番外栞 向日葵の花壇
なかなか寝つけなかったある満月の夜、彩羽は高校生の頃の夢を見た。信号を渡るたびに小さなアクシデントが重なり、どう頑張っても始業時間に間に合わない。双子の妹の実咲はとっくに彼氏と登校していた。
自己嫌悪と焦燥感に駆られながら学校へ向かう道中、彩羽は気づくと植物園の敷地内を歩いていた。そこに蓮池もあった。前を通り過ぎるとき、何かがおかしいと思った。いつもの静かな蓮池なのに、何かが失われていた。
確かめたいのに学校に行かなくてはいけなくて、そこで目が覚めた。
昨夜見た夢を忘れないよう、彩羽は植物園に向かうバスの中で記憶を繋ぎ止めていた。夏休みの車内には親子連れも何組か乗っていて、それぞれに虫とりあみやプールバッグを持っていた。
その日も青年れんは蓮池に現れなかった。大蓮池にも芙蓉の姿はなく、飛燕荘は施錠され、蓮池の蕾は閉じている。彩羽は突然ひとりで境界線の向こうへ放り出されたようだった。
園内を歩きまわり、向日葵の花壇に目を惹かれた彩羽はその前でスケッチを始めた。高さは2メートルはありそうな、れんより高そうな背丈のものもあった。
気温が上昇するにつれて人影はまばらになり、しばらく汗をかきながら黙々と手を動かしていた。
太陽に向かって咲く向日葵、花びらが落ちて実った種子の重みで下を向いている全盛期を過ぎた向日葵、それぞれの立ち姿に、短い期間で咲き終わる一年草ならではの儚い力強さが宿っていた。
彩羽が片手に描き続けていると、どこからか重たい足音とシャッターの連写音が聞こえた。
ひとりのカメラをもった人物が現れて、シャッターを押しながら花壇の柵を乗り越えて植え込みに立ち入った。
その人物は肩にかけた大きな高性能そうなカメラを手に花壇内を歩き、一番背丈の高い向日葵の前に立った。カメラを構えて、もう片方の手でおそらく構図に邪魔だった萎れた葉をむしって花壇に捨てはじめた。
人気もない蒸し暑さのなかで2人きり。葉をちぎる音とあまり聞きたくはない息遣いまで聞こえてきた。服装からして植物園の関係者ではなさそうだった。
突然のことに呆気に取られた彩羽は鉛筆を持ったまま声を上げた。
「むしらないでください。描いてるんです」
その人物は振り返って折りたたみ椅子に座る彩羽の存在に気づき、花壇から出た。そして彩羽のななめ後方に立ち、望遠レンズに何かを噴きかけて手入れしながら彼女のスケッチする様を見ていたが、数分後にはその場を去っていった。
ひとりになった彩羽は右手に鉛筆を握ったまま静止していた。徐々に気持ちが沈んでいった。胸のなかが暗く濁ったもやで曇っていく。
描いているからむしるな、なんて結局は彩羽自身こそ己の都合しか考えていない視野の狭い人間だと思った。最悪だった。
彩羽は花壇に残された足跡と、約半分の葉がむしり取られたまま立つ大輪の向日葵を見上げた。首をもたげた花綸に実った種子が、いまにも地面にこぼれ落ちそうだった。
番外栞 おわり




