第一話 その目、やめてくれるかな
「その目、やめてくれるかな」
月に二度の婚約者とのお茶会の席で、婚約者である殿下がそう仰った。突然何を仰ったのか、意味が解らない。
「君、私のことを何も見ていないよね。本当の私を理解しようともしないで」
そんなことを殿下は仰る。
ああ、王族にありがちよね。自分のことを周囲は王子としか見ないとか、王子ではない自分を見てほしいとか。それで、そんなことはない、あなたはあなたよ、とほざくヒロインのマイナにほだされて……。
「ほら、その目だよ。目の前にいる私ではなく、君の思い込みで私を決めつけて勝手に呆れたり哀れんだりしている、その目」
じっと殿下がわたくしを見る。射貫くような鋭い眼。そう、卒業パーティーで断罪するときのような。
「ねぇ、婚約者殿。君は一体何を、誰を見ているんだい? ちゃんと目の前の現実に、目の前で生きている『人』に向き合っているの?」
――殿下は何を仰っているの?
こんなの、『学園は恋の華~誰を選ぶかはあなた次第~』のサイラスらしくないわ。サイラスは穏やかで優しくて、ちょっと卑屈で。こんなふうに鋭い眼で誰かを追い詰めるような言動はしない。ラストイベントの悪役令嬢断罪のとき以外は。
「君、私だけではなく、デリックにもそういう態度みたいだね。幼馴染のアレンにもゴドフリーにも。デリックが言っていたよ。ご両親と自分に対する態度が変だとね。何かを決めつけたかのような態度だって。一体君はどこを見ているんだい」
だって、義弟のデリックも騎士団長子息のアレンも宰相子息のゴドフリーも、王太子であるサイラスも、ヒロインに篭絡されて悪役令嬢のわたくしを断罪して殺すのだもの。警戒するのは当然でしょう? 両親だってそう。娘を庇うことなく見捨てるのだもの。
「レイチェル、ちゃんと、目の前の私を見て。物語の中の私ではなく、目の前の私だ」
物語? まさか……。
「殿下、あなたも転生者でしたの!?」
だったら、何とかなるかもしれない。協力してくれるかもしれない。
「ああ、また戻ってしまったね」
殿下が悲しそうに目を伏せた。
「テンセイシャ? それが君が私たちをモノのように見る原因か」
なんだ、違うのね。そうよね、攻略対象が転生者だなんて、そんなに都合のいいことはないわ。わたくしが転生者であることだってイレギュラーなのですもの。
「君は優秀だし、将来の王妃に相応しい令嬢だと思っていた。けれど、現実を見ていないのなら、そんな女性を国母には出来ない」
「婚約破棄していただけるの?」
思わず声が弾んだ。やったわ。これでゲームから、破滅の道から抜け出せる!
けれど、目の前の殿下は喜ばなかった。
「私との婚約を嫌がっていたのも、何とか解消できないかと画策していたのも知っている。その原因が、私たちを現実のものとして見ていないことだということも、最近漸く理解したよ」
寂しげな表情だった。こんな表情、スチルでは見たことがない。ゲームのサイラスは、いつも微笑んでいた。ヒロインの前で苦悩を吐露するときですら、微笑んでいた。
――これは、誰?
