2ー① れんと彩羽
彩羽が青年と出会って数ヶ月経ち、ようやく彼の名前が『れん』だと知ったがまだ名前を呼んだことはない。
いまだ停滞を続ける梅雨前線のおかげで、今日も早朝から蒸し暑かった。まだ衣替え途中の彩羽は、クローゼットから紺色の半袖ポロのワンピースを出した。蚊による集中攻撃を避けるため、黒のハイソックスを履いた。
改めて見ると、毎日私服通学の女子大学生にしては夏服が足りなすぎる。友人の梓ゆみと古着屋巡りの際に何着か買ったほうが良さそうだった。
鮮やかな紅、白、ピンクのドウダンツツジが山吹植物園の正門の足元にフリルのスカートを咲かせていた。
今日は青年れんがまだ彩羽が知らない箇所を案内してくれる。彩羽がいつものTシャツとジーンズのスケッチ・スタイルではなく、ワンピースを選んだのはそういうわけだった。
2人は広い植物園を端から端まで歩いた。薄暗い雑木林に生えている珍しい形のキノコを見つけると、その度にこれは食べられる、食べられない、と青年が教えてくれた。
「キノコにも詳しいんですね」
「えぇ。この園内に生えるものだったら概ね判別できます。専門家の知人に教えてもらったんです。とは言ってもぼくは偏食なので、菌類を食しませんが」
そう言って薄い眉じりを下げて青年が微笑んだ。毎日のように玄川家の食卓に並ぶ家計の味方を、そんなふうに呼ぶ青年が彩羽には可笑しかった。
「でも、こんなに広いと大人でも迷いかねないですね」
「えぇ。でも近頃は、携帯電話でなんとかなるみたいです。ずっと画面を見て誰かと話しているのか、ぼくに気づかない人も多い。迷子の幼い子を道案内することはありますね」
うなずいた彩羽は植物園の入り口で配布されたうちわで、汗がにじんだ首を仰ぐ。
「ここでも写生大会などの催しは通年ありますが、彩羽さんのようにひとりで絵を描きに来る方は少ないです」
「そういえばわたしもお会いしたことないかもしれません。わたしは対象を写真に撮ってしまうなんだか満足して、描く気が失せてしまうんです。もちろん記録として撮ることはありますけど」
いま見頃の紫陽花などは、日ごとに色あいが変化するため描いた後に実物を撮っておくと、後日色味を確認しやすい。
青年の佇まいが浮世離れしているのは、世情にあまり関心がないからだろうか。かといって無知という印象はない。
彼は、たとえば植物ひとつひとつの組織に目を配り、葉先や蕾、樹皮、蜘蛛の巣に絡まる朽ち葉の破片からでもあらゆる声を聴き取ることができる。そんな気がする。
あまり夢見がちなことを言うと子供っぽいと思われそうなので、言葉を慎重に選びながら伝えると、青年は『買い被りすぎです』、と笑った。
「ぼくは話したい相手としか話さないし、見てほしい相手の前にしか姿を現しません」
彩羽の胸に温かい感情が灯る。なのに同時に、針のような冷えた何かがそれを突き刺そうと待ち構えているように思えてならないのだった。
次話につづく




