2ー⑩ 星逢う夜
「彩羽さんは、なぜあの蓮池を描こうと思われたんですか」
青年れんの問いに、彩羽はテント内のランタンの揺れる灯りを見つめながら答える。
「わたしがここへ来たときに、初めに見つけたのが小さいほうの蓮池だったんです。れんさんがいた場所ですね。地図をよく見ずに林の小道を歩いていたら突然視界がひらけて目に入ってきて。とても印象的でした」
その後れんに、落とした鉛筆を拾ってもらったのだった。双子の妹の実咲がローマ字で彫ってくれた名前入りの鉛筆。
「長い時間あの場所にいてくれましたよね」
「閉園時間ギリギリまでいましたっけ。わたしはあの蓮池をはじめて見たとき、その、笑わないで欲しいんですが……」
「なんですか」
「こう、まるくあいた空に向かって池全体が歌っているようでした」
彩羽は天幕越しに見えない夜空を見上げた。れんは静かに笑みを結ぶ。
「そうかもしれません」
「大蓮池、ウォーターガーデンも綺麗です。よく手入れされていて……いい景観です。ただ集中して絵を描きたいわたしにとっては、人気のない静かなあの場所が合っているんです」
何度か通ううち、蓮池に行けば青年に会えるかもしれないと思いはじめたとはとても言えない。どこまで話すことが許されるのか、それにより今夜なにかが変わってしまうのか、彩羽はそんなことを気にしていた。
「あの日、閉園時間が迫っていて……誰かがまたここに迷い込んだのかなとぼくは思っていたんです」
「迷い?」
「はい。よくいるんですよ。大抵のひとは目的地じゃないからと、すぐ引き返して去っていきます。林の中は薄暗くて、池の周囲も湿地ですからね。彩羽さんはずっといて、あのときの視線がとても印象的でした。引っ張られるように、ぼくはあなたの前に現れてしまいました」
「そんなに凝視していましたか」
彩羽は少し恥ずかしくなった。なに見てるんだと訝しがってこない植物は、いくらでも眺めていられるのでつい見すぎてしまうのだ。
「いいえ。うれしかったんです」
呟いた声は低くて穏やかで温かい。
そのとき、テントの外から知らない誰かの声がした。もう消灯時間だから照明器具の使用を極力控えるように、と園の職員の呼びかけだった。彩羽はとっさに返事をし、片手をついてランタンの電源スイッチを切った。
急な暗闇に目が慣れず、座り直したときに彩羽の肘がれんのリネンのシャツと掠った。互いの手が触れるか触れないかの位置にあった。
数秒の沈黙が流れ、れんがそろそろお暇しますね、と言った。
「まだいて下さっても、わたしは構わないですよ」
彩羽の言葉にはかすかな磁力が宿っていた。かき集めた砂鉄ほどにか弱い。どうしても引き寄せたいなら、必要なのは磁力ではなくさらに強固な意志かもしれない。
わずかに接している手と手はまだ動かない。半円の白群のなかは酸素が急速に減り始めて心臓がうるさく鳴り出した。
自信なんかないし、うるさく鳴り続けるこれは警告か期待か、どちらでもいい。
肩と肩が軽くぶつかった。手のひらは冷たかった。
全てを包み込む夜の空には、光の粒たちが瞬きながら流れていた。
第3章につづく




