第29話 具現化する絶望 ーーエメラルド視点
謎の咆哮が、第十層の岩盤を震わせている。 一体どうしたんだ!
それは、僕がこの穴の底で聞いてきた、どんな魔物の声とも違っていた。
まるで地の底そのものが呻いているような、そんな嘆きの声。
「……なんだ。 これは……まるで、叫びのようだね」
「エメラルド部隊長!」
「どうしたんだい? ……何があったか、教えてくれるかい?」
血相を変えて駆け込んできた、僕の部下の一人。 僕は、体が震えるのを抑えながら、尋ねる。
「第十一層から、何かが上がってきてます!」
「なるほど、それで? 強さは?」
「測定不能です!」
測定不能? ありえない。 まさか、最下層から、ここまで上がってきたのか?
ーーまずい。 そんな魔物がこれ以上、進出したら只事では済まないぞ!
このダンジョンは、僕たちが一番知っている。 先人たちから引き継いで、何年もかけて把握し尽くした。 想定外など、存在しないはずだった。
ーーだけど、間違いだったのか。
「……全班、撤退準備! 今すぐに、地上へ行きギルドに報告せよ!」
「エメラルド部隊長! そんな……」
慌てふためく同志に、僕は改めて告げる。
「聞こえなかったか? ……荷はすべて捨てていい。 今すぐに、上がれ!」
それから、指示に従い人が動き出した。 温泉から飛び出して逃げる冒険者たち。
我々の指示に従い通路へ殺到する。 温泉客たち。
大混乱と未曾有の恐怖が、第十層に満ちていた。
そんな中。 僕は一人、第十層の奥へ向かおうとしていた。
「待ってください! 部隊長、俺も行きます!」
同志の一人が僕に言う。 僕は得物に手をかけてこう言った。
「……殿は僕、一人がやる。 そいつの足をここで止めてやる。 第十層から上には、一歩も行かせない」
「そんな。 一人じゃ……」
「いいから行け!」
僕は、滅多に出さない声を張り上げた。
「部隊長命令だ。 これは、僕がここに居続けた理由なんだ……」
部下が、唇を噛んで踵を返す。 最後の一人の足音が通路の奥へ消えていくのを、僕は背中で聞いていた。
静寂。 湯のしたたる音が、耳に響く。
それは、火灯を一つずつ飲み込んでいた。
ーー暗がりにいる。 ゆっくりとだが、全てを飲み込むような絶望が。
まるで、このダンジョンの意思が、具現化したような、ドス黒い死の予感。
かつて、同士討ちが盛んだった原因が、そこにはあった。
瘴気が充満してきた。 ーーこれは、まずい。 常人では、気が狂ってしまうぞ!
ここで、平然としていられるのは、僕みたいな絶望を一度味わった狂人ぐらいだ。
そして。 瘴気をかき分けて、ゆっくりとそれは姿を現す。
黒い。 光を吸う黒。 鉱物のような外殻に覆われた巨躯。 四肢は岩肌に食い込む鉤爪を備え、背には砕けた結晶が剣山のように生えている。
異形がまた咆哮した。 広場の空気がびりびりと震えていた。
僕は異形と向き合う。 得物を構え、間合いを測る。
ーーその時だった。 手元の火が照らした景色には、見慣れた紋様が、刻まれていた。 僕たちの紋章だ。
「……なんで、お前が。 僕たちの証を……」
声が、勝手に漏れた。 まさかを考え。 息が、止まった。
下りていった僕たちの仲間が、この鉱山に喰われ、取り込まれ。 こうして、変わり果てて戻って来た。
作為的なもの。 あの違和感の正体が、牙を剥いている。
この鉱山は、ただ人を殺す穴じゃない。 これ以上に恐ろしい何かが下にある。
異形が、僕を見た。 ほんの一瞬。 僕を探るような何かを感じる。
この状況で、取り乱さない僕を不審がっているようだ。
僕は得物を握り直す。 冒険がしたいと、本音を漏らした。 停滞を破る「何か」を待っていた。 その願いの代償が、これか!
ーー素晴らしい! 最高ではないか!
まさに、混沌。 僕を奈落の底へ導いてくれよ! なあ?
異形が、また咆哮を上げる。 それはもう、ただの魔物の声には聞こえなかった。 助けを求める声にも、恨みの声にも、俺を迎えにきた声にも聞こえる。
僕は、地を蹴った。 待ってて、今僕もいくからーー
「……どけ、緑髪。 俺がコイツを潰す」
「君は誰だい? なぜ、この状況で平気なんだい?」
突然現れた、冒険者に。 思わず質問する僕。
すると。 彼は一瞥して、僕にこう言った。
ーーナナシだと。




