第二話 攻略対象は人間です
翌朝、わたくしは義弟のデリックに声をかけた。
「デリック、少しお時間をいただけるかしら」
「……僕に、ですか?」
デリックは目を丸くした。その反応だけで、自分がどれほど彼を驚かせたのかが解った。以前のわたくしなら、彼を呼び止めることはあっても、こんなふうに尋ねたりはしなかった。
彼は父が家を継がせるために迎えた養子であり、わたくしの義弟だ。ゲームでは、わたくしを断罪する攻略対象の一人。その情報だけを理由に、わたくしは彼と距離を取っていた。家族として接することさえ避けていた。
「ええ。今、少しよろしいかしら」
「……はい。もちろん」
デリックは戸惑いながらも、わたくしの隣に腰を下ろした。近くで見ると、彼の表情には困惑だけでなく、僅かな緊張もあった。
「デリック。わたくし、あなたに謝らなければならないことがあるの」
「謝る?」
「これまで、あなたに対して不自然な態度を取っていたでしょう。理由も説明せずに避けたり、話しかけられても必要以上に冷たくしたり」
デリックは暫く黙っていた。
「……僕が、何か失礼なことをしたのかと思っていました」
その言葉に、胸が痛んだ。彼は、わたくしに嫌われていると思っていたのだ。当然だろう。わたくしは、そう思わせるように振る舞ってきたのだから。
「いいえ。あなたに非はないわ。わたくし自身の問題だったの」
「そう、ですか」
「すぐに今までどおりに接してほしいとは言わないわ。ただ、これからはきちんとお話ししたいと思っているの」
デリックは困ったように笑った。
「……解りました。僕も、姉上と普通に話せるなら嬉しいです」
その言葉を聞いて、わたくしは思った。この子は、わたくしを断罪するために生きているわけではないのだ。当然のことだった。けれど、わたくしには、その当然のことが解っていなかった。
その日の午後、わたくしは父と母にも謝罪した。ふたりは驚いていたが、責めることはしなかった。ただ、母はわたくしの手を握り、心配そうに尋ねた。
「レイチェル、何か悩みがあるのなら、話してちょうだいね」
その言葉に、わたくしは泣きそうになった。ゲームでは、わたくしの両親は娘を見捨てる。だから、わたくしは両親が何を言っても、心のどこかで信じていなかった。
けれど、目の前の母は、わたくしの手を握っている。その温もりまで、ゲームの設定に書かれていたわけではない。わたくしは、初めて自分の思い込みを恥じた。
数日後、学園でアレンに呼び止められた。
「レイチェル、最近どうしたんだ?」
騎士団長の息子であるアレンは、幼い頃からの友人だ。
「どう、とは?」
「いや……前は、俺が話しかけてもすぐに立ち去っただろ。最近はデリックとも話しているみたいだし」
「そうでしたわね」
「何かあったのか?」
わたくしは迷った。彼に全てを話すべきだろうか。前世の記憶も、ゲームの筋書きも。けれど、サイラスに話したときのことを思い出した。話すことと、理解してもらうことは同じではない。今のわたくしに必要なのは、自分の事情を誰かに解ってもらうことだけではない。
「少し、自分の考え方を見直すことがありましたの」
「ふうん?」
「今まで、あなたに失礼な態度を取っていたと思います。ごめんなさい」
アレンは目をぱちぱちさせたあと、苦笑した。
「なんだよ、急に。まあ、気にしてないけどな」
そう言ってから、彼は少しだけ真面目な顔になった。
「でも、何かあるなら一人で抱え込むなよ。俺たち、幼馴染だろ」
「……ええ。ありがとう」
幼馴染。その言葉が、胸の中に静かに落ちた。
ゲームの設定では、彼は騎士団長子息で、攻略対象で、将来は悪役令嬢を断罪する人物だ。けれど、それ以前に、わたくしと一緒に木登りをして、池に落ちて、ふたりそろって叱られたことのある人なのだ。
わたくしは、そのことを忘れていた。或いは、忘れたふりをしていた。
宰相子息のゴドフリーとも、図書室で顔を合わせた。彼はわたくしが近づくと、本から目を上げた。
「レイチェル嬢。珍しいですね」
「そうかしら」
「ええ。以前は私がいると、あからさまに嫌そうな顔をされていましたから」
「……申し訳ございません」
「いえ、理由があるのなら構いません。ただ、理由もなく嫌われているのかと思っていましたので」
淡々とした言葉だった。けれど、その一言がわたくしの胸に刺さった。わたくしは彼を、断罪の場に立つ人物としてしか見ていなかった。彼が何を考え、何を好み、何を大切にしているのか、知ろうともしなかった。
「ゴドフリー様は、何を読んでいらっしゃるの?」
思い切って尋ねると、彼は少し驚いた顔をした。
「政治史です。最近、地方領の税制について興味がありまして」
「税制……」
「意外ですか?」
