40. フェリシアの日記①
フェリシアの日記はフェリシア視点です。
今日も、変わらない一日が始まった。
窓を開けると、潮の香りを含んだ風が部屋いっぱいに流れ込んでくる。
遠くには青く輝く海が広がり、白い波が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
ここはルーベル王国。
海に囲まれた小さな島国で、私はこの国の第四王女として生まれた。
美しい海も、心地よい風も、優しい人々も、私は大好きだ。
けれど、十八年間ずっと同じ景色を眺めていると、時々どうしようもなく退屈になる。
海の向こうには、どんな世界が広がっているのだろう。
そんなことを考えていると、庭の方から声が聞こえてきた。
「フェリシア様ー!」
窓から顔を出すと、城で下働きをしている使用人の息子、アールがこちらに手を振っていた。
「どうしたの?」
「ココナッツが食べたい!」
私は庭に生えている椰子の木を見上げた。
「いいわよ! 待ってて!」
部屋を飛び出して庭へ向かうと、慣れた手つきで椰子の木に登り始めた。
もう少しで実に手が届く。
そう思った瞬間だった。
「フェリシア!」
聞き覚えのある声に、思わず肩が跳ねた。
下を見れば、ミレイラ姉様が険しい顔でこちらを見上げている。
「あなた、そこで何をしているの!」
「見れば分かるでしょう? ココナッツを取っているのよ」
「今すぐ降りてきなさい!」
仕方なく木から降りると、姉様は深いため息をついた。
「あなたはもう十八歳なのよ。いつまでも子供のようなことをしていないで、少しは王女らしく振る舞いなさい」
「王女だって木登りくらいするわ」
「しません!」
また始まった。
成人してからというもの、姉様は口を開けば王女らしく、王女らしくと、そればかりだ。
「少しはプリシラを見習いなさい。あの子はあなたと違って、いつも慎ましくしているでしょう」
「プリシラ姉様は大人しいだけよ」
「フェリシア!」
私は姉様の小言を背中に受けながら、その場を逃げ出した。
王女という肩書きは、どうしてこんなにも窮屈なのだろう。
数日後のことだった。
廊下を歩いていると、向こうからプリシラ姉様がやってきた。
「姉様!」
私が手を振ると、姉様は足を止めた。
けれど、私の顔を見た途端、その表情がみるみる青ざめていった。
「……フェリシア」
「どうしたの?」
姉様は突然、私の手を強く握りしめた。
「お願い……港には行かないで」
「港?」
「絶対によ。お願いだから、港には近づかないで……!」
姉様の目から涙がこぼれ落ちた。
「今度はどうしたの?」
「あなたに……もう二度と会えなくなってしまう……」
「どういうこと? 津波でも来るの?」
姉様はそれ以上何も答えず、ただ私の手を握りしめて泣いていた。
いつも静かで、滅多に感情を表に出さない姉様が、こんなふうに取り乱すなんて。
一体どうしたというのだろう。
その翌日、城の中がいつもより少し騒がしかった。
聞けば、港に外国の帆船が入ってきたらしい。
遠い国から新しい鉱石を売りに来たのだという。
「外国の船ですって?」
私は思わず身を乗り出した。
ルーベル王国に外国の船が訪れることは、滅多にない。
海の向こうからやってきた人々。
彼らは一体どんな服を着て、どんな言葉を話し、どんな暮らしをしているのだろう。
考えただけで胸が躍った。
けれど、ふとプリシラ姉様の言葉を思い出した。
『港には行かないで』
どうしてあんなことを言ったのかしら。
それでも、好奇心を抑えることはできなかった。
明日、こっそり見に行ってみよう。
翌朝、私は目立たない服に着替えると、城を抜け出した。
港へ向かう道を歩いているだけで、胸が高鳴る。
やがて見えてきたのは、これまで見たこともないほど大きな帆船だった。
高くそびえる帆柱に、風を受けて揺れる白い帆。
船の周りでは見慣れない服を着た人々が、忙しそうに荷物を運んでいる。
私は夢中になってその光景を眺めていた。
