36. 国王の一手
セドリックとアメリアが食堂を出て行くと、エドワードは小さくため息をついた。
「まったく……次から次へと」
ようやく静けさを取り戻した食堂には、先ほどまで四人で食事をしていた名残が残っていた。
エドワードは目の前の紅茶に視線を落としたまま、しばらく考え込んでいた。
そんな夫の様子を、ロザリアは黙って見守っていた。
「エドワード様、ダノン侯爵のお申し出について、どうなさるおつもりですか?」
「そうだな……」
エドワードはカップを持ち上げ、紅茶を一口飲んだ。
王太子の婚約者であるアメリアを貴族の養女に迎える。
それ自体は、決して悪い話ではない。
平民出身の彼女が将来王太子妃となることに、難色を示す貴族は少なくなかった。貴族の家に迎えられれば、少なくとも身分を理由とする反発はいくらか和らぐだろう。
しかし、問題はその相手だった。
「アメリアを貴族の養女にすること自体は、私も反対ではない。だが、養親がダノン侯爵である必要はないだろう」
ロザリアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ほかの貴族の方に、ということですか?」
「ああ。王太子の婚約者を迎えるのだ。こちらで信頼できる家を選んだ方がよい」
エドワードにとって、養子縁組を認めることと、ダノン侯爵の申し出を受け入れることは、まったく別の問題だった。
国王という立場にある以上、アメリアの身分を整えるために力を貸してくれる貴族を探すことは難しくなかった。
もちろん、相手の家にも事情があるため、誰にでも頼めるわけではない。それでも、ダノン侯爵だけが唯一の選択肢というわけではなかった。
「確かに……それなら、アメリアさんにとっても安心ですね」
ロザリアは納得したように頷いた。
「セドリックが望んでいるのも、アメリアの立場を整えることのはずだ。まずは、あの子の考えを確かめてみよう」
そう言ってエドワードは、ようやく表情を和らげた。
ロザリアも微笑み返したが、ふと、お腹に手を添えた。
その仕草に気づいたエドワードは、すぐに妻へ視線を向ける。
「ロザリア、具合が悪いのか?」
「いいえ、大丈夫です。少し考え事をしていただけです」
「無理はするな。最近はようやく食事も取れるようになってきたのだから」
エドワードはロザリアの手を取ると、優しく包み込んだ。
国王として考えなければならないことは山ほどある。
それでも、こうして妻の手に触れているときだけは、肩にのしかかる重責を忘れられるような気がした。
「ありがとうございます、エドワード様」
「こうして二人でゆっくり話せる時間が、最近は何より楽しみでな」
「まあ……先ほどまで難しいお顔をされていたのに」
「国王でいる時間は長いが、君の夫でいられる時間は案外短い」
思いがけない言葉に、ロザリアは頬を赤らめた。
「エドワード様は、いつもそういうことを突然仰るのですから……」
「本当のことだ」
エドワードは満足そうに笑った。
その笑顔につられるように、ロザリアも柔らかな笑みを浮かべる。
二人の間には、先ほどまでの重苦しい空気とは違う、穏やかな時間が流れていた。
その日の午後。
執務室へ呼び出されたセドリックは、父の前で姿勢を正していた。
昼食の席で持ち出した養子縁組の話について、何らかの返答があるのだろう。
そう考えると、自然と期待が膨らんだ。
「父上、お話とは?」
「先ほどの養子縁組の件だ」
予想していた通りの言葉に、セドリックの表情が明るくなった。
「では、お認めいただけるのですか?」
「アメリアを貴族の養女にすることには、私も異存はない。ただし、ダノン侯爵の申し出をそのまま受けるつもりはない」
思いがけない返答に、セドリックは戸惑った。
ダノン侯爵は、アメリアの立場を案じて自ら申し出てくれたのだ。
その厚意を断る理由が、セドリックにはすぐには思い浮かばなかった。
「……どういうことでしょうか?」
エドワードは息子をまっすぐに見つめた。
「セドリック。お前が望んでいるのは、アメリアが貴族の娘になることか? それとも、ダノン侯爵の娘になることか?」
セドリックは思わず目を瞬かせた。
そんなことは、考えたこともなかった。
ダノン侯爵から申し出を受けたとき、アメリアが侯爵令嬢になれるということばかりに気を取られていたのだ。
しかし、改めて問われてみれば、答えは明白だった。
「それは……アメリアが貴族の娘になることです」
「ならば、養親は私の方で探そう。王家が信頼を置く家の中から、適任者を選ぶ」
父の言葉を聞き、セドリックは考え込んだ。
確かに、ダノン侯爵でなければならない理由はない。
父が選んだ家であれば、アメリアが将来王太子妃となるうえでも心強いだろう。
何より、国王自らが彼女のために動いてくれるというのは、セドリックにとって嬉しいことだった。
「……分かりました。父上にお任せいたします」
「そうか。では、私の方で話を進めよう」
エドワードは穏やかに頷いた。
「ただし、相手の家にも事情がある。すぐに決まるとは限らない。その点はアメリアにも伝えておきなさい」
「はい、父上」
