉にハッとした。本当だ。スカーレットの代筆をするとき、王女の指南役になるための試験を受けたとき、どちらのときも重要な選択をしたはずだが、リゼットはほとんど迷わなかった。
あのレターセットやインクで迷うときもあるが、それはどちらがより素敵な手紙になるかじっくり考えているときだ。
そうか。手紙を書くときのように、自分の中に明確な基準があれば、何から手をつけるべきか、どのように選択するか、迷うことはほとんどなくなるのだ。
「すごいわ。どうして私のことがそんなにわかるの?」
『君のことなら多分、君よりよく知ってるからね』
宙で得意げに腕と足を組むシエルに、ふふっと笑う。自分のことをこんなにも理解してくれる存在がいたことを、誰かに感謝したくなった。
「スカーレット様。私がどんな当主になりたいか……子爵となってどんなことがしたいか、それを決めれば良いのですね!」
何だかやる気が出て来たぞと、興奮気味に言うと、スカーレットはよく出来ましたというように笑った。
「それが出来ればあとは慣れだ。やることが山積みなのは変わらないが、予定は執事に相談すれば上手くやってくれるだろう。頑張ってみなさい」
「はい! おふたりとも、ありがとうございます」
シエルと目を合わせて微笑み合っていると「ところで……」と、ウィリアムが軽く咳払いをした。
「リゼット。私には、いま君が誰かと会話をしているように見えたんだが?」
「え? ……あ」
もう一度シエルと顔を見合わせる。そうか、いまシエルの姿はリゼットにしか見えていないのか。
「そうでした! ご報告するのをすっかり忘れていました。実は父を見送った日の夜から、妖精さんが見えるようになりまして」
リゼットが手を差し出すと、シエルが仕方ないなとばかりに、ちょこんと手のひらに乗ってくれる。
大切なリゼットの親友で、相棒で、家族だ。ふたりにはきちんと紹介しなければ。
「シエルって言うんです。とっても可愛い男の子で――」
ウィリアムたちを見ると、ふたりとも目をこれでもかと見開いて固まっていた。
どうしたのだろうと首を傾げるリゼットに、スカーレットが目元を押さえて尋ねてくる。
「妖精が、見えるようになったって……?」
「何でそれを最初に言わない⁉」
「ひぇ⁉ も、申し訳ありません!」
前代未聞だ、生命にも関わる大事なことだぞとふたりに叱られている間、妖精の友だちは「やれやれ」とあきれるだけで助けてはくれないのだった。
9/1発売予定の書籍では1巻の1行目から登場しているシエルなので、100話からのくだりはWeb版のみのものになります。
書籍は書籍、Web版はWeb版でお楽しみいただけますと幸いです!