そのときだった。
ふと、誰かと目が合った。
青い瞳。
まるで、晴れ渡った空をそのまま閉じ込めたような、美しい青だった。
その人は私に気づくと、優しく微笑みかけてくれた。
胸が、どきりと跳ねた。
こんなに美しい男の人を、私は今まで見たことがない。
慌てて視線を逸らしたものの、どうしても気になって、もう一度そちらを見た。
けれど、その人はすでに別の方を向いていた。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
その日の夕食の席で、私は何気ないふりをして父様に尋ねた。
「港に来ている外国の船は、いつまでいるの?」
「あと三日ほどで出航するそうだ。どうした、フェリシア」
「別に。ただ珍しいと思っただけよ」
父様は特に気にする様子もなく、食事に戻った。
あと三日。
私は胸の中で、その言葉を繰り返した。
明日も行ってみようかしら。
また、あの人に会えるかもしれない。
翌日、プリシラ姉様が私の部屋を訪ねてきた。
「フェリシア……昨日、港へ行ったでしょう?」
私は驚いて姉様を見た。
「どうして知っているの?」
姉様は答えず、私の両手を握った。
「お願い。もう行かないで。外国の人と関わっては駄目よ」
「どうして?」
「あなたが……帰ってこられなくなるから……」
姉様の声は震えていた。
「姉様、私はただ船を見に行っただけよ」
「それでも駄目なの!」
あまりに必死な様子に、私は言葉を失った。
けれど、昨日からあの青い瞳が頭を離れない。
目を閉じれば、あの人の微笑みが浮かんでくる。
一体、どうしてしまったのだろう。
名前も知らない人なのに。
結局、私はまた港へ行ってしまった。
昨日と同じ場所に立ち、船の方を眺めていると、あの人がこちらに気づいた。
「こんにちは」
柔らかな声だった。
「昨日もここにいたね」
「……気づいていたの?」
「ああ。随分と熱心に船を見ていたから」
そう言って、彼は微笑んだ。
近くで見ると、その青い瞳は昨日よりもずっと美しかった。
「船を見るのは珍しい?」
「ええ。外国の船なんて、滅多に来ないもの」
「そうか。君はこの国の人なんだね」
私は頷いた。
「あなたは?」
「テオドール。アルヴェイン王国から来たんだ」
「アルヴェイン王国……」
初めて聞く国ではなかったけれど、どんな場所なのかはほとんど知らなかった。
「僕はそこで公爵をしている」
「公爵様なの?」
驚く私に、彼は少し困ったように笑った。
「そんなにかしこまらなくていいよ。テオドールと呼んでくれ」
「……テオドール」
その名前を口にすると、不思議と胸が温かくなった。
彼はアルヴェイン王国の街並みや、広大な森、季節によって姿を変える山々の話をしてくれた。
雪というものが降ることも。
冬になると、湖が凍ることも。
私の知らない世界が、彼の言葉によって次々と目の前に広がっていった。
「行ってみたいわ……」
思わず呟くと、テオドールは私を見つめた。
「きっと気に入ると思うよ」
その青い瞳に見つめられると、胸の奥が苦しくなる。
もっと話を聞きたい。
もっと彼のことを知りたい。
そして、もっと一緒にいたい。
そんな気持ちが、次から次へとあふれてきた。
翌日も、私はテオドールに会いに港へ向かった。
「今日は出航に備えて、食料を買いに市場へ行くんだ」
そう話す彼に、私は迷わずついて行くことにした。
市場には色とりどりの果物や焼きたての菓子が並び、あちこちから威勢のいい売り子たちの声が聞こえてくる。
私たちは露店を巡りながら、気になるものを買っては一緒に食べ歩いた。
テオドールにとっては珍しい食べ物ばかりだったようで、一口食べるたびに驚いたり、嬉しそうに笑ったりしていた。
その姿を見ているだけで、私まで嬉しくなった。
「テオドール! これも食べてみて!」
新しく買った菓子を差し出すと、彼はふっと微笑んだ。
「テオでいいよ」
「え?」
「テオ。呼び方」
