2ー③ 飛燕荘
飛燕荘の1階の応接間のような空間には、丸い木製テーブルと肘掛け椅子が3脚置かれていた。テーブルの真ん中には空っぽのガラスの花瓶と、ブルーのインクで宛名が書かれた封筒があった。まるで10年間そこにあるかのような静物と化していた。
窓ガラスを雨粒が容赦なく叩きつけている。室内は湿気と古い木材が混ざった匂いがした。全く使われていないわけではなく、普段から手入れされている建物のようだ。
部屋の奥の壁には額に入った何枚かの白黒写真があった。主に写っているのはメガネをかけた学者風の男性で、背景は森などの自然や、薬草園と書かれた門の前。その他は異国で撮られたように見える。戸棚には外国語で書かれたような古い書物が並んでいた。
れんはこの中にいそうだと彩羽は思った。古い写真では、艶のある黒髪との対比で被写体が色白で平坦な顔に見えやすい。穏やかに笑って時が止まった写真の中からこちらを見ている。
いくら膨大で詳細な資料が残っていたとしても、この時代の彼らが何を思い日々を過ごしていたのか、時間に織り込まれた感情の襞までは決して知ることはできない。
そのとき青年れんが部屋に戻ってきた。彩羽は渡されたタオルでカバンや濡れた肩を拭いた。青年の肩や頭にはまだ雫が残っていて濡れたままだったが全く気に留めていない様子だった。
「寒くありませんか」
「大したことないので大丈夫です。れんさんのほうが濡れているので乾かして下さい。わたし、帰りのバスの時刻を調べますね」
雨の音がおさまってきて、外がにわかに明るくなってきた。この建物内は雨音と対照的で静かすぎる。
青年れんはまた席を外し、しばらくして黒の無地の長袖カットソーに着替え、素足で室内履きのようなサンダルを履いて出てきた。
血管が透けるような白い肌、筋ばった足の甲と四角く切り揃えられた爪たちがサンダルから覗き、やはり目の前にいるのはひとりの男性なのだと彩羽に気づかせた。
彩羽はさっきはじめて青年を名前で呼んだ。そして部屋には2人しかいない事実が彩羽の心臓の鼓動を早くする。それに引き換え青年は普段通りのトーンで、彩羽はここからすぐにでも出ていきたくなった。
青年のシャツ以外の服装姿を見たのは初めてだった。髪がまだ濡れていて束になって顔や肩にかかっている。ヘアゴムで縛ればいいのに、持っていないのだろうかと彩羽は思いながら見ていた。
こうしていると青年は、街を歩く髪の長いラフな今時の若者のように見えた。少し異質なのは大きなカーキ色の荷物を抱えている点だった。
「そうだ彩羽さん、これ。使えませんか、七夕の夜」
「え、それって……」
その時、ドアを開けて強く閉める音がした。細いヒールが床板を小気味よい音で踏みながら、誰かが入ってきた。
「誰かいるの」
白熱灯で照らされた白い肌はれんとよく似ていて、長い髪の毛先が大輪の百合のように大きくカールしていた。
「芙蓉」
青年れんにそう呼ばれた人物は、2人を見てまた目線を青年に戻した。彩羽は一瞬、彼女からは自分の姿が見えていないのかと思った。
次話につづく




