1ー⑦ 微睡(まどろ)む青年
なんとなくカレンダーを見る気が失せる6月の上旬。髪を切ったばかりの彩羽の白い首元に湿り気を帯びた植物園内の空気がまとわりつく。
彩羽は湿気を帯びるとクセが出やすい髪質で、この時期に耳の下あたりまでのボブヘアにしたのは正解だった。
高校ではロングヘア信仰が女子生徒達の間で流布していて、それ以外は異端と見なされるため彩羽はセミロングを維持していた。『○○さんって個性的だよね』、という同級生の言葉は褒め言葉でもなんでもなかった。
実際のところ床に落ちた長い髪の毛は目立つうえ、家では母が掃除機に絡まると言っていた。よって広い校内中に落ちている髪の量を想像するとゾッとしたものだった。
現在彩羽の通う大学では、入学式初日から見本市のように多種多様なヘアスタイルが展開されていて彩羽は驚いた。男子学生のロングヘアはただの選択肢のひとつであり、髪を伸ばすのが耐えられない女子学生はいつもベリーベリーショートだったりする。
セルフカットやカラーは当たり前で各々が思い思いの姿で過ごしている。知らないうちに自分に絡みついていた枷が外れた彩羽は、髪を切ってから心身の身軽さを実感していた。
山吹植物園の蓮池近くの東屋に行くと青年が座っていた。いつも立ち姿しか見たことがなく、座っているのは珍しいと思いながら木製のベンチの端に荷物を置き、振り返ると彼はどうやら眠っているようだった。足元にはゴミ袋と金属製の長いトングがあった。
東屋のなかは壁に造り付けのベンチが2脚と、3畳ほどの小上がりの休憩所がある。幼少児連れの親子にも配慮された造りで、平日の午前中などでは幼い子供と母親がそこに上がっておやつを食べたりしている。
今日は青年と彩羽の2人しかいなかった。おそらく初めて、彩羽はその青年の全体像を目で捉えた。まず髪が肩につくほど長い。耳にかけているが、何束かは額から頬にかかっている。
髪の量は多いが1本1本が細く、いまカットしたばかりのように毛先がそろっている。クセが出やすい彩羽は、どうして細いのにうねらないのだろうと、肩につく程の長さの髪がハネていないことも不思議だった。
服装は淡いグレーの長袖シャツ、そこから血色感の乏しい色白な首筋と手首がのぞく。
眠っている、と言うよりは静止しているという表現がふさわしい気がした。それほど静穏に何ものも脅かさず、彼はそこに存在していた。
青年の容姿をひととおり記憶にしまい、東屋を出てスケッチに向かおうとする彩羽の足もとに紙切れのような薄い物がひらひらと落ちた。
拾おうとして彩羽がしゃがんだ拍子に、青年が眠りから目覚めて2人は初めて同じ高さで視線が合った。目を開いて一瞬驚いたような彼はすぐに口の両端で笑みを作る。
そのシームレスな仕草と優美な目元に、彩羽の心臓がぎゅっと縮む。唇を閉じてまたその場から立ち去りたくなった。しかし拾った紙切れを手にしたまま、今度は踏みとどまった。
まだ帽子をかぶっていないし汗もそこまでかいていないし、肌色補正の日焼け止めと薄づきの血色感リップクリームを塗ってきたし、目の前にいる青年とも向き合えるはずと自分に言い聞かせた。
次話につづく




