1ー③ きつねとラテ(1)
彩羽は大学の学生食堂の窓際の長テーブルで、注文したきつねうどんに手をつけずに窓を見つめていた。
席から少し離れた調理場では湯気が立ちこめて、水を流す音や調理器具が軽くぶつかりあう金属音が鳴っていた。マスクを着けた調理師さん達が談笑しながら仕込み作業をしている。
先月、彩羽がバスに乗り間違えた日の夜、家に帰宅してから双子の妹の実咲に連絡を入れた。バス停で2人が別れた後、彩羽からの返事がなかなか来なかったので、無事家に帰れたのか心配だったらしい。
どうやら別の場所にもバス停があり、そちらから乗った方が便利そうだと後から気づいたと実咲は謝った。彩羽が間違えて乗ったバスの系統は、あえて山のなかを走る周遊ルートで桜や紅葉時期などは利用客が増えるようだった。
大学生になってからの双子の姉妹は、実家にいた頃よりも頻繁に連絡をとるようになっていた。連絡といってもたわいない近況報告で、最近はスピーカーにしてそれぞれの用事をしながらの通話が気に入っている。
彩羽は窓の外に咲く白いハナミズキの木を見つめ、次はなにを描こうかと考えていた。芸術系の大学で美術科に在籍している学生達は、前期の基礎実習を履修中でまだ細かい専攻(日本画、油絵など)には分かれていない。
彩羽のなかで鉛筆を拾ってくれた青年の輪郭が霞んでゆく。そもそも木陰にいたので記憶自体が全体的に暗いし、声もよく覚えていないし、初対面の異性の顔を正面から直視できる人間なんてきっと稀だし、こうやって消えていくのは止めようがないことだと思った。
ハナミズキを観察していると、中心の花びらを包む片の先端同士がくっついていることに気づいた。バレリーナのような姿は可憐で微笑ましい。
ふと植物園にハナミズキは咲いていただろうかと思い、手帳を見ていると隣に誰かの気配がした。
「彩羽ちゃん。これ、落としてない?」
とっさに振り返ると、友人の梓ゆみが小さな紙を手にして立っていた。捺印済みの植物園のチケットだった。
「わたしのだね。ありがとう」
「チケット?よく見てないけど」
「そう、この間たまたま見つけた植物園」
ゆみはふうん、とうなずいて彩羽の隣に座った。
「その植物園ってあれかな。卯の花湯が近くにあることろかな」
「どうだろう。乗り間違えたバスで着いた所だったから周辺の地理まではよく見てなくて」
「そっかぁ。じゃあリニューアルして綺麗になったんだね多分。以前は確か、なんとかの楽園みたいな名前だった気がする」
「そうなんだ。詳しいね」
「確かアスレチックとかもあるでしょ。小さい頃におばあちゃん達とよく行ってたから。帰りに温泉入って帰るの。でもなんか事故か火事……でしばらく休園してた気がする」
それよりずっと昔は薬草園だったそうだ。それで新しい施設の割に園内にたくさんある大木は立派だったのか、と彩羽は思った。
「彩羽ちゃんはその元・楽園に何回か行ったの?」
少し迷ったあとに、蓮池の前で会った男のひとの話をした。落とし物を拾ってもらっただけで、なんという話でもない。道端で知らない誰かに駅までの行き方を訊ねられた程度の、取り留めもない話。
「まぁ、次にわたしが行ったときはいなくて。それだけなんだけどね」
彩羽は冷水をひとくち飲み、うどんに手をつけた。放っておかれたきつね揚げは出汁を含みきっていた。わかめほどの薄さの2切れのカマボコは見るたびに切なくなる。
彩羽が食べている隣で、ゆみはその話を腕を組んで検証していた。
「落としましたよ、って言われたんだね。その人に」
「ん?うん」
「落としてませんか、じゃなくて。ということは彩羽ちゃんが鉛筆落とすところ見てたってことだね。その男性は」
「うん。ん?」
何を隠そう梓ゆみは、他人の恋話には目がないのだった。
次話につづく




