1ー② そこに青年がいた
彩羽が振り向くとツルバミの木の陰に誰かが立っていて、手に何かを持っていた。
「落としていませんか。これ。」
その男性が手のひらに乗せていたのは1本の鉛筆だった。間違いなく彩羽のもので、高校から愛用しているオルファカッターで極限まで芯と木軸を削り出した素描用の5Bの鉛筆。
絵を描くには芯が長持ちするため使いやすい反面、鉛筆削りで均質に削られたものよりは見栄えは劣る。
それを自分よりやや年上に見える青年に拾われてしまい、恥ずかしさが込み上げ彩羽は頬が熱くなった。
「あ……ありがとうございます」
お互いに半歩ずつ近寄り、彩羽は伏せ目がちに手を伸ばして差し出された手の平から鉛筆を受け取る。これが海外製の青いステッドラーや黒の万年筆だったら、ミニシアター系の映画のワンシーンのようだったかもしれないと思った。どちらも持っていないのが悔やまれる。
ペンケースにしまい、彩羽はわずかに視線を上げて目の前の人物を見た。肩にかかるくらいの髪と白っぽいシャツの胸のポケットが目に入った。
「いいえ」
青年はひとこと答えた。低くてゆっくりした口調だった。
彼がすぐにその場を離れないので、なんとなく彩羽もタイミングを逃してしまった。あと10分で閉館だと告げるアナウンスと弦楽器によるクラシック音楽がどこからか鳴り始めた。やや物悲しさを感じる曲で、題名は思い出せなかった。
我に返った彩羽が頭を下げて正面ゲートに向かおうとすると、その青年が言った。
「お帰りでしたら、この別れ道をまっすぐ行くとすぐ東門です。正面口より近いですよ」
「あ、ありがとうございます」
園の職員さんだろうかと、彩羽はまた頭を下げ、彼に背を向けて示された方向へ歩いていった。
あのひとはまだ、木の陰にいてわたしが道を間違えないか見てくれている。そのか細い気配だけを背中に感じながら地面を踏んだ。背後に意識を向けすぎて、彩羽はいつも使っている日傘をさすのをすっかり忘れていた。
青年の教えてくれた通り東門にすぐにたどり着くことができた。しかし乗りたい帰りのバスは正面ゲートのバス停から出発するので、結局植物園の周囲を数百メートルぐるりと歩いた。
今日はことごとく遠回りする1日だった。植物園の柵は生い茂る樹々と蔦で覆われていて、園内の様子はもう見えなかった。
バスの後部座席で彩羽はそっと手のひらを開いた。柵の外に落ちていた、形が綺麗だったので拾った薄むらさき色のラッパのような花。元は雑草扱いされる類の木が成長して咲かせた花のようだった。
潰してしまうのは気が引けたが、スケッチブックの白いページにはさんだ。
次話につづく




