2ー⑧ 願いの糸(1)
「先に戻られた彩羽さんのお友達、大丈夫そうですか」
「はい。さっき2人からテントに着いたと連絡が入っていました」
実咲とゆみが先にテントを設置している芝生広場へ戻ってしまい、いまは灯籠が点在する夜の小道を青年れんと彩羽の2人で歩いていた。彩羽は先日れんと訪れた古い洋館のことが気になっていた。
「飛燕荘は、ぼくの知人が管理しているんです」
「芙蓉さんですか?」
彩羽が思いつく青年の知り合いはひとりしかいない。彼が他の人間、例えば植物園の職員やお客と接している場面を見たことがないのだ。
「いいえ。知人はいま国外にいます。おそらく。もともとこの植物園の始まりは、彼の祖先が所有する広い庭だったんです。飛燕荘は彼が管理していますが、年中放浪していて滅多にこっちにいないので代わりにぼくが鍵を預かっているんです」
青年の交友関係が垣間見えて彩羽は安心した。もしかしたら青年は自分だけに見える存在なのでは、と錯覚する瞬間がしばしばあったからだ。突然の友人たちのお膳立てには困ってしまったが、その懸念を解消してくれた実咲とゆみにも感謝した。
「その彼も、もうすぐ帰って来るかもしれません。芙蓉とは親類のようなものです。分家と本家といえばいいのかな」
「そうなんですね。だからお2人の容姿が似ていたんですね」
「ぼくと似てるなんて言うと芙蓉に怒られますよ。そうだ芙蓉といえば……彩羽さんに恋人はいらっしゃるんですか」
緩やかに渓谷を流れる河を小舟で下っている最中、突如激流にさらわれそうになるほどの衝撃が彩羽を襲う。
河に投げ出されそうな小舟を押さえつけてなんとか踏ん張り、彩羽は答えた。
「えと、いないです」
「そうですか。すみません。色々ご都合もあるでしょうに、こうしてぼくと2人で歩く前に、もっと早くに聞くべきですよね」
彩羽は小さく笑った。れんさんはどうなんですか、とすぐに聞き返せばよかった、と後から気づく。けれど青年のように滑らかに言葉は出てこない。もう時間切れだった。
再び竹林の前を通り、さっき実咲たちと短冊を書いたことを彩羽が伝えると、青年も書くと言い出してしばらく考えこんでいた。
「いざ書くとなると、けっこう迷いますね」
そう言って、青年はうす紫色の短冊に筆ペンで流れるような筆致で書きはじめた。
「わたしたちはこの辺りの枝に結びましたよ」
「ではぼくも近くに結びます。実はひとつに決められなくて、裏表に書きました」
「裏表って、そんなのはじめて聞きました」
彩羽が朗らかに笑うと、青年も静かに笑みを作って腕を伸ばして青笹に結びつけた。
白い手の甲の隙間から短冊の一部が見えた。彩羽の願いごとはなにかと、青年は尋ねなかった。来園者が託したたくさんの願いごとで、大きな笹は頭を重そうにもたげていた。
夜の散歩もそろそろ終着点が近づき、参加者がテントを設置している芝生広場が目前に見えてきた。ここで別れるのが本来の2人の関係性だ。
彩羽が右腕を上げて、広場の隅に設置されたやや歪なアイボリー色の半球体を指差す。
「あれがわたしたちの持ってきたテントです」
深く靄がかかったような青年の瞳を見て、彩羽は言った。
「よければ少し、寄って行きませんか」
次話につづく




