1ー⑨ 花中の君子(2)
彩羽はスケッチしている最中、一度だけさっきまで2人でいた東屋を振り返ったが青年の姿は見えなかった。またゴミ拾いに行ったのかもしれない。
静かにそこにいる蓮池と対峙しているうちに、少しずつ冷静さを取り戻した彩羽はさっきの青年とのやり取りを振り返り、もしかすると彼なりのユーモアだったのかもしれないと考え直した。
これが絵を描く対象物だったら、自分の知らない側面を見つけたときはすんなりと受け入れられるし、むしろ面白いとも思う。どうしてあのひとの場合は息が詰まってしまったのか。
こんなとき、双子の妹の実咲だったら明るく笑って上手く答えて、さらに親しくなるきっかけにするのかもしれない。けれど揶揄われたと思った自分は上手く応答できなかった。
幼少期の頃から社交的に器用に立ち回れなかった自覚はあるが、大学生になったいまも対して変わっていない。
彩羽は片付けて東屋に置いてあった荷物をまとめ、出口への小道を重い足取りで歩き始めた。
「おつかれさまです」
背後から声がして振り返ろうとすると『そのままで』、と静止された。蓮池の青年れんの声だった。
「すみません」
「え?」
「先ほどは」
「いいえ……」
「よくなかったですよね。反省しています。すみません」
「そう、ですか」
「芙蓉にも叱られました」
青年の靴の底が雑草をそっと踏む音が聞こえた。
「反省します。それだけです。さようなら」
青年が言い終わる前に、彩羽は斜め後ろを振り向いた。そして思わず眉をひそめた。
髪で半ば隠れて表情はわからないが、首をもたげた様子はこれまで彼の表情のなかでいちばん暗かった。このあと泥の池に入水しかねないほどに。
「あの」
彩羽は思わず青年を引き留める。
「だい、大丈夫です。わたしは気にしてません。あとお掃除……お疲れさまです」
彩羽はつい、遠足中に引率者からはぐれて不安そうな子供を励ますような言い方をしていた。出どころのわからない罪悪感すら覚えた。彩羽の声は知らないうちに普段通りのトーンに戻っていた。
うつむいていた彼は顔を上げ、たどたどしく言葉をつなぐ彩羽を見て再び目線だけを下ろした。
「髪、切られたんですね」
「あ、はい……」
潤いを含んだ青年の藍色の瞳が、まばたきにより微かに揺れた。そしてゆっくりと口元は笑みを結う。
「また来てください」
ひたあい駅から家までの帰り道、彩羽は空色からラベンダーに淡く移染してゆくビルの上空を眺めながら歩いた。
やっぱり源氏名なんじゃないかな、蓮の君。などと思いながら。
第1章おわり
第2章につづく