セドリックは深く一礼すると、晴れやかな表情で執務室を後にした。
息子の背中を見送りながら、エドワードは静かに息を吐いた。
少なくとも、セドリックがダノン侯爵という人物そのものに固執しているわけではないと分かった。
それだけでも、今回の話し合いには意味があった。
エドワードは、そばに控えていた側近のロイへ視線を向けた。
「ロイ、王家と親交の深い貴族の中から、養女を迎えられそうな家をいくつか調べてくれ」
「いくつか候補を挙げておきます」
「ああ。相手の家柄だけでなく、人柄や家族の意向も確かめたい。形ばかりの養子縁組では意味がないからな」
「承知いたしました」
「それから、ダノン侯爵にも私から返答する。面会の日程を調整してくれ」
ロイは一礼すると、すぐに手配へと向かった。
エドワードは再び書類へ視線を落とした。
アメリアのために、できることはする。
だが、それによって特定の貴族が王太子への影響力を強めることまで、許すつもりはなかった。
エドワードと話した後、セドリックはアメリアの元へ向かった。
セドリックから話を聞いたアメリアは、思わず目を見開いていた。
「えっ!? ダノン侯爵様の養女になれないんですの!?」
「ああ。父上が別の貴族を探してくださるそうだ」
セドリックは嬉しそうだった。
国王自らがアメリアのために動いてくれるのだから、これほど心強いことはない。
しかし、アメリアの心境はまったく違っていた。
せっかく侯爵令嬢になれると思っていたのに。
それが突然、どこの家になるのかも分からないと言われたのだ。
『別の貴族って、まさか男爵とか子爵じゃないでしょうね!?』
貴族の身分が手に入ること自体は悪くない。
だが、どうせなら少しでも高い身分がよかった。
侯爵令嬢という響きにすっかり心を奪われていたアメリアにとって、今回の話は素直に喜べるものではなかった。
「父上が選んでくださるのだから、きっと良い家が見つかるさ」
セドリックはそう言って微笑んだ。
その顔には、何の疑いもなかった。
アメリアは喉元まで出かかった不満を、どうにか飲み込んだ。
ここで文句を言えば、せっかく自分のために動いてくれているセドリックの機嫌を損ねかねない。
「そ、そうですわね……。陛下が選んでくださるのでしたら、きっと安心ですわ」
口元に笑みを浮かべながらも、心の中では別のことを考えていた。
『侯爵家より下だったら、どうしてくれるのよ……!』
そんなアメリアの本音を知る由もなく、セドリックは満足そうに頷いていた。
ーー数日後。
王宮の一室に、ダノン侯爵の姿があった。
ダノンは国王から面会の知らせを受けて以来、養子縁組の承認が下りるものと期待していた。
セドリックはすでに申し出を歓迎している。
アメリアも、侯爵家の養女になれることを喜んでいた。
残るは国王の承認だけ。
そう考えていたダノンの足取りは、王宮へ向かう馬車の中でも軽かった。
「陛下、このたびはお時間をいただき、誠にありがとうございます」
ダノンは恭しく頭を下げた。
「うむ。今日は例の養子縁組について話がある」
予想通りの話題に、ダノンは内心でほくそ笑んだ。
しかし、その期待は、次の言葉によってあっけなく打ち砕かれることになる。
「お前の申し出については感謝している。だが、今回は別の家に養親を頼むことにした」
「……は?」
思わず声を漏らしたダノンは、慌てて表情を取り繕った。
「失礼いたしました。別の家、と仰いますと……?」
「具体的な養親については、これから検討するつもりだ。セドリックにも話をしたが、本人も納得している」
ダノンは、わずかに眉を動かした。
セドリックまで納得しているというのか。
あれほどアメリアを侯爵家の養女に迎えることを喜んでいたというのに。
「セドリック殿下も……」
「ああ。お前の申し出がきっかけで、アメリアの身分について改めて考えることができた。その点は礼を言おう」
エドワードは穏やかな口調で続けた。
「アメリアの将来を案じてくれたのだろう。養親がどの家になろうと、彼女の立場が安定するのであれば、お前としても喜ばしいことではないか?」
ダノンは言葉に詰まった。
もちろん、喜ばしいはずがない。
自分が欲しかったのは、アメリアの幸せなどではなかった。
王太子の婚約者を養女に迎え、将来の王妃の父親となること。
その立場こそが、ダノンの望んでいたものだった。
しかし、それを口にするわけにはいかない。
そもそも、アメリアを案じて申し出たのは自分なのだ。
ここで別の家への養子縁組に反対すれば、国王に余計な疑念を抱かせるだけだろう。
ダノンは必死に感情を押し殺し、口元に笑みを浮かべた。
「……もちろんでございます。私も、アメリア嬢のお幸せを願っておりますゆえ」
「そうか。それならよかった」
エドワードは穏やかに頷いた。
「正式に決まり次第、セドリックたちにも知らせるつもりだ」
「承知いたしました。陛下のご判断に従います」
深々と頭を下げながら、ダノンは奥歯を噛み締めた。
そのわずかに引きつった表情を、エドワードは見逃さなかった。
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