1ー① そこに蓮池があった
「じゃあね、アヤ。別方面行きに乗らないよう気をつけて。駅前行きはアタマの数字が1だから」
国道沿いのバス停前で、薄手のパーカーのフードをかぶり、たて糸がすり切れて両ひざが丸見えのジーンズを履いた少女が言った。
「大丈夫?わたしも一緒にバス来るまで待とうか」
「ミサは夕方からバイトでしょ。いいよ。私も明日は朝から講義だから、夕方には家に着きたいし」
彼女よりもやや背が高いもうひとりは、日傘の下で手を振って答える。
4月の最後の週末、玄川彩羽は双子の妹・実咲のアパートに遊びに来ていた。実咲は3月に実家を出て、進学先の短期大学の近くで下宿をはじめたばかりだ。
一緒に部屋を片付けたり、近所を散策して少しレトロな雰囲気の喫茶店でランチを一緒に食べた。この辺りは2人の地元に比べて緑が多く、大きな河川や田園地帯もありゆったりした時間が流れていた。
双子の姉の彩羽は実家から隣県の美術系大学に通っている。
実咲とバス停前で別れた彩羽は、バス停の路線図の下に『車内の運賃箱はつり銭が出ないので必ず小銭をご用意ください』と注意書きが貼られているのに気づいた。
こういう場合、決まって普段あるはずの小銭が財布から消えているもので、思った通り千円札と1万円札しかなかった。周囲を見渡して目に入ったドラッグストアへ飲み物を買いに行った。
戻るとちょうど目的のバスが着いたのでそれに乗り込んだ。
しばらく乗っているとバスは緩やかに坂道を登り、窓から見える景色は緑の比率が多くなりやがて緑一色に包まれた。
山、と彩羽は思った。黄色い新芽がランダムに湧き出し、山脈にフリーステッチによるパッチワークを被せたように見えた。ただ、彩羽は今朝この道を通っていない。
座席に触れている身体の部分がモゾモゾして、なんとなく違う場所に来てしまったという居心地の悪さを覚えはじめた。
さっさと動けばいいものを、しばらく流れてゆく景色を彩羽は眺めていた。何ヶ所かのバス停を通り過ぎてから重い腰をあげ、運転席後ろのバスの路線図を見に行く。
路線図を見ても知っている地名が一つも見当たらない。
玄川家から公共の交通機関を使ってここまで来たのも今日が初めてだった。片道で2時間弱かかったので結構焦らなければいけない状況だった。
しかし見知らぬ山の中で降りてしまえば次のバスは2、3時間後という可能性も充分あり得る。とりあえず山から平地へ出るまでは降りないことにして、辛抱強く揺れる座席で待っていた。
ようやく次の停車は『植物園前』という車内アナウンスが聞こえた。『山吹植物園正面口前』にはここで降りると便利だという。
山吹市の地名は彩羽にも聞き覚えがあった。かすかな手がかりを得て、ようやく眼下にポツポツと人家や公道が見えはじめ、バスが峠を越えたことを確かめた彩羽はアナウンスの声を聞いて降車ボタンを押した。
男性の運転士に間違って乗りました、とは言わずに運賃を支払う。おそらく40分ほど乗っていたのに、乗客は彩羽ひとりだけだった。余計なお世話ながらこのバス運営会社は採算はとれているのだろうかと彩羽は思った。
バス停は本当に植物園の目の前だった。植物園からはたして実家に帰ることができるのかが問題だが、交通手段を調べると本来の目的地だった駅前に向かうルートバスが出ていた。ここから乗れば無事家に帰ることができる。
帰りの時刻にまだ余裕があったので彩羽は植物園の入場チケットを購入して、まだ真新しい門をくぐった。
入場者を出迎える季節の寄せ植えの花壇と噴水広場の前を通り、園内の森林を歩いた。芽吹いた新緑の若葉がそよぎ、山から降りてくる風が園内をやさしく吹き抜けていた。桜は葉桜に変わり青紅葉が見頃だった。
まだ蕾ばかりのバラ園を通ると、はるか前方からヒヤリとしたひと筋の澄んだ空気を感じた。
細い小道を進み、薄暗い落葉樹の林を通ると、突然目の前が楕円状に明るくひらけて彩羽は小さく息を吐いた。
––––そこに蓮池があった。人気のない植物園のはずれで誰かを待つように、大きな泥の池からみずみずしい茎が静かに群生していた。
直立する1本1本はゆっくり池の底から水と酸素を吸い上げる脈のようで、まるで池全体が呼吸しているみたいだと彩羽は思った。
蓮池の前で彩羽がどのくらい立って見ていたのか、気づくと閉館時間が近づいていた。帰る前にと、持っていたハガキサイズのスケッチブックに鉛筆で蓮池を描きとめた。
大きな傘を広げたような葉は、この紙のサイズには収まりきらなかった。生ぬるい風が吹いて、樹脂製のようなコロンとした水滴が葉の上でするする舞った。
そろそろ彩羽が来た道へ戻ろうとした時、ツルバミの木の陰に誰かが立っていた。
「あの、落としていませんか。これ。」
次話につづく




