第22話 聖女を騙す勇者
第四層に足を踏み入れた瞬間、鉄の臭いが鼻を突いた。
ーー薄々、わかっていたことだ。 あの、音はここから聴こえてきたのだから。
足元を見る。 血だ。 それも、一人二人の量じゃない、大量だ。
第四層からは、冒険者どもの修行場の層だ。 とは言っても、所詮は雑魚。
俺が本調子なら、意図も容易く葬れることだろう。
しかし。 まあ、いいだろう。 都合良く乱闘が起こっていた。
「死ね!」
「ぎゃはは! 貴様の首、貰い受ける!」
「近寄るな! 来るなあああ!」
冒険者が、冒険者に斬りかかっている。 雑魚どもの戯れよ!
パーティも敵味方もない。 さっきまで弟子と師匠だったであろう連中が、目を血走らせて武器を振り回している。 逃げ惑う奴、笑いながら追う奴、隅で頭を抱えて絶叫する奴。
ーーまさに、地獄よなぁ?
「ひどい……何が起こっているの?」
肩の上で、バニラが声を震わせた。 かなり、精神的に参っているなぁ?
「この層の人たちは……ナナシ、下ろしてください……」
「却下だ」
「まだ間に合うんです! せめて、無事な人を上層へ逃がすくらいなら……」
「……ほう?」
バニラの発言に、俺は思わず口の端を上げた。
「へえ。 ……こんなボロボロの俺を無視してねぇ?」
「ッ。 当然です。 ……あれの前に、私を連れて行かないでください。 お願いします」
「最下層に行けば、どんな願いでも叶うんだぜ? ……例えば、みんなを元通りにするとかなぁ?」
「なんですって? ですが……」
バニラの声から、怒りが消えていた。
代わりに滲んでいたのは、怯えだ。 バニラが、背中で震えている。
ーーチッ。 後、もう一押しだなぁ?
「……俺なら、連れて行ける。 万全な状態の俺ならな……」
「……」
チッ。 駄目か、俺は乱闘の只中へ、足を踏み出した。
そこへ、雑魚どもが襲いかかってきた。
「ころ……コロス……!」
「邪魔だ」
斬りかかってきた男を、剣の腹で薙ぎ払う。 脇腹の傷が開いた。 振り抜いた剣が鈍る。 男の斧が、俺の肩口を掠めて血を散らした。
ーークソ。 届かねえ。 いつもならこんな雑魚、一撃のはずだ。
振り向きざまに肘を叩き込む。 だが、足元がふらついた。 視界が明滅する。 出血が、限界に近い。
ーーハ。 笑えるな。 正気の雑魚に囲まれて負けて、狂った雑魚にも削られて。
俺は勇者だぞ。 最強のはずなんだ。 なのにどうしてこんなにも、弱いんだ。
「……もう、見ていられません。 私の負けです……」
その時だった。 肩の上のバニラが、小さく息を吸った。
凛とした声が響いた瞬間、俺の体の傷が癒えていく。
ーーやっとかよ? おせぇんだよ? クソ聖女がよ!
俺は、見事な早業でゾンビどもを沈めていくーー
やがて、まわりで立っているのは、俺だけになった。
「……おい。 治さないんじゃなかったのか?」
「……勘違いしないでください。 目的のため仕方なくです」
バニラは、俺の顔を見なかった。
「貴方が野垂れ死ぬと、私を最下層に運ぶ人がいなくなって……いえ」
彼女は小さく首を振って、言い直した。
「……貴方に、こんな所で死んでほしくないだけです」
「……」
「そうかよ……」
「私を打たないんですか? ……物語では、出来損ないの女は、頬をぶたれる展開のはずです……」
「ハア?」
ーーコイツ、妄想のしすぎだな?
まあ、目標を達成したら、こんな女なんて、どうでもいいんだがなぁ?
ーーみんなを元通りだ? とても素晴らしい、お花畑思考だなぁ?
まあ、俺の野望のために、夢見てくれや! 絶対に叶わないけどなぁ?
なぜかって? 願いを叶えられるのは、一回だけだからだーー




