3ー① 染まりゆく感情
彩羽の大学生活で初めての夏休みがはじまった。彩羽は植物園の園内地図を見ながら方々を歩き回り、青年れんと雨宿りで訪れた古い洋館、飛燕荘の場所をやっと探し当てた。
飛燕荘の前庭の花期を終えた紫陽花は花を切り落とされ、うす紫から青のグラデーション咲きのデルフィニウムはほぼ花びらが落ち、種子が膨らみはじめていた。
背丈の低い桔梗だけが訪問客の足元で主人の帰りを待っていた。
星合まつりの翌朝、テントのなかで目覚めたのは彩羽ひとりだった。れんは彩羽が眠っている間に出ていったわけではもちろんなく、きちんと挨拶を交わして日付が変わる前に別れた。
それ以来、彩羽は同じ回想ばかりしていた。思考がなにかに乗っ取られたように、気づけばハス科に関する画像や歴史の資料を検索してファイルに保存していた。
どこかに青年れんが写っていないかなどと、わりと重症かもしれない自覚はある。
れんはどこか浮世離れした雰囲気の持ち主で、彩羽が彼と過ごした日々の回想はどこか淡くて非現実的な色味を帯びている。
夏休み前のレポートや課題提出に追われて時間が取れない反面、れんと次に明るい場所で会うことを引き延ばしていたのも事実だった。もしれんが現れなかったらと想像すると背中が引きつる。
飛燕荘が実在する建物だったことに半ば安堵したものの、玄関の扉は南京錠で施錠されていた。
館から離れて日差しの元に出ると、ひとにはもちろん、植物にも堪える日差しが肌を刺す。地面にくっきりと落ちた影でさえ、活力が吸い取られて非力に見えた。
ふと、彩羽はれんがまとう涼やかな空気が恋しくなった。
彩羽にとって恋はまだよくわからないが、『恋しい』なら自分も使っていい気がした。あれから堂々巡りで考えていた感情の言い表し方。『好き』はあまりに日常生活に浸透しすぎている。
例えばかき氷が好き、とは普段から言えても、かき氷が恋しいとはあまり言わない。『恋しい』とはより具体的な対象に向けて抱く感情かもしれない。あのとき口にしたかき氷の味が恋しい、なら成立しうる。そういうことだ。
そこまで掘り下げてから、再び星合まつりのテントでのことを思い出して赤面しそうになった彩羽は頭を軽く振った。
諦めて彩羽はその場を離れ、ウォーターガーデン(旧:大蓮池)に向かった。来場者はまばらで睡蓮も蓮も蕾を閉じていた。
水上に建てられた六角堂の休憩所で水面に浮かぶ睡蓮の葉をスケッチしている彩羽の隣に、前触れなく誰かが近くに座った。
「こんなダル暑い真っ昼間に来るなんて、誰かと思った」
そこには艶やかにうねる髪を片方の肩に束ねた芙蓉が座っていた。
次話につづく




