第三話 ヒロインは話を聞かない
マイナが学園に入学してきたのは、春の盛りのことだった。
淡い金色の髪に、きらきらとした大きな瞳。小柄な身体に、どこか庇護欲を誘うような仕草。成程、ゲームの立ち絵そのままだった。
「はじめまして! マイナと申します。皆様と仲良くなれたら嬉しいです!」
彼女は教室の前で、ぱっと花が咲くように笑った。
周囲の令嬢たちが微笑み返す。男性陣も、彼女の愛らしさに目を留めていた。
わたくしは、思わず身構えた。
ついに来た。ゲームのヒロイン。
彼女が攻略対象たちと親しくなり、わたくしを悪役に仕立て上げる。そうして、卒業パーティーで断罪イベントが起こるのだ。
――いいえ。
わたくしは、そっと息を吐いた。彼女がゲームのヒロインであることと、彼女が現実で何をするのかは、別の話だ。わたくしはまだ、彼女のことを何も知らない。
そう自分に言い聞かせた。
しかし、マイナと顔を合わせるたび、わたくしは妙な疲労を覚えることになった。
「サイラス殿下ぁ、今日はお昼をご一緒できませんか?」
昼休み、マイナはサイラスの執務室前で、首を傾げながら尋ねていた。
「すまないね。今日は午後の会議に向けた資料を確認しなければならないんだ」
「ええっ、そうなんですかぁ? 残念です……」
マイナはしゅんと肩を落とした。
「でも、少しだけでもお話し出来ませんか?」
「今は難しいね。急ぎの仕事なんだ」
サイラスは穏やかに答えた。彼女を突き放すでもなく、必要以上に優しくするでもなく、ただ予定を説明している。それだけだった。けれど、マイナはわたくしを見た。
「……レイチェル様がいらっしゃるから、私とはお話ししてくださらないんですね」
「え?」
「だって、レイチェル様がいらっしゃると、殿下はいつもお忙しいんですもの」
彼女の瞳が潤んだ。ああ、これだ。ゲームで何度も見た場面。ヒロインが涙ぐみ、攻略対象が彼女を庇い、悪役令嬢のわたくしが嫉妬深い女として描かれる。
その展開が頭をよぎった瞬間、わたくしは反射的に口を開きかけた。けれど、先にサイラスが言った。
「マイナ嬢。私は、先ほど会議の資料を確認しなければならないと説明したはずだよ」
「でも……」
「君と話したくないと言ったわけではない。今日は時間が取れないと言っているんだ」
「そんな……私、ただ殿下とお話ししたかっただけなのに」
「その気持ちは分かったよ。けれど、仕事の予定を変えることは出来ない」
サイラスは、そこで会話を終えようとした。
しかし、マイナは納得しなかった。
「レイチェル様は、いつでも殿下とご一緒できるんですよね。婚約者だからって、ずるいです……」
その言葉に、わたくしの胸がざわついた。
ずるい。婚約者だから。その言葉を聞いた瞬間、ゲームの台詞が頭の中で重なった。このあと、マイナは周囲に訴えるのだろう。レイチェルが王太子を独占している。自分は仲良くなりたいだけなのに、邪魔をされている。そして、わたくしは彼女を排除しようとしている悪役令嬢になる。
けれど。まだ、何も起きていない。今、目の前で起きているのは、マイナがサイラスの説明を受け入れられず、わたくしに不満をぶつけているということだけだ。
わたくしは、彼女に向き直った。
「マイナ様」
「……何でしょうか?」
彼女は警戒するようにわたくしを見た。
「殿下は、公務がおありだと仰いましたわ。あなたは、そのお話を最後までお聞きになりましたか?」
マイナは目を見開いた。
「だって、私、ただ殿下とお話ししたかっただけなのに!」
「ええ。お話ししたかったというお気持ちは分かりますわ」
「だったら……!」
「けれど、お話ししたいというお気持ちと、殿下があなたのために時間を作らなければならないということは、別のお話ですわ」
マイナの頬が赤くなった。
「レイチェル様は、私が嫌いなんですね!」
その言葉を聞いた瞬間、わたくしは息を呑んだ。
嫌い。彼女は、わたくしが自分を嫌っていると決めつけた。わたくしの言葉を聞くこともなく。わたくしの気持ちを尋ねることもなく。ただ、自分が責められたと感じたから。
――ああ。わたくしは、彼女と同じことをしていたのだ。サイラスが何を考えているのか、尋ねなかった。デリックがなぜ距離を取るのか、知ろうとしなかった。アレンやゴドフリーが何を思っているのか、聞こうともしなかった。ただ、いつか自分を裏切るのだと決めつけていた。
