第四話 物語の外で、あなたと
卒業パーティーまで、あと一か月。その知らせを聞いたとき、わたくしの胸に、あの場面が蘇った。
豪奢な会場。煌めくシャンデリア。人々の視線が集まる中央で、サイラスがわたくしを断罪する。マイナが涙を浮かべ、アレンとゴドフリーが証言し、デリックまでもが姉を見限る。そして、わたくしは全てを失う。
何度も思い描いた未来だった。
けれど、今は少し違う。サイラスは、わたくしの話を聞いてくれた。デリックは、以前より気軽に話しかけてくれるようになった。アレンは相変わらず無遠慮で、ゴドフリーは相変わらず理屈っぽい。
そして、マイナは相変わらず、自分の期待どおりに物事が進まないと戸惑う。
誰も、ゲームの筋書きどおりに生きてはいなかった。それでも、恐怖が完全に消えたわけではない。むしろ、現実を現実として見るようになったからこそ、解らないことが増えた。
サイラスが本当は何を考えているのか。マイナがこれから何をするのか。卒業パーティーで何が起きるのか。何ひとつ、確実なことはない。それが怖かった。
けれど、解らないからこそ、確かめることが出来る。わたくしは、そう考えるようになっていた。
事件が起きたのは、卒業パーティーの一週間前だった。
学園で、卒業生への記念品を保管していた部屋から、王家に関わる古い装飾品がなくなったのだ。それは、王太子であるサイラスが卒業生代表として身につける予定の、王家の紋章をあしらったブローチだった。
大きな騒ぎになった。学園の管理責任が問われ、教師たちが保管記録を調べ始めた。
そして、その日の夕方。マイナが、わたくしの前に現れた。
「レイチェル様!」
彼女は息を切らし、目に涙を浮かべていた。
「私、見たんです!」
「何をですの?」
「レイチェル様が、あの部屋に入っていくところを!」
周囲にいた生徒たちが、ざわめいた。わたくしの背筋が凍った。あまりにも、ゲームに似ていた。身に覚えのない罪を着せられ、ヒロインが証言し、攻略対象たちがわたくしを追い詰める。
断罪イベント。その言葉が、頭の中に浮かんだ。
けれど、わたくしは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。今、わたくしが知っていることは何だろう。マイナが、わたくしを見たと言っている。それだけだ。
彼女が嘘をついているのか、勘違いしているのか、それとも本当にわたくしを見たのか。まだ判らない。
「マイナ様」
わたくしは彼女を見つめた。
「あなたは、わたくしがいつ、その部屋に入ったのをご覧になったのですか?」
「え……?」
「何時ごろでしたか。どの入口から入ったのか、覚えていらっしゃいますか?」
マイナは戸惑ったように瞬きをした。
「そ、それは……午後のお茶の時間より少し前です」
「どちらの入口でしたか?」
「廊下側の……たぶん」
「たぶん、ですのね」
「だって、私、レイチェル様が入っていくところを見たんですもの!」
彼女の声が大きくなった。
「私、嘘なんてついていません!」
「嘘だとは申し上げておりませんわ」
わたくしは、努めて静かな声で答えた。
「ただ、事実を確認したいのです。あなたが見たものと、実際に起きたことが同じなのか。それを確かめなければ、誰かを責めることは出来ませんでしょう?」
「……っ」
マイナは唇を噛んだ。
そこへ、サイラスがやってきた。
「何があったんだい?」
マイナはすぐに彼の方を向いた。
「殿下! 私、レイチェル様がブローチを盗んだのを見たんです!」
「盗んだところを見たのかい?」
サイラスの問いに、マイナは一瞬、言葉を詰まらせた。
「……部屋に入っていくところを、見ました」
「それは、盗んだところを見たということとは違うね」
サイラスは淡々と言った。
「君が見たことと、君が推測したことを分けて話してほしい」
「でも、レイチェル様は……!」
「マイナ嬢。君が困っていることと、君の言い分が正しいことは同じではないよ」
その言葉に、わたくしは息を呑んだ。サイラスは、わたくしを見た。
「レイチェル。君も、何か説明したいことがあるかな?」
「わたくしは、その部屋に入っておりませんわ」
「分かった。では、確認しよう」
それだけだった。
