43. フェリシアの日記②
二週間の航海を経て、私たちはようやくアルヴェイン王国へとたどり着いた。
船の上から見えた景色に、私は思わず息を呑んだ。
どこまでも続く広大な大地。港の向こうには、ルーベルでは見たこともないほど大きな建物が立ち並んでいた。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
私の生まれ育った島とは、何もかもが違う。行き交う人々の服装も、建物の造りも、聞こえてくる街の喧騒も。
憧れていた海の向こうの世界が、今、目の前に広がっている。
けれど、船を降りた途端、私は急に心細くなった。
ここには私を知る人も、頼れる家族もいない。自分がひどく場違いなところへ来てしまったような気がした。
そんな私の手を、テオドールがぎゅっと握ってくれた。
「大丈夫?」
「……ええ」
彼の顔を見上げると、いつもの優しい笑顔があった。
その手の温もりだけで、不思議と怖さが薄れていった。
テオドールの屋敷に着くと、家の人たちは皆、目を丸くしていた。
それも当然だろう。出かけていた息子が、見知らぬ女を連れて帰ってきたのだから。
しかも、その女は着替えも荷物も、何一つ持っていなかった。
けれど、テオドールの家族は私を温かく迎えてくれた。
「長旅で疲れたでしょう。まずはゆっくり休みなさい」
テオドールの母様はそう言って、優しく微笑んでくださった。
その日のうちに、私のための衣服や身の回りの品が次々と用意された。
どれも見たことのないほど美しいものばかりだったけれど、特に驚いたのはドレスだった。
「お、重たい……」
鏡の前で思わず呟いてしまった。
幾重にも重なった布に、細かな刺繍や装飾。ルーベルで着ていた軽やかな衣装とは、まるで違う。
これを着て一日中過ごすなんて、考えただけで疲れてしまいそうだ。
そんなことを思っていると、部屋に入ってきたテオドールが足を止めた。
「……フェリシア」
「どう? 似合っている?」
少し不安になって尋ねると、彼はしばらく私を見つめたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「とても綺麗だよ」
その一言で、ドレスの重さなんてどうでもよくなってしまった。
その日のうちに、私はテオドールにお願いして父様へ手紙を書いた。
何も告げずに国を飛び出してしまったこと。
心配をかけてしまったこと。
そして、テオドールという人に恋をしたこと。
私は彼と共に生きていきたい。
何度も書き直しながら、ようやく自分の気持ちを綴った。
父様は、きっと怒っている。母様も姉様たちも、どれほど心配しているだろう。
それでも、私の気持ちを知ってほしかった。
テオドールも、アルヴェインの国王陛下に事情を説明してくれると言っていた。
王国から正式に手紙を送っていただけるよう、お願いするのだそうだ。
夕方、テオドールは王城へ向かったきり、なかなか帰ってこなかった。
窓の外が暗くなっても、私は何度も扉の方を見てしまう。
早く会いたい。
ついこの間まで、誰にも縛られず自由に生きたいと思っていたのに。
今では、たった一人の帰りをこんなにも待ち遠しく思っている。
恋というのは、不思議なものね。
今日は、テオドールが一日中私と過ごしてくれた。
彼の案内で街へ出かけ、さまざまな店を見て回った。
石畳の道には馬車が行き交い、店先には見慣れない品物が並んでいる。
何を見ても新鮮で、私は子供のようにはしゃいでしまった。
「フェリシア、そんなに急がなくても店は逃げないよ」
「だって、見たいものがたくさんあるんだもの!」
テオドールは呆れたように笑いながらも、私の歩調に合わせてくれた。
途中で、普段着として使える衣服も買ってもらった。
「これなら、屋敷でも楽に過ごせると思うよ」
そう言って選んでくれた服は、確かにドレスよりも動きやすそうだった。
けれど、私にはまだ少し装飾が多すぎる気がする。
アルヴェインの貴族というのは、どうしてこんなに飾りが好きなのかしら。
そして、その日もう一つ、初めてのものに挑戦した。
ハイヒールという靴だ。
細い踵のついた靴を履いて歩いてみると、どうにも足元がおぼつかない。