マイナは、自分が嫌われていると決めつける。わたくしは、自分が裏切られると決めつける。違うのは、思い込みの内容だけだった。
「マイナ様」
わたくしは、出来るだけ落ち着いた声で言った。
「わたくしは、あなたを嫌うために、ここにいるわけではありませんわ。ただ、今の殿下のお言葉を、正しく受け取っていただきたいと思っただけです」
「……っ」
「わたくしの言葉が不快だったのなら、そのことはお聞きします。けれど、わたくしがあなたを嫌っているかどうかは、わたくし自身に尋ねてくださいませ」
マイナは口を開きかけて、閉じた。そして、潤んだ目でサイラスを見た。
「殿下……」
サイラスは、彼女を見つめ返した。
「マイナ嬢。君が私と話したいと思ってくれることは、ありがたいよ。ただ、私にも予定があり、都合がある。それを理解してもらえると助かる」
「……はい」
マイナは小さく頷いた。それでも、納得したようには見えなかった。彼女はその場を去っていった。
わたくしは、ほっと息を吐いた。
ゲームのイベントなら、ここで攻略対象の誰かが彼女を追いかけるはずだった。けれど、誰も追いかけなかった。サイラスは執務室に戻り、わたくしは授業へ向かった。それだけだった。
その日の放課後、わたくしは図書室でゴドフリーと顔を合わせた。
「マイナ嬢と何かあったそうですね」
「もう耳に入っているの?」
「学園は狭いですから」
ゴドフリーは本を閉じた。
「彼女は、レイチェル嬢に意地悪をされたと話していたようですが」
胸がひやりとした。まただ。ゲームなら、ここから話が大きくなっていく。わたくしの言動が歪められ、いつの間にか悪意あるものとして扱われる。
「……わたくしは、殿下のお言葉を正しく受け取っていただきたいと申し上げただけですわ」
「成程。では、何があったのか、確認しておきましょう」
ゴドフリーは淡々と答えた。
「確認、ですか?」
「ええ。話を聞いたのなら、双方の話を聞くべきでしょう。片方の言い分だけで判断する理由はありませんから」
わたくしは、彼を見つめた。ゲームのゴドフリーは、断罪の場でわたくしの罪状を並べる人物だった。けれど、目の前の彼は、ただ事実を確認しようとしている。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではありませんよ。当然のことです」
彼は本を開き直した。
「それより、レイチェル嬢。最近、何か変わりましたね」
「そうかしら」
「ええ。以前より、人の話を聞くようになった」
「……以前のわたくしは、そんなにひどかったかしら?」
「ご自分でお考えください」
ゴドフリーは、ほんの少しだけ笑った。わたくしも、つられて笑ってしまった。その瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
わたくしは、マイナに勝ったわけではない。彼女を追い払ったわけでも、攻略対象たちを味方につけたわけでもない。ただ、目の前で起きたことを見て、聞いて、自分の言葉で対応しただけだ。
それなのに、ゲームの筋書きから少しだけ自由になれた気がした。
数日後、廊下でマイナとすれ違った。彼女はわたくしを見ると、少しだけ身構えた。わたくしも、どう声をかけるべきか迷った。
無理に仲良くする必要はない。彼女を理解しようと努力することと、彼女の全てを受け入れることは違う。
だから、わたくしは軽く会釈した。
「ごきげんよう、マイナ様」
「……ごきげんよう」
彼女は戸惑ったように会釈を返した。それだけだった。けれど、それでいいのだと思った。
わたくしは、彼女を悪役にする必要も、聖女にする必要もない。彼女は彼女で、わたくしはわたくしだ。それぞれが、自分の言葉と行動に責任を持って生きていけばいい。
帰り際、サイラスがわたくしに声をかけた。
「レイチェル、少し時間はあるかな?」
「はい。もちろんですわ」
「では、庭を歩かないか。君に見せたい花があるんだ」
「花、ですか?」
「ああ。以前、君が好きだと言っていた花だよ」
わたくしは目を見開いた。それは、幼い頃に一度だけ話したことのある花だった。覚えていてくださったのだ。ゲームの設定ではなく。わたくし自身の言葉を。
「……ぜひ、ご一緒させてくださいませ」
差し出された手を、わたくしは取った。
今度は、攻略対象の好感度が上がったなどとは思わなかった。ただ、サイラスがわたくしのために時間を作ってくれたことが、嬉しかった。




