3ー③ マキオ(推定)
ウォーターガーデン(旧:大蓮池)には周囲の樹々が映り込み、水際に咲く睡蓮たちの飴細工のような色合いの花たちは目に涼しい。なかでも凛々しく咲く蓮の花は早朝の王国の貴族のような気高さを擁していた。彩羽は自然と芙蓉の面立ちを想起した。
ここへ来る前に彩羽はいつもの蓮池に向かったが、誰の姿もなかった。
当然だった。池の中には小ぶりな蕾がいくつか成っているものの開く気配が全くなかった。寺院の仏像の傍らにある造形物のようにじっとしていて、花弁の色味も感じられない。
今朝の蓮池を取り囲む空気はやや重くて薄暗く、爽やかな朝の風を停滞させてしてしまいそうな陰気さが宿っていた。しかしそれは彩羽の心情を反映してそう見えているだけかもしれない。
いくつかの蕾を描きとめ、また見に来るからね、と胸のうちで呼びかけた。顔を上げた彩羽はスケッチ帳を閉じて木陰の道へ入った。
そのときスニーカーのつま先で黒っぽい重量のある物体を蹴り飛ばしてしまい、前方へつんのめった彩羽はとっさに驚いて声が出た。
幸い転倒はしなかったが、振り返ると木の根元に2メートルほどの長細いかたまりが横たわっていた。
キャンプ経験者の彩羽はその物体がなんなのかは理解できた。しかしなぜこんなものがここにあるのかは理解できなかった。
木陰に転がっていたのはおそらく成人男性サイズの寝袋で、彩羽に蹴られたことで寝返りを打ったように90度体勢が傾いていた。
奇妙な沈黙が流れ、そのうち中でゾワゾワ動く音と低いくぐもった声がして、しばらくしてからゆっくりジッパーが5センチほど下ろされた。
本来なら、もしここが街中の歩道だったら逃げるべきなのかもしれない。だが彩羽はそのダークカーキ色に見覚えがあった。
途中引っかかりながら、その掠れた声の主はようやく頭部を露出した。片腕を出して顔をこすり、外界が明るいことに気づいたのか両腕を出して伸びをした。なにか聞き取れない言葉を唱えながらしぶしぶ起床する気になったらしい。
「イタタ。はぁ。よくねた」
その男性と思われる人物は、以前に飛燕荘で彩羽が見た写真の中の人物によく似ていた。いや、そう思いたいだけかもしれない。野外で目を覚ましたばかりの人物が次に起こす行動など知るはずもないが、この状況での50メートル走なら彩羽も負けることはない。
寝袋から顔を出した人物は開口一番に言った。寝起きにしてはよく通る声だった。
「はぁ。よくねた」
よく寝たんだ、と彩羽は思った。先日の星合まつりの夜、テントの中で彩羽はほとんど眠れなかった。昔からキャンプや旅先のホテルでは熟睡できないほうなのだ。
上半身を起こした彼は髪をかき、ゆっくりあたりを見回して、突如うわっと大声を出した。彩羽はつられて驚き、ついあとずさりした。
「あれ。だれかいる……すみません。びっくりさせて」
腰から下をまだ寝袋に収納したまま、その人物は頭を下げた。
「いえ、こちらこそすみません。わたしも気づかなくて足が当たってしまって。その……」
彩羽は頭を下げ、やや距離を取ろうとした。
「ちょっと待って」
その男性が呼び止めた。
「きみ……アゲハさん?」
「違います」
「あれ。おかしいな。アヤメ……じゃなくて、えっと」
彩羽が名乗ろうとすると覆い被せるようにまた話し出した。
「それじゃあ、君はレンって子を知ってる?この蓮池の」
「はい。知っています」
「じゃあやっぱり僕がレンから聞いていた子だ。はじめまして」
「はじめまして」
「いきなりですが、いま時間ある?ちょっとお話がしたいんだけど」
「えっと……」
彩羽は腕時計を見た。
「突然ごめんね。言っておくけどこれはナンパじゃないよ。初めましてがこのナリで、僕としても非常に遺憾だけどね。本当はオーダーメイドのカッターシャツにスラックス姿でお会いしたかったんだけど、そういうの着るとかえって胡散臭くなるんだよ、僕の場合」
この話が脱線しがちな男性は、以前れんが言っていた人物と同じなのだろうか。飛燕荘の白黒写真のいかにも学者風の人物と関係があるのだろうか。ひとまずはこの機を逃すべきではないともうひとりの自分が告げていた。
「わたし、時間あります」
「そう。じゃあモーニングでも食べながら話そう。もうブランチかな」
そう言って勢いよく立ち上がったマキオ(推定)は、案の定寝袋のなかで両足がもつれて転びそうになった。彩羽が手を差し伸べようとしたが、マキオ(推定)は鍛えられた体幹で踏みとどまり、大丈夫と手をひらひら振った。
「ごめんねフラフラして。僕は蒔生って言います。レン君の、友人で遠縁にあたります」
次話につづく