「いいえ。ただ、わたくしはあなたがそういうものに興味を持っていることを、知りませんでした」
「そうでしょうね。これまで、私の話を聞こうとなさいませんでしたから」
返す言葉もなかった。けれど、彼は責めるような口調ではなかった。
「興味がおありなら、今度、資料をお貸ししましょうか」
「ぜひ、お願いしたいですわ」
会話は、それだけだった。それだけなのに、わたくしは少しだけ嬉しかった。
彼らのことを、わたくしは何も知らない。それならば、これから知ればいいのだ。知ろうとすることを、始めればいい。
そして、週末。わたくしは再びサイラスと会った。婚約者との定例のお茶会ではなく、わたくしからお願いした面会だった。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「構わないよ。私も、君と話したいと思っていたから」
サイラスは以前と同じように微笑んだ。ただ、その笑顔を見ても、わたくしはもう、ゲームの立ち絵を思い浮かべなかった。
彼は少し疲れているようだった。テーブルに置かれた書類の束を見るに、公務の合間に時間を作ってくれたのだろう。
「殿下、お忙しいのではありませんか?」
「忙しいね。でも、君と話す時間を作れないほどではないよ」
「……ありがとうございます」
少しの沈黙のあと、サイラスが口を開いた。
「前回の話を聞いてから、考えていたんだ。君は、私のことをどれほど知っているつもりだったのだろう、と」
わたくしは俯いた。
「何も知りませんでしたわ」
「そうだね」
否定されなかったことが、かえって苦しかった。
「君は、私がいずれ君を裏切ると考えていた。それは分かった。けれど、私が君をどう思っているか、考えたことはあったのかな」
「……ございませんでした」
「私が君と婚約していることをどう考えているのか。君と一緒に過ごす時間をどう感じているのか。そういうことを、考えたことは?」
「ありませんでした」
サイラスは小さく息を吐いた。
「私はね、君との婚約を、ただの政略だとは思っていなかったんだ」
顔を上げる。彼は窓の外を見ていた。
「幼い頃から君を知っている。負けず嫌いで、何でも一生懸命で、失敗すると人知れず練習を重ねる。自分が正しいと思ったことは、なかなか曲げない」
「……それは、褒めていらっしゃるの?」
「半分はね」
サイラスが笑った。
その笑顔は、ゲームのスチルで何度も見たものに似ていた。けれど、今は少し違って見えた。
「私は、そんな君が好きだったんだと思う」
息が止まった。
「思う、ですの?」
「最近は、君が私を見てくれなかったからね。自分の気持ちまで、よく分からなくなってしまった」
彼はわたくしを見た。
「でも、君が私を見ようとしてくれるなら、私ももう一度、君と向き合いたいと思っている」
胸が熱くなった。けれど、そこで喜んでしまうのは違う気がした。
「殿下、わたくしは……あなたがわたくしを裏切らないと保証していただきたいわけではないのです」
「うん」
「これまで、わたくしはあなたがいずれ裏切ると決めつけておりました。ですから、今度は逆に、あなたが裏切らないと信じ込もうとするのも、違うのだと思います」
サイラスは黙って聞いていた。
「わたくしは、あなたが何を考えていらっしゃるのか、何を望んでいらっしゃるのか、知りたいのです。あなたのお気持ちがわたくしの望むものと違っていたとしても、それを知ることから逃げたくありません」
言い終えて、わたくしは手を握りしめた。怖かった。彼がわたくしを拒絶することが。婚約が破棄されることが。それでも、彼の返事を勝手に決めつけることだけは、もうしたくなかった。
サイラスは、ゆっくりと頷いた。
「分かった。では、まずはお互いを知ることから始めよう」
「はい」
「ただし、ひとつ約束してほしい」
「何でしょう?」
「解らないことがあったら、私に聞いてほしい。私の気持ちを、君一人で決めつけないでほしいんだ」
「……はい。お約束いたします」
「私もそうするよ。君が何を考えているのか解らないときは、勝手に結論を出さずに尋ねる」
サイラスは手を差し出した。握手を求めるような仕草だった。わたくしは、その手を取った。温かかった。当たり前のことなのに、涙が出そうになった。
わたくしは、破滅を回避するために、誰も信じないことを選んだ。けれど、それは自分を守る方法であると同時に、誰かを傷つける方法でもあったのだ。そして、わたくし自身を、ひどく孤独にする方法でもあった。
「殿下」
「何かな?」
「これから、あなたのことをたくさん教えてくださいませ」
サイラスは目を細めた。
「もちろん。君のことも、たくさん教えてほしい」
その日、婚約が続くかどうかは決まらなかった。けれど、わたくしは初めて、未来のことを少しだけ楽しみに思った。




