2. 未来の国母
――時は、十六年前に遡る。
「なんと美しい姫だろう!」
王都の一角に建つ公爵邸に、男の弾んだ声が響いた。
その声の主は、この国を治める国王エドワードである。
しかし今の彼からは、国王としての威厳など欠片も感じられない。
エドワードは生まれたばかりの赤子を両手で抱き上げ、宝物でも見つけた少年のように目を輝かせていた。
「奥方に似てよかったな、クリストフ!」
「おい、エド!」
エドワードの幼い頃からの親友でもあるクリストフ・ヴァロア公爵が慌てて立ち上がる。
「頼むからもっと丁寧に抱いてくれ。ロザリアはまだ首も据わっていないんだぞ」
そう言って、クリストフは国王の腕から我が子を奪い返そうとした。
「待て待て、分かった。分かったから!」
先ほどまでの様子はどこへやら、エドワードは大慌てで教えられた通りに赤子を横向きに抱き直した。
その様子を見て、クリストフは深いため息をつく。
「すまない、クリストフ。あまりに可愛くてな、つい興奮してしまった」
エドワードは悪びれもせず笑った。
そして腕の中へ視線を落とす。
淡い金色の産毛。
白く柔らかな頬。
小さな唇から、すうすうと規則正しい寝息が漏れている。
「ロザリア、か」
「ああ」
「良い名だ」
エドワードが指を差し出す。
眠っているはずのロザリアの小さな手が、その指をきゅっと握った。
「……クリストフ」
「なんだ?」
「この子をくれ」
「断る」
「まだ何も言っていないだろう!」
「お前がその顔で言うとろくなことにならない」
「親友を信用しろ」
「国王としては信用している。親友としてはしていない」
「酷いな」
そう言いながらも、エドワードは楽しそうに笑った。
クリストフも呆れながら口元を緩める。
身分こそ国王と臣下。
けれど二人きりになれば、昔から変わらない友人同士だった。
「先月、セドリックが生まれただろう?」
エドワードが言った。
「ああ。王妃様も殿下もご健勝で何よりだ」
クリストフは大きく頷いて答えた。
「ジュリエットも、この子が生まれるのを楽しみにしていた」
その名前を口にした途端、エドワードの表情が柔らかくなる。
王妃ジュリエット。
先王が病に倒れ、エドワードが十六歳の若さで王位を継いだのと同時に王妃となった。
そして結婚から二年、先月第一王子セドリックを産んだ最愛の妻である。
「お前のところに女児が生まれたら、婚約者候補にどうかと話していたんだ」
「……本気だったのか、あの話」
「もちろんだ」
エドワードがニヤリと口の端を上げると、クリストフは眉間を押さえた。
「まだ生まれたばかりだぞ」
「だから今すぐ婚約させるとは言っていない。候補だ、候補。将来的に我が家へ、という意味だ」
「紛らわしい!」
エドワードは声を上げて笑った。
その笑い声に驚いたのか、腕の中のロザリアが小さく身じろぎする。
「ああ、すまない」
途端に声を潜めるエドワードを見て、クリストフが苦笑した。
「随分気に入ったようだな」
「当たり前だ。親友の娘だぞ」
エドワードはもう一度、赤子の顔を覗き込む。
「それに……」
小さな手は、まだ彼の指を握ったままだ。
「この子はきっと、美しく聡明な女性になる」
「生まれた当日に何が分かる」
「私の勘だ」
「一番信用ならないやつだな」
「酷いことを言う」
そう返しながら、エドワードは穏やかに笑った。
「もし本当にセドリックと結ばれる日が来れば、この子は未来の国母だ」
「気が早すぎる」
「そうか?」
「そうだ」
クリストフは即答した。
だが、エドワードは気にする様子もなく、腕の中の小さなロザリアへ、優しく語りかける。
「元気に育てよ、ロザリア」
もちろん、生まれたばかりの赤子にその言葉の意味など分からない。
「優しく、強く……そして幸せになれ」
ロザリアの指が、もう一度エドワードの指をきゅっと握った。
「返事をしたぞ」
「偶然だ」
「私には分かる。この子は賢い」
「親の私より親馬鹿になるな」
二人の笑い声が部屋に響く。
この日。
エドワードも。
クリストフも。
そして、まだ言葉すら話せないロザリア自身も知らなかった。
――未来の国母。
エドワードが何気なく口にしたその言葉が、時を経て現実になることを。
ただし――
この場にいる誰もが想像したものとは、違う形で。
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