彼は、わたくしを信じるとも、疑うとも言わなかった。ただ、事実を確認すると言った。その姿を見て、わたくしは胸が熱くなった。
彼は、わたくしを無条件に庇ってくれたわけではない。けれど、無条件に疑ったわけでもない。わたくしを一人の人間として扱い、わたくしの言葉を聞こうとしてくれている。
それが、どれほど大切なことなのか。今のわたくしには、よく分かった。
調査には、ゴドフリーも加わった。彼は保管記録と、当日の部屋の出入りを確認した。アレンは、当日の廊下を通った生徒たちに話を聞いた。デリックも、記念品の運搬を手伝った生徒の一人として、事情を説明した。わたくしも、覚えている範囲で当日の行動を伝えた。
その結果、いくつかのことが分かった。
まず、ブローチが最後に確認された時間は、マイナがわたくしを見たと主張する時間よりも前だった。そして、その時間帯に、わたくしは別の場所で教師と面談をしていたことが記録に残っていた。
さらに、ブローチを保管していた部屋には、記念品の準備を担当する生徒たちが出入りしていた。マイナが見た人物が、本当にわたくしだったのかどうかも、確かではなかった。
「私、レイチェル様だと思ったんです……」
調査の場で、マイナは小さな声で言った。
「遠くから見て、髪の色も似ていて……だから、きっとそうだって」
「マイナ嬢」
サイラスは静かに言った。
「君がそう思ったことは分かった。けれど、思ったことと、確かめたことは違うんだ」
「……はい」
「今回の件については、引き続き確認する。君も、何か新しいことを思い出したら報告してほしい」
マイナは俯いた。
わたくしは、彼女を見ていた。怒りがないわけではなかった。自分が盗みをしたと疑われたのだ。もし証拠が見つからなければ、わたくしはどれほど傷ついていたことだろう。
けれど、彼女が意図的にわたくしを陥れようとしていたとも思えなかった。彼女は、自分が見たと思ったものを、疑わなかったのだ。自分の推測を事実だと信じ込んでしまった。
それは、わたくしがずっとしてきたことと、よく似ていた。
「マイナ様」
わたくしは、彼女に声をかけた。
「わたくしは、ブローチを盗んでおりません。そのことは、はっきり申し上げます」
マイナは顔を上げた。
「……はい」
「あなたがわたくしを見たと思ったことは、あなたの記憶なのでしょう。けれど、記憶が正しいとは限りません。わたくしも、あなたも、思い込みで間違えることはあるのですわ」
彼女は、何か言いたそうに唇を動かした。けれど、結局、何も言わなかった。
ブローチは、翌日、記念品の箱を整理していた教師によって発見された。保管場所を移した際、別の箱に紛れ込んでいたのだという。盗難そのものが起きていなかったと分かり、学園は騒ぎの収束を発表した。
マイナは、わたくしに謝罪した。
「レイチェル様、ごめんなさい。私、ちゃんと確かめなかったのに、決めつけてしまって……」
彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「私、レイチェル様に嫌われていると思っていたから……だから、レイチェル様なら、そういうことをするかもしれないって……」
わたくしは、少しだけ目を伏せた。
「わたくしがあなたを嫌っていると思ったのは、なぜですの?」
「だって……私が殿下に話しかけると、レイチェル様はいつも……」
「いつも?」
マイナは言葉に詰まった。
わたくしは、彼女の返事を待った。彼女が自分の気持ちを話すのを、遮らずに。やがて、彼女は小さく言った。
「……私、殿下と仲良くなりたかったんです。レイチェル様が婚約者だって分かっていたけど、殿下は優しいし、もっとお話ししたいと思って……」
「そう」
「でも、殿下にはお忙しいって断られるし、レイチェル様には注意されるし……私、嫌われているんだと思って」
「嫌われていると感じたのね」
「……はい」
わたくしは、頷いた。
「そのお気持ちは、分かりましたわ。ただ、わたくしがあなたを嫌っているかどうかと、あなたが殿下とお話ししたいと思うことは、別のお話です。そして、殿下があなたの誘いを断ることも、必ずしもあなたを嫌っているという意味ではありません」
マイナは黙って聞いていた。