「きゃっ!」
数歩進んだところで、見事に転んでしまった。
「フェリシア!」
テオドールが慌てて駆け寄り、私を抱き起こしてくれた。
「大丈夫? どこか痛めていない?」
「平気よ。ちょっと驚いただけ」
「無理して履かなくてもいいんだよ」
私は足元の靴を見つめた。
確かに、歩きにくい。
でも、テオドールの母様はこんな靴を履いて、背筋を伸ばして美しく歩いていらした。
私も、あんなふうになりたい。
「もう少し練習してみるわ」
そう答えると、テオドールは困ったように笑い、私に腕を差し出してくれた。
今日は、テオドールと一緒に王城へ向かった。
国王陛下が出席される宴が開かれるのだという。
美しい装飾が施された広間には、華やかな衣装をまとった貴族たちが集まっていた。
私はテオドールの腕に手を添え、彼の隣を歩いた。
けれど、広間に足を踏み入れた途端、周囲の視線が一斉にこちらへ向けられた。
ひそひそと話す声が聞こえてくる。
「どちらのご令嬢かしら……」
「肌の色が……」
言葉のすべてが聞き取れたわけではない。
それでも、彼らが私のことを話しているのは分かった。
ルーベルでは、こんな視線を向けられたことなどなかった。
私は思わず俯いた。
この国へ来て、初めて怖いと思った。
すると、テオドールがそっと私の手を握った。
「僕のそばにいればいい」
私は小さく頷いた。
その後、テオドールに連れられて国王陛下にご挨拶した。
陛下は私を見ると、穏やかに微笑まれた。
「そなたがフェリシア王女か。テオドールから話は聞いている」
「フェリシア・ルーベルと申します。このたびは、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
私が頭を下げると、陛下は小さく息を吐かれた。
「まったく、テオドールにも困ったものだ。突然、他国の王女を連れてきたと言われたときは、何事かと思ったぞ」
隣を見ると、テオドールが申し訳なさそうに頭を下げていた。
「ご心配をおかけし、申し訳ございません」
「まあ、済んだことは仕方あるまい。だが、ルーベル王国との話し合いは、そう簡単には進まぬだろう」
その言葉に、胸が締めつけられた。
私が勝手に船へ乗り込んだことで、二つの国に迷惑をかけてしまっている。
憧れていた海の向こうの世界。
けれど、ここで生きていくということは、ただ楽しいことばかりではないのだと、私は少しずつ実感し始めていた。
アルヴェインへ来て、二か月が過ぎた。
最初は戸惑うことばかりだった暮らしにも、少しずつ慣れてきた。
テオドールの家族は変わらず優しく、屋敷の人々も私によくしてくれる。
それでも、故郷のことを忘れた日はなかった。
そんなある日、ようやく父様から返事が届いた。
私は震える手で封を開けた。
そこには、すぐにルーベルへ帰るようにと書かれていた。
何度読み返しても、父様の意思は変わらなかった。
返事を書こうと机に向かったものの、筆が進まない。
父様に会いたい。
母様にも、姉様たちにも会いたい。
けれど、ルーベルへ帰れば、テオドールとは離れ離れになってしまう。
それだけは嫌だった。
テオドールの話では、アルヴェインの国王陛下にも、ルーベルから抗議の書状が届いているらしい。
私一人のわがままが、二つの国を巻き込んでしまっている。
そのことが、胸に重くのしかかった。
三か月が過ぎた頃には、ルーベルから何度も使者が訪れるようになっていた。
使者たちは皆、父様の命令だからと、私に帰国を求めた。
そのたびに私は首を横に振った。
けれど、父様はどうしても許してくださらない。
もう、帰るしかないのだろうか。
そんなことを考えていたある朝、私は突然、強い吐き気に襲われた。
最初は慣れない食事が原因だと思っていた。
けれど、何日経っても気分が優れない。
それどころか、よく考えてみれば、月のものも来ていなかった。
不安になってテオドールの母様に相談すると、母様は私の顔をじっと見つめた。
「フェリシア……もしかして、赤ちゃんができたのではないかしら」
「……赤ちゃん?」
思わず自分のお腹に手を当てた。
私の中に、赤ちゃんが?