「漸く目の前の私に気付いたようだね、レイチェル」
これがサイラス。わたくしの婚約者で、乙女ゲームの攻略対象で――いいえ、違う。
彼はわたくしの幼馴染でもある、婚約者のサイラスだわ。穏やかで優しくて努力家で、そしてちょっとだけ悪戯が好きな。幼い頃、わたくしが刺繍の失敗に落ち込んでいたとき、彼は自分の刺繍を見せてくれた。糸が絡まり、花とも何ともつかない奇妙な模様になった刺繍を。
『ほら、私の方がひどいだろう? これならレイチェルの失敗なんて、誰も気にしないよ』
あのとき、わたくしは笑った。サイラスも笑っていた。
けれど、いつからだろう。彼の笑顔を見るたび、わたくしは考えるようになっていた。これは好感度を上げるためのイベントなのだろうか。ヒロインが現れたら、彼はこの笑顔を彼女に向けるのだろうか。
そうして、わたくしの知っているサイラスを、わたくし自身が少しずつ消してしまった。
いきなり目の前が開けたような気がした。これまでフィルターがかかっていたような現実味のない世界が、色鮮やかに変わった気がした。
紅茶の香り。窓辺に置かれた白い花。サイラスの指先に残る、万年筆のインク。そして、彼の目元に刻まれた疲労の色。
わたくしは、こんなにも近くにいる人のことを、何も見ていなかった。
「あ……ああ……わたくし……」
サイラスは心配そうにわたくしを見つめている。ゲームのサイラスは、悪役令嬢のわたくしにこんな目を向けてくれることはないのに。
ああ、違うんだ。目の前のサイラスはゲームのサイラスとは違うんだ。わたくしがゲームの悪役令嬢とは違うように。
ここはゲームの世界なのだから。彼は攻略対象なのだから。今はどんなにわたくしに優しくても、いずれは裏切るのだと思い込んでいた。ヒロインが現れれば、そちらに行ってしまうのだと。
思い返せば、わたくしたちの関係性はゲームとは違っていたのに。頑なに、ゲームと同じになると思い込んでいた。彼の人格を否定していたのだ。
「殿下、サイラス様、聞いていただけますか?」
声が震えた。
「わたくしの愚かな思い込みのことを。そして、お詫び申し上げます」
サイラスは暫くわたくしを見つめていた。やがて、静かに頷く。
「うん、聞かせてほしい。どうして君が頑なだったのか。その原因がなんだったのか」
わたくしは深く息を吸った。ここから先は、ゲームの台詞にはない。誰かが選択肢を用意してくれるわけでもない。わたくし自身が、わたくしの言葉で話さなければならない。
「わたくしは……前世の記憶がございます」
サイラスは眉を上げた。
「前世?」
「はい。前の人生で、わたくしはある乙女ゲームを遊んでおりました。そのゲームの中に、わたくしと同じ名前の悪役令嬢がいたのです」
言葉にしてしまえば、あまりにも荒唐無稽だった。
けれど、わたくしは話した。乙女ゲームとは何か、悪役令嬢とは何か、そしてゲームのタイトル。登場人物たち。サイラスがマイナという平民の少女に惹かれ、卒業パーティーでわたくしを断罪すること。わたくしが悪役令嬢として描かれ、最後には罪を着せられ、命を落とすこと。話せば話すほど、サイラスの表情は複雑になっていった。
「つまり、君は私たちがいずれ君を裏切ると、最初から信じていたんだね」
「……はい」
「私が何を言っても?」
「はい」
「私が何をしても?」
「……はい」
サイラスは目を閉じた。
「そうか」
それだけだった。怒鳴られた方が、どれほど楽だっただろう。
「殿下、申し訳ございません」
「謝罪は受け取るよ。ただ、すぐに君を許せるかどうかは、判らない」
「当然ですわ」
「君の話が真実かどうか、私には判断できない。それに、真実だったとしても、君が私たちをどう扱ってもよかった理由にはならない」
まっすぐな言葉だった。わたくしを責めるためではなく、わたくしが犯した過ちを、なかったことにしないための言葉。
「婚約については、少し時間をもらいたい」
胸の奥が冷たくなった。それでも、わたくしは頷いた。
「承知いたしました」
「それと、ひとつ聞いてもいいかな」
「何でしょう」
「君は、破滅を避けたあと、何をしたかったんだい?」
答えられなかった。ただ、生き残りたかった。断罪されたくなかった。殺されたくなかった。
だから、婚約を解消しようとした。攻略対象たちと距離を置いた。誰も信用しなかった。
けれどその先に、何があるのか。考えたことすらなかった。
「……解りません」
サイラスは少しだけ寂しそうに笑った。
「そうか。では、これから考えるといい」
お茶会は、それで終わった。帰りの馬車の中、わたくしは窓の外を眺めた。見慣れた王都の街並み。何度も通った道。
けれど、わたくしの目には、初めて見る景色のように映った。わたくしは、ゲームの筋書きから逃げようとしていた。そのくせ、自分の人生を自分で考えようとはしていなかった。物語に書かれた未来を恐れながら、物語に書かれた未来以外のものを想像できずにいたのだ。
「……馬鹿ね、わたくし」
呟いた声は、馬車の揺れる音に消えた。婚約がどうなるかは、まだ判らない。サイラスがわたくしを許してくれるかも判らない。
それでも。次に彼と会うときには、少しだけでも、彼のことを知ろう。ゲームの攻略対象ではなく、サイラスという人間のことを。
そう決めた。