「あなたには、あなたのお気持ちがある。殿下には殿下のお気持ちがある。わたくしにも、わたくしの気持ちがあるのですわ」
「……はい」
「だからこそ、解らないことは、尋ねなければならないのだと思います」
マイナは、涙を拭いた。
「私、ちゃんと聞くようにします」
それが本当に出来るようになるのかは、判らない。明日になれば、また自分の思い込みで行動してしまうかもしれない。それでも、今の彼女は、自分が間違えたことを認めていた。わたくしは、それ以上を求めなかった。
謝罪を受け入れることと、彼女と親しくなることは違う。
わたくしは、彼女を許すと決めた。けれど、それは彼女の全てを肯定するという意味ではない。
これからも必要なら、意見を伝えるだろう。彼女が誰かを傷つけたなら、そのことを指摘するだろう。
そして、わたくし自身も、間違えたときには謝ろう。
それでいいのだと思った。
卒業パーティーの当日。
会場には、色とりどりのドレスと、磨き上げられた靴が並んでいた。シャンデリアの光が、天井の装飾を輝かせている。
わたくしは、サイラスの隣に立っていた。
ここは、ゲームのラストイベントの舞台だ。かつてのわたくしなら、周囲の人々の顔を見るたび、彼らが自分を断罪する未来を思い浮かべていただろう。
けれど、今は違う。
デリックは、少し離れたところで友人たちと話している。アレンは、相変わらず姿勢が悪いとゴドフリーに小言を言われていた。ゴドフリーは、その小言を言いながらも、アレンが手に持っているグラスを落とさないよう、さりげなく支えていた。マイナは、同級生の少女たちと談笑している。
彼女が何を考えているのか、わたくしには解らない。けれど、解らないことは、解らないままでいい。
わたくしは、彼らを見た。それぞれに人生があり、考えがあり、気持ちがある。わたくしの知らないところで、彼らは笑い、悩み、迷い、選んでいる。
そのことを、漸く理解できた気がした。
「レイチェル」
サイラスが声をかけた。
「はい、殿下」
「緊張している?」
「……少しだけ」
「そうか。実は私もだよ」
意外な言葉に、わたくしは目を丸くした。
「殿下も?」
「もちろん。こういう場は何度経験しても、慣れないことがあるからね」
彼は苦笑した。
「以前の君なら、私が緊張していると言ったら、驚いただろうね」
「……そうかもしれません」
「今は?」
わたくしは、少し考えた。
「今は、殿下も緊張なさるのだと知ることが出来て、嬉しく思います」
サイラスは、驚いたようにわたくしを見た。それから、柔らかく笑った。
「そう言ってもらえると、私も嬉しいよ」
楽団の演奏が始まった。卒業生たちが踊り始め、会場の空気が華やいでいく。サイラスが、わたくしに手を差し出した。
「一曲、踊っていただけますか?」
「喜んで」
わたくしは、その手を取った。彼の手は温かかった。音楽に合わせて歩きながら、わたくしは彼を見上げた。
「殿下」
「何かな?」
「婚約について、お話ししたいことがございます」
サイラスの表情が、少しだけ真剣になった。
「聞かせてほしい」
「わたくしは、これまで婚約を解消したいと思っておりました。あなたがわたくしを裏切ると信じていたからです」
「うん」
「けれど、今は違います。あなたが絶対にわたくしを裏切らないと分かったからではありません」
彼の手を握る指に、少しだけ力がこもった。
「わたくしは、あなたのことを知りたいのです。あなたが何を考え、何を望み、何を大切にしているのか。これから先、何度でもお話しして、知っていきたいと思っております」
サイラスは、黙ってわたくしの言葉を聞いていた。
「ですから、もし殿下がまだわたくしとの婚約を続けたいと思ってくださるのなら……わたくしは、もう一度、あなたの婚約者になりたいのです」
言い終えた瞬間、心臓が大きく鳴った。怖かった。彼が、もうわたくしを選ばないと言うかもしれない。わたくしの言葉を、受け入れてくれないかもしれない。
けれど、それでも、わたくしは彼の返事を待った。サイラスは、暫くわたくしを見つめていた。そして、ゆっくりと笑った。
「それなら、これから知っていけばいい」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。