テオドールと、私の子供が?
まだ確かなことは分からない。
それなのに、胸の奥から温かいものが込み上げてきた。
父様、母様。
ごめんなさい。
私には、テオドールと離れられない理由が、もう一つ増えてしまった。
その日の夜、私はテオドールに母様から言われたことを話した。
「……赤ちゃん?」
彼はしばらく私を見つめていた。
そして、突然立ち上がった。
「本当に!?」
「まだ分からないわ。母様が、そうかもしれないって……」
「フェリシア!」
テオドールは私の手を取ると、嬉しそうに笑った。
「僕たちの子供ができたかもしれないんだね!」
「だから、まだ決まったわけじゃ……」
「そうだね。まずはお医者様に診てもらわないと。いや、その前に母上にも……!」
いつも落ち着いているテオドールが、部屋の中を行ったり来たりしている。
私は思わず笑ってしまった。
「テオ、落ち着いて」
「ごめん。でも、嬉しくて」
そう言って彼は私を抱きしめた。
「愛しているよ、フェリシア。必ず幸せにする」
その言葉を聞いた途端、涙がこぼれそうになった。
もし本当に赤ちゃんがいるのなら。
私は、この子とテオドールと三人で生きていきたい。
そう強く思った。
私は父様に、もう一度手紙を書いた。
何度も迷い、書いては消してを繰り返した。
けれど、最後には、自分の気持ちをそのまま綴った。
『私と彼を認めてくださらないのなら、私はこの国で死にます』
卑怯な言葉だと思った。
父様が私を大切に思ってくださっていることは、よく分かっている。
だからこそ、この言葉がどれほど父様を苦しめるかも分かっていた。
それでも、テオドールのいない人生など、もう考えられなかった。
私は彼と、彼の子供と、三人で生きる道を選んだのだ。
ルーベルを離れて、半年が過ぎた。
長い間、父様からの返事はなかった。
けれど、ついに一通の手紙が届いた。
震える指で封を開けると、そこには、私とテオドールの結婚を認める旨が記されていた。
ようやく許してもらえた。
そう思ったのも束の間だった。
続く言葉に、私は息を呑んだ。
【二度と帰れないと思いなさい】
何度読み返しても、その文字が変わることはなかった。
そして、手紙には一通の契約書が添えられていた。
【ルーベル王家の秘密を、決して他言してはならない。また、王位継承権を永久に放棄するものとする】
その言葉を見た瞬間、私は胸が締めつけられるような思いがした。
父様が何を守ろうとしているのか、私には分かっていた。
それは、決して外の世界に知られてはならないものだった。
たとえ、これから生涯を共にするテオドールであっても、話すことは許されない。
私は涙をこぼしながら、契約書に署名した。
後になって、アルヴェインの国王陛下にも、ルーベルから正式な書状が届いたことを知った。
今後、両国の国交を一切断つという内容だった。
私がテオドールを選んだことで、二つの国のつながりまで失われてしまった。
胸が締めつけられるようだった。
けれど、父様がそこまでして守ろうとしているものがあることも、分かっていた。
私はそっとお腹に手を当てた。
この子が生まれる頃には、すべてが落ち着いているだろうか。
故郷へ帰ることは、もうできない。
父様にも、母様にも、姉様たちにも、二度と会えないかもしれない。
それでも、私にはテオドールがいる。
そして、お腹の中には、私たちの子供がいる。
私は自分で選んだ道を、後悔したくなかった。
窓の外には、ルーベルとは違う景色が広がっている。
あの日、海の向こうに何があるのだろうと夢見ていた私は、もうここにいる。
たくさんのものを失ってしまったけれど。
それでも、この人と生きていくと決めたのだから。
私はお腹を優しく撫でながら、静かに目を閉じた。
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