88通目【新米当主の朝】
「当主様、お目覚めですか?」
メイドのマノンの声だ。リゼットが返事をすると、銀のカートを押しながらマノンが部屋に入ってくる。洗面ボウルとモーニングティーを持ってきてくれたらしい。継母たちがいた頃、こんな待遇を受けたことは一度としてなかったが、これからはこれが普通になるのだ。
「おはようございます。当主様」
「おはようございます、マノンさん。本当にリゼットで構いませ……構わないわ」
やはり、一晩経っても敬語がなくならない。リゼットは寝起きの頭を抱えたくなった。
マノンは周囲を見回すと、わずかに首を傾げた。何やらいぶかしげな顔をしている。
「どうかしましたか?」
「いえ。何だか話し声が聞こえた気がしたのですけれど……。気のせいだったようですね」
しまった、とリゼットはシエルと顔を見合わせた。
そうか。シエルは他の人には姿が見えないのか。気を付けないなと思いながら、リゼットは「多分私ね」と笑顔で手を挙げる。
「ひとりごとがクセになっていて。これからもひとりでぶつぶつ言っていることがあると思うけど、気にしないでくだ……気にしないで」
「リゼット様……」
なぜか痛ましげな顔をしたマノンが、がしりと手を握ってくる。
「これからは、私たちがいつでも話し相手になりますから! 遠慮なくお呼びくださいませ!」
「え? え、ええ。ありがとうございます……?」
一体どうしたのだろう。不思議に思いながらもうなずくと、マノンは満足そうにうなずいて朝の仕度の準備を始める。
首を傾げるリゼットに、シエルが『同情したんじゃない?』と教えてくれた。どうやら、リゼットがこれまで継母たちに虐げられ、話し相手もいない孤独な生活をしていたのだと、マノンは改めて感じたようだ。
間違ってはいないのだが、何だか嘘をついてしまったことが心苦しい。いや、シエルのことは上手く説明できないので仕方ないのだが。何せこの可愛い友人は、リゼット以外には姿が見えないようだから。
身支度を終えて食堂に向かうと、すっかり朝食が準備されていた。
焼きたての良い匂いがするパンに、エッグスタンドに乗った半熟卵。トマトとチーズのサラダに、リゼットの好きなハムもある。
食卓につくのがリゼットひとりだけ、という事実を除けば、理想的な朝食の風景だった。
「リゼット様。本日は外出のご予定はございませんか?」
執事のモーガンに尋ねられ、リゼットはパンをちぎりながら「ええ」とうなずく。
「色々大変だろうからと、王女様とスカーレット様からは一週間のお休みをいただいたんです。だから今日は、爵位を継承した旨の、ご挨拶の手紙をたくさん書くつもりでした。他にも今日しておいたほうが良いことはありますか?」
「急ぎではございませんが、邸を整えることは、並行して進めたほうがよろしいかと」
「そうですね。客間は先に整えておきたいです。色々処分したとは言っても、昔使っていたものもあるし、特に不足のものはないと思うので……思うんだけど」
「もちろん、これまで使っていたものはありますけど、リゼット様がご当主になられたのですから、雰囲気を一新したほうが良いかもしれませんねぇ。これからお客様をお招きすることも増えるでしょうし、印象は大切ですよ」
給仕をするマノンが「若々しく明るいファブリックで統一するなんていかがです?」と言うので、リゼットはなるほどと食堂のカーテンを見た。
確かに、ファブリックは父の好みなのか暗めの色が多い。調度品は継母の好みか、派手目の物が段々と増えていったように思う。リゼットの好みとは違うので、変えても良いのならそうしたい。
だが、いきなりファブリックをすべて買い替えるとなると、それなりに費用もかかる。当主になって早々、そんなに散財してしまって良いのだろうか。
「取引したい商会があれば使いをやりましょう。特になければ、これまで付き合いのあった商会から選びますが、いかがなさいますか?」
「ええと……特に、この商会というこだわりはなくて……」
「邸の中だけでなく、外もですね。庭をどのようにするか、希望はございますか?」
「えっ? に、庭もですか?」
「貴族の邸宅の庭は、女主人によって決まることがほとんどです。いまの庭は、元子爵夫人の好みで作られたのでしょう。セリーヌ様がいらした頃とはかなり変わっているようですから」
『そうだね。あの頃とはだいぶ違うよ』
僕の好みではないかな、とシエルがテーブルの苺をかじりながら言う。
確かに、おぼろげだが母が生きていた頃は淡い色合いの花が多く、自然な雰囲気の庭だったような気がする。いまの庭はと言うと、赤や紫などはっきりとした色合いの花が整然と並び、小さなトピアリーや彫刻などが見栄えよく飾られている。美しくはあるが、少々温かみには欠けるかもしれない。
邸の中も外も、リゼットの好きなように整えようとモーガンたちは言ってくれた。嬉しいし、楽しみではるのだが、何というか――。
(困ったわ。何からどう手を付けたら良いのか、さっぱりわからない!)
