30. 思い通りにならない
「……もう一度、お願いいたします」
アメリアは思わず顔を上げた。
「えっ?」
「ただいまのお辞儀です。もう一度、お願いいたします」
白百合宮の一室で、マナー講師は穏やかな笑みを浮かべていた。
アメリアは言われたとおりに頭を下げる。
「いかがでしょうか?」
「もう少し、背筋を伸ばしてくださいませ」
「……こうですか?」
「はい。では、もう一度」
これで何度目だろう。
アメリアは頬を引きつらせながら、再び頭を下げた。
『たかがお辞儀じゃない! 頭を下げればいいんでしょう!?』
昨日は食事の作法を何度もやり直させられた。今日は朝からお辞儀ばかりだ。
これまで、アメリアは何事も要領よくこなしてきた。
少しくらい失敗しても、困った顔で笑えば誰かが助けてくれた。涙を浮かべれば、たいていの人は優しくなった。
セドリックだってそうだ。
だから、王太子妃になるための教育も、最初だけ真面目に取り組んでいる姿を見せれば、あとは何とかなると思っていた。
「アメリア様。お顔が下を向きすぎております」
「……はい」
どうやら、この講師には笑顔が通用しないらしい。
それなら、とアメリアは目を伏せた。
「先生……ごめんなさい。あたし、何度やってもうまくできなくて……」
「一人称は『私』でございます」
「……私、先生を困らせてばかりですね……」
声を震わせると、目に涙が浮かんできた。
「こんなに頑張っているのに……私、王太子妃には向いていないのかもしれません……」
講師は静かにハンカチを差し出した。
「涙をお拭きくださいませ」
『ほら、やっぱり!』
アメリアが内心で微笑んだ、そのときだった。
「落ち着かれましたら、続きをいたしましょう」
「……え?」
「まだお時間はございますので」
アメリアは差し出されたハンカチを握りしめた。
「……少し、休ませていただけませんか?」
「もちろんでございます。十分ほど休憩いたしましょう」
「ありがとうございます……!」
ようやく解放されたと喜んだのも束の間。
「その後は、先ほどのお辞儀から再開いたします」
『まだやるの!?』
アメリアは思わず講師の顔を見つめた。
講師の笑顔は、少しも変わっていなかった。
午後は王国の歴史だった。
「それでは、アルヴェイン王国の建国について、ご説明いただけますか?」
「ええと……」
アメリアは教本を思い浮かべた。
昨夜、侍女と一緒に確認したばかりだ。
けれど、王の名前も、建国した年も、まるで思い出せない。
「……ごめんなさい。忘れてしまいました」
「では、もう一度確認いたしましょう」
歴史の講師は教本を開いた。
「こちらをお読みください」
アメリアは渋々、指定された箇所を読み上げた。
「はい。では、教本を閉じてくださいませ」
「えっ、もうですか?」
「今お読みになったところを、ご自身の言葉で説明していただきます」
当然のように言われ、アメリアは絶句した。
『読んだだけで覚えられるわけないじゃない!』
「……もう少し読ませていただけませんか?」
「ええ、構いませんよ」
講師はにこやかに教本を開いた。
結局、その日の授業が終わる頃には、アメリアはぐったりと椅子に沈み込んでいた。
『何なのよ、これ……』
今までなら、分からないことは誰かが教えてくれた。
面倒なことは、うまく頼めば代わりにやってもらえた。
それなのに、この宮殿の講師たちは、どれほど優しく頼んでも代わってくれない。
分からなければ教えてくれる。間違えれば直してくれる。
そして、必ずもう一度やらされる。
『こんなの、聞いてないわよ!』
その夜、アメリアはセドリックの胸に顔を埋めて泣いた。
「セドリック様……あたし、もう嫌です……」
「アメリア? どうしたんだい?」
「先生たちが、何度も何度も同じことをやらせるんです……。あたし、精いっぱい頑張っているのに……」
「そうか……。それは大変だったね」
セドリックは優しく背中を撫でた。
「君はこれまで貴族の教育を受けてこなかったんだ。最初からできなくても仕方がないよ」
「でも……王太子妃になれなかったら、どうしようって……」
アメリアは顔を上げた。
「セドリック様のお隣に、いられなくなっちゃうんじゃないかって……」
「そんなこと、あるわけないだろう!」
セドリックは慌てて彼女を抱きしめた。
「君はただ、可愛く着飾って、笑って私の隣にいてくれれば、それでいいんだよ」
「……本当ですか?」
「ああ。ドレスでも宝石でも、君の欲しいものは何でも贈るよ。だから、そんなに思い詰めないでおくれ」
「セドリック様……!」
アメリアは嬉しそうに微笑んだ。
『そうよね! セドリック様がそう言ってくれるなら、それでいいじゃない!』
翌朝、アメリアは講師に告げた。
「セドリック様が、あまり無理をしなくてもいいっておっしゃってくださったんです」
これで少しは授業が楽になるはずだ。