「私も、今の君を知りたいからね」
「……殿下」
「ただし、ひとつお願いがある」
「何でしょう?」
「これからは、私が何か失敗したときも、ちゃんと教えてほしい。君は正しいと思ったことを、きちんと言葉に出来る人だからね」
「……ええ」
「それから、私も君に言うよ。君が間違えたときは、きちんと伝える。君が自分を責めすぎているときも、伝える」
わたくしは笑った。
「それは、少々厳しい婚約者になりそうですわね」
「お互い様だよ」
サイラスも笑った。
その笑顔を見て、わたくしは思った。この人のことを、わたくしはまだ何も知らない。彼がどんな本を好むのか。どんな料理が好きなのか。何を怖いと思い、何を嬉しいと思うのか。
これから先、何度も話して、何度も驚いて、時には意見が食い違うこともあるだろう。そして、そのたびに、わたくしは彼を知っていくのだ。
ゲームの中のサイラスは、わたくしを断罪する攻略対象だった。けれど、目の前のサイラスは、わたくしの言葉を待っている。
わたくしはもう、彼の未来を知っているつもりにはならない。だって、これから先の彼のことを、わたくしはまだ何も知らないのだから。
数日後、わたくしはサイラスと庭を歩いていた。春の花が咲き、柔らかな風が吹いている。
「そういえば、レイチェル」
「はい?」
「以前、君が話してくれたゲームのことだけれど」
「……はい」
「その物語では、私はどんな人間だったのかな」
わたくしは、少しだけ考えた。
「穏やかで、優しくて、少し卑屈で……ヒロインに、自分の本当の姿を見てほしいと思っている人でしたわ」
「成程。今の私と、似ているかな?」
「そうですわね……」
わたくしは、彼の横顔を見た。
「似ているところもございます。でも、違うところもたくさんありますわ」
「例えば?」
「ゲームのサイラスは、いつも微笑んでいました。けれど、あなたは寂しいときには寂しいと仰いますし、傷ついたときには傷ついたと仰います」
「それは、君が私にそうさせてくれたのかもしれないね」
サイラスは少し照れたように笑った。
「以前は、君に何を言っても、届いていないような気がしていたから」
わたくしは、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
「……ごめんなさい」
「うん。もう聞いたよ」
「それでも、何度でも謝りたいのです」
「では、私も何度でも言うよ。君がこれから、私を見ようとしてくれるなら、私も君を見ていく」
サイラスは、わたくしの手を取った。
「一度の失敗で、全てが終わるわけではないからね」
わたくしは、その言葉を胸に刻んだ。
ゲームには、エンディングがあった。選択肢を選び、好感度を上げ、最後には誰かと結ばれる。
けれど、現実には、明確なエンディングなどないのだろう。今日の選択が、明日の全てを決めるわけではない。一度の失敗で、関係が全て壊れるわけでもない。
そして、誰かと結ばれたからといって、その人の全てを理解できるわけでもない。わたくしたちは、これからも何度も間違えるだろう。そのたびに話し合い、謝り、許し、少しずつ相手を知っていくのだ。
「殿下」
「何かな?」
「わたくし、あなたのことをもっと知りたいですわ」
サイラスは、嬉しそうに笑った。
「それなら、まずは私の好きな花から教えようか」
「ぜひ、お願いいたします」
彼が指さした先には、小さな白い花が咲いていた。わたくしは、その花を見つめた。名前も、咲く季節も、まだ知らない。
けれど、これから知っていけばいい。
目の前にいる人のことも。この世界のことも。そして、わたくし自身が、どんな未来を望んでいるのかも。
物語の中では、わたくしは悪役令嬢だった。けれど、物語の外では、わたくしはわたくしの人生を生きている。
それならば、これから先のページには、わたくし自身の言葉を綴っていこう。
誰かが決めた筋書きではなく。誰かが用意した結末でもなく。目の前の人と、向き合いながら。
わたくしは、サイラスの手を握り直した。
春の風が、ふたりの間を吹き抜けていった。そして、わたくしたちは、まだ名前も知らない未来へと歩き出した。