貴族の当主のやるべきことは、父からひと通り教わったはずだ。だがやるべきことと、考えなければならないことは、微妙に違う。やるべきことをやるためには、考えなければいけないことがその何倍もあるようだ。
邸のこと、社交のこと、仕事のこと。じっくり考えたいのにとてもではないが時間が足りない。
お父様、聞いてません! とリゼットは父のいる領地に向かって叫びたくなった。
「あとはお洋服もですねぇ」
「確かに。貴族家当主らしい装いもいくつか用意すべきでしょうね」
「お、お洋服まで……?」
ウィリアムに選んでもらい、スカーレットに買ってもらった服がたくさんあるというのに、それではいけないのだろうか。貴族家当主らしい装いとは一体?
「仕立屋はどこになさいますか?」
「ええと、このドレスは【蝶の軍服】で仕立ててもらったものなんですけど……」
「まぁ、蝶の軍服! 王室御用達の名店ですね!」
「店主の選り好みが激しく、オーダーするのが難しいと有名な店ですが、すでに贔屓にしているとなれば話は別です。早速遣いを出しましょう」
贔屓にしているというか、スカーレットの紹介だったからこそ入れた店なのだが。
それを説明したくても、次から次へと決めなくてはならないことを挙げられるので、それを聞くだけで精一杯で朝食の時間はあっという間に過ぎていってしまった。
朝食を済ませ、執務室に入ったリゼットは、文机に手をつきうなだれた。
本当にやることが山積みだ。邸の内装に庭園の整備だけでも、考えるだけで頭がパンクしそうになる。
好きな色や柄、憧れるイメージなんかはたくさんある。スカーレットのお邸は中も外も見事だし、ロンダリエ公爵家の伝統的で格式高い雰囲気も素晴らしかった。王女宮の、レオンティーヌにぴったりな華やかで可愛らしい色使いも素敵だと思う。
だが、自分らしい邸にするとなると話は別だ。良いと思うものが溢れすぎて決められない。すべて取りこんだとしたら、統一感のないちぐはぐな印象の邸になってしまいそうである。
「レターセットやインクを選ぶのは、楽しいしすぐに決められるのに」
『同じじゃない? 気に入らなければ変えれば良いじゃない』
平然とそんなことを言うシエルのほうが、まるで生粋の貴族のようだ。頭に小さな王冠があるので、王族と言ったほうが良いだろうか。
「まぁ。そう簡単にはいかないわ。手間もお金もかかるんだもの。私が選んでも、実際に作業をしてくれるのは使用人のみんななのよ」
『それが貴族なんでしょ。喜んでやってくれると思うけどね』
「そうかもしれないけど……」
何度も手伝わせることになるのは彼らに悪い。だが貴族ならばそういった感覚は本来不要なのだろう。当主ともなれば、彼らに指示を出し動かすことが当たり前になる。
わかってはいる。貴族家当主とはそういうものだ。それがいけないことだとは思わない。でもリゼットにはまだまだその覚悟は持てそうになかった。
「当主様とか、ご主人様って呼ばれるのも落ち着かないし、かしずかれるのも慣れないんだもの。敬語だって抜けないのに、命令や指示を出すなんて、とてもできないわ」
『貴族の娘なのに、全然かしずかれてこなかったもんね』
「そうそう……って、もう! シエルったら他人事だと思って。私、本気で悩んでるのに」
『悩んだところで、リゼットが当主だってことは変えられないでしょ』
「むぅ……」
シエルの言う通りだ。正論過ぎて何も言い返せない。
結局、リゼットが覚悟を決めるしかないと彼は言いたいのだろう。それだってわかってはいるのだが、わかってはいてもどうしても迷ってしまう自分がいる。
当主になんてなりたくはなかった。向いているはずがない。やめてしまいたい。そんな本音が隙あらば口から飛び出そうとする。
貴族らしい貴族にはなりたくない。かといってすべて投げ出すような人間にもなりたくない。
「うーん……」
頭を抱えてうなるリゼットを、シエルはやれやれとあきれたように見てくる。
出来ることなら、妖精の手も借りたいほどなのだが。
「私、本当に子爵なんてやっていけるの……?」
初日の朝にして、新米当主はくじけかけていた。
蝶の軍服、覚えていらっしゃるでしょうか?
ムキムキ紳士のデイヴィットのお店ですよ!