ところが、講師はにこりと微笑んだ。
「それはようございました。殿下もアメリア様のお身体を案じていらっしゃるのですね」
「はい! ですから、今日の授業は……」
「ご安心くださいませ。適度に休憩を挟みながら進めてまいります」
「……え?」
「それでは、昨日のおさらいから始めましょう」
『なんでよ!』
アメリアは拳を握りしめた。
セドリックは、この国の王太子だ。
そのセドリックが無理をしなくていいと言っているのに、どうして誰も言うことを聞かないのだろう。
「……あの、先生」
「はい、何でしょう?」
「セドリック様は、次の国王陛下になられる方ですよね?」
「ええ、もちろんでございます」
「だったら、セドリック様のお言葉を大切にしたほうがいいと思うんです」
アメリアは精いっぱい愛らしく微笑んだ。
講師は一瞬、目を見開いた。
そして、静かに答えた。
「アメリア様。王太子妃教育は、国王陛下と王妃陛下のご意向により行われております」
「……え?」
「セドリック殿下も、幼い頃から同じように学ばれてきました。アメリア様にも、将来の王太子妃として必要な知識を身につけていただかなければなりません」
アメリアの笑顔が消えた。
「……でも、セドリック様は……」
「殿下のお優しいお気持ちは、私どももよく存じております。ですが、教育を終えるかどうかは、殿下のお言葉だけで決められることではございません」
講師は教本を開いた。
「それでは、始めましょう」
アメリアは何も言い返せなかった。
昼過ぎ、ロザリアが白百合宮を訪れた。
「アメリアさん、お勉強はいかがですか?」
「……難しくて、なかなか覚えられません」
「そうですか。最初は覚えることが多くて大変ですよね」
ロザリアは優しく微笑んだ。
「ですが、焦る必要はありません。少しずつ身につけていきましょう」
アメリアは俯いた。
「……王妃様は、最初から何でもおできになったんでしょうね」
「いいえ。私も何度も間違えましたよ」
「……本当ですか?」
「ええ。覚えられなくて、先生に同じことを繰り返し教えていただいたこともあります」
ロザリアは懐かしそうに微笑んだ。
「ですから、間違えることを恐れないでください。大切なのは、できるようになるまで学ぶことです」
『……結局、勉強しろってことじゃない!』
アメリアは唇を噛んだ。
「でも……セドリック様は、私が笑ってお隣にいればいいって……」
「そうですか。セドリックはアメリアさんを大切に思っていらっしゃるのですね」
ロザリアは穏やかに頷いた。
「ですが、王太子妃は、美しいドレスを着て王太子の隣で微笑んでいればよいというものではありません」
『うるさいわね、未来の王様になるセドリックがいいって言うんだからいいのよ』
「国王陛下のお隣には、国を支える王妃が必要です。セドリックが国王になられる日を望んでいらっしゃるのなら、アメリアさんにも、その日に備えていただかなければなりません」
「……はい」
アメリアは小さく返事をした。
いつものように涙を浮かべてみたが、ロザリアは優しくハンカチを差し出しただけだった。
「今日はお疲れでしょう。ゆっくりお休みになってくださいね。また明日から頑張りましょう」
ロザリアが退出すると、アメリアはハンカチを握りしめた。
『……何なのよ、みんなして!』
可愛く笑っても、泣いても、セドリックの名前を出しても。
誰一人、勉強をやめていいとは言ってくれなかった。
こんなことは初めてだった。
『あたしが王太子妃になるのよ? どうしてこんなに苦労しなきゃいけないの!?』
アメリアは悔しさに顔を歪めた。
けれど、ふと鏡に映る自分を見て、動きを止めた。
このままでは、明日も明後日も、同じことを繰り返すだけだ。
セドリックに泣きついても、講師たちが授業をやめないことは分かった。
『……だったら、覚えてしまえばいいんじゃない』
お辞儀の仕方も、食事の作法も。
一度覚えてしまえば、もう何度もやり直さなくて済む。
『そうよ。こんなの、さっさと終わらせちゃえばいいんだわ』
アメリアは侍女を呼んだ。
「ねえ、今日の授業で使った教本を持ってきてくれる?」
「かしこまりました。お勉強をなさるのですか?」
「ええ。いつまでも同じことをやらされるなんて、嫌だもの」
侍女が嬉しそうに微笑む。
「アメリア様、素晴らしいお心がけでございます!」
アメリアもにっこりと微笑み返した。
『王太子妃になったら、こんな思いをしなくて済むんだから』
今は少しくらい我慢してあげる。
誰もが自分に頭を下げる、その日までは。
アメリアは教本を開いた。
その顔には、もう涙はなかった。
お読みいただきありがとうございます!
挫折しても野心で乗り越えるアメリア
セドリックよりよっぽどたくましいですね(^-^;
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