1ー⑧ 花中の君子(1)
「あの、これ……」
「あぁ。ありがとうございます」
微睡からさめた青年は手を伸ばして紙を受け取り、手にしていた文庫本に挟んだ。古そうな紙切れには『木とみどりの楽園』、そう読み取れた。
「起こしてしまったならすみません」
「いいえ。平気です」
彩羽は顔を上げた青年の胸元に職員証か名札があるか探したが、何もつけていなかった。
自分はここの職員ではない、と青年が言った。掃除も気が向いたらしているだけで、この東屋で休憩していたのだという。
名前は『れん』だと教えてくれた。図書館などでも見かける、ボランティアのようなものかなと彩羽は思った。
「そうなんですね。すごい」
「いえいえ」
青年の声色は水に浸っているような響きがする。雑音がなくて聞き取りやすく、頭の中にじんわりと流れ込んでくるような音声だ。
青年は視野の中心を彩羽に合わせるように顔の向きを変えた。正面から見たその顔立ちはどことなく中性的だった。
肌の色は白く、眉はかなり薄く、奥二重で目と目の間は少し離れている。唇はやや幅が広くて微笑むと綺麗な弧を描く。
「他にも蓮の君、蓮様、ハス姫、わたしたちは様々な呼ばれ方をしています」
そう言った彼の穏やかな笑みが空気を揺らす。一片の花びらが、静かな水面に落ちたようだった。
花顔とはこういう人を指すのだろうと彩羽は思った。数秒間その清涼な空気感に浸り、ふと口を開く。
「はす……姫?女性なんですか?」
「どうかな。それは身体のつくりの差異で決まるのですか」
彩羽は口元に拳を当てて考えた。昨今では答え方が難しい問いだ。どことなく夜のお仕事、源氏名を連想した。女性でも王子と呼ばれることはあるだろうし、男性もあるかもしれない。
黙って思案している彩羽に青年が言った。
「確認なさいますか」
「え?」
「冗談です」
彩羽は表情を変えないまま脳内で前言を撤回し、スケッチ道具を持って東屋を出た。伸び放題の雑草と湿気を含んだ地面を踏みながら蓮池に向かった。
池の前に折りたたみ椅子を広げて座り、スケッチブックを広げて鉛筆を手に持ち今日の日付を紙の裏に書いて白い紙に向かう。胸の辺りに発生したムカムカはしばらく居座り続けた。
蓮池を描いている最中もいつもより対象との距離を感じて画面にも収まりが悪く感じた。筆がのらない、そんなのは体のいい言い訳だと自分でもわかっている。手の運び、腕の動きが悪い。身体に余計な熱がこもって精神面にも滞りがあるからだ。
彼のことをそういうひとじゃないと思っていた。思っていたからなんだというのだろう。結局はただの自分の期待であり都合のよい幻想だ。
次話につづく