「ああ……テオ」
たった二文字なのに、口にした途端、急に恥ずかしくなってしまった。
思わず俯くと、彼が楽しそうに笑っているのが分かった。
ただそれだけのことなのに、胸の鼓動がなかなか収まらなかった。
その夜、私は再び城を抜け出した。
明日には、テオドールたちの船が出航してしまう。
そう思うと、いても立ってもいられなかった。
港へ着くと、船の近くにある建物の陰から、そっと様子をうかがった。
すると、こちらに歩いてくる人影があった。
「……フェリシア?」
テオドールだった。
「どうしてここに?」
「それは……」
会いたかったから。
そう言いたいのに、なかなか言葉が出てこない。
彼はそんな私を見て、そっと手を差し出した。
「少し歩こうか」
私はその手を取った。
夜の海は静かで、波の音だけが二人の間に響いていた。
しばらく歩いたところで、テオドールが足を止めた。
「君のことが、もっと知りたい」
私は顔を上げた。
彼の青い瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
「……私も」
自然と言葉がこぼれた。
「私も、テオのことがもっと知りたいわ」
テオドールは嬉しそうに微笑んだ。
けれど、明日には帰ってしまう。
そう思った途端、胸が締めつけられた。
こんな気持ちは初めてだった。
そして、出航の日。
私は再び港へ向かった。
船の上では、出航の準備が進められていた。
テオドールは私を見つけると、驚いたように目を見開いた。
「フェリシア……」
私は何も言えず、ただ彼を見つめた。
彼もまた、しばらく黙っていた。
やがて、私の前に歩み寄ると、静かに言った。
「……一緒に来ないか」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「僕と一緒に、アルヴェインへ」
一瞬、何も考えられなくなった。
王女であることも、父様や母様のことも、姉様たちのことも。
ただ、目の前の人と離れたくなかった。
気がつけば、私は差し出された手を取っていた。
そして、そのまま船へと飛び乗った。
「フェリシア!」
港の方から、父様たちの叫ぶ声が聞こえた。
振り返ると、遠ざかっていく港に見慣れた人々の姿があった。
ああ。
私は、とんでもないことをしてしまった。
もう後戻りはできない。
不安で胸がいっぱいになった。
隣を見ると、テオドールが驚いた顔で私を見つめていた。
「君はこの国の王女か」
そういえば彼には私の身分を伝えていなかった。
王女だと知った彼は、私を連れて行くことに後悔しているのではないだろうか。
「テオ……私……」
そんな不安で押しつぶされそうになった私を、テオドールがそっと抱きしめてくれた。
「大丈夫。僕がそばにいる」
その腕の中は、驚くほど温かかった。
生まれ育った城でもなく、慣れ親しんだ故郷でもない。
それなのに、ここが自分の居場所なのだと、そんな気がした。
夜になり、船は静かな海を進んでいた。
隣ではテオドールが穏やかな寝息を立てている。
私はその寝顔を見つめながら、そっと彼の手に触れた。
二人の初めての夜。
テオドールは優しかった。
私の不安を消し去るように、私を包み込んだ。
これからどうなるのか、何も分からない。
父様はきっと怒っているだろう。
母様も、姉様たちも心配しているに違いない。
そして、ふとプリシラ姉様の言葉がよみがえった。
『あなたに、もう二度と会えなくなってしまう』
姉様の言っていたことは、こういうことなのかもしれない。
私は窓の外に広がる暗い海を見つめた。
もう故郷の灯りは見えない。
それでも、隣にいるテオドールの温もりが、私の不安を少しずつ溶かしてくれた。
今はただ、あなたの隣にいたい。
この先に何が待っていたとしても。
私はそっと目を閉じ、彼の手を握りしめた。
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