少年が綴った物語-ジキ
憎い
ガリッ
憎い 憎い
ガリッガリッ
憎い 憎い 憎い 憎い 憎い 憎い 憎い 憎い 憎いー!
その牢獄にはガリガリという木を削る音が鳴り響いていた。
見張りの者は、その物音に気付かずに眠っている。
少年…。ジキは、それをニヤリと、睨んでいるのだか笑っているのだか分からない不適な表情で見、確認をすると、自分を閉じ込めている木牢に再度かぶりつき、削り始めた。
憎い
ガリリッ
少年、ジキの人生は、獄中の中で始まった。どんな罪目で捕まったのかは知らない。物心ついた時には既に、ジキはもうその世界の中にいた。
きっと、大した理由でもないのだろう。
他の囚人達の話を聞いて、ジキは、自分が捕らえられた理由を、どうせくだらない事であろうと考えていた。
ここは、適当に理由をつけられ、ほとんど何の意味もなく捕まった囚人達で溢れかえっているのだ。
大体、年端もいかぬ子供がそんなに酷い罪状を犯すわけもない。
そう……、この刑場の中には、幼い子供ですらも数多くいる。
ジキは、幼い頃から過酷な労働を強いられてきた。それは、凶悪犯へ課せられる罰と、なんら変わる事はなかったのだ。
――否。
或いは、自分ならありえるかもしれない、な。
しかしジキは、時として、己の人生を振り返り、少々自虐的に、頭の中でそんな呟きをする事もあった。
ジキの行い、人生は、そんな事を自ら思わせる程酷いものだったのだ。
……ククッ
苦笑してしまう。
ガリッガリッ
憎い…
憎い
この刑場は、罪人達に強制労働をさせる為の場所である。危険で過酷な仕事。そういった労働を、罰として、罪人たちに無理矢理に行わせる為の場所なのだ。囚人達は、一度に大量に連れてこられる。もちろん、それだけ多くの罪人が都合良く存在する訳はない。その多くは、適当な罪をでっち上げられた無実の罪の者達だった。
過酷な仕事の労働力の確保の為、人手を欲している国が、そんな事を行っているのだ。
この刑場では、労働の効率化の為、囚人達は大きく二つの集団に振り分けられる。
一つは、強靭な肉体を持つ者達。
優秀班。
これは、働き手として優秀であると判断された者達の集団だ。確かに労働はきついが、食料(残飯のような食事ではあるが)などは多く割り当てられ“生きる”事が一応可能ではある。
そしてもう一つは、貧弱な者達。
劣等班。
これは、すぐに死んでしまうか、或いは仕事の足を引っ張るだろうと判断された者達の集団だ。食料などは、優秀班に比べて質も悪く量も少ない。そして、しかも仕事も、優秀班よりも危険な仕事を当てられる。
何故なら、使い捨ての道具として、始めから労働現場に投入されるからだ。
死んで当たり前。
そういった扱いである。
その方が効率は良いのである。
食料の節約ができるし、怪我などをして使えなくなれば、廃棄処分にすればいい。新しい罪人、――労働者は、次から次へとやって来る。
長く使える優秀な者達は、ある程度は保護し、過酷な労働に耐えられないだろう者達は、保護してもどうせすぐに使い物にならなくなるのだから、一時的に過酷な労働をさせ、新しい者に入れ替えれば良い。そうすれば、常に効率の良い労働現場を保てる――。
――そういった発想である。
危険な事を多くやらされる上、元々虚弱な劣等班の人間達は、どんどんと死んでいく。そうして、死んだ分だけ、また新たに人がやって来て、また死んでいく。
少年。
――ジキは、そんな環境で育った。
憎い
ガリッ
優秀班と劣等班の振り分けは、ここに連れてこられた時、即座に判断が行われる。
ジキは痩せた子供だった。だから、劣等班に加えられた。しかし、もちろん、もともと、しっかりとした検査など行われてはいない。それはいい加減な判断である。
だから、本来なら丈夫な強い肉体を持つ者でも、劣等班に加えられる事は多くあった。
そして、ジキは、そんな者の一人だった。ジキは、その外見に反して、強靭な生命力を持っていたのだ。
ガリッガリッ
だから、ジキは劣等班生き残り組となる事ができた。生き残り組とは、劣等班にいながら、長い間何とか“死なないでいられている”連中の事だ。この連中は、作業場の中でもかなり珍しい存在だった。そして、そんな珍しい生き残り組の中でも、ジキは、更に特殊な存在だった。
他の生き残り組の人間達が、少しでも楽な環境で生活をする為に、何とか優秀班に上がろうとしている中で、ただ独り、ジキだけはそんな事は露ほども考えてはいなかったのだ。
ジキだけは、外を見ていた。
こんな閉ざされた世界ではなく、大空の下を夢見ていた。
……つまり、ジキは、この刑場からの脱走を、その腹の中で虎視眈々と、企んでいたのだ。
もちろん、脱出を夢見ない者などこの刑場にはいない。誰だって、こんな地獄を抜け出し、外の世界に出たいと願っている。
しかし、本気でここからの脱走を考えている者などいはしなかった。本気でそれを考えているのは、ジキただ独りだけだった。
脱走を現実のモノとして受け入れるには、この刑場の状況は、あまりにも絶望的過ぎたからだ。
まずは、生き残り、生活を楽にする事。体力が戻らなくては、脱出は無理だろう。
どうせ、明日には死んでしまうかもしれない劣等班の連中でさえ、一か八かで脱出を試みる者などおらず、取り敢えずは優秀班に入る事を、その目標にしていた。
それは或いは、危険回避の為の、自分達自身に対する言い訳であったのかもしれない。
ガリッ…ガリッ…
“俺は、絶対に抜け出してやる”
絶望感と閉塞感。
幼いジキが、自分を取り囲むその世界から与えられ続けていたのは、そういった負の感覚だけだった。この世には何一つ、良い事などありはしない。そうジキは思っていた。そして、だから、この世界全体に対する怒りや憎しみが、ジキの根底には渦巻いていた。
ジキの気性は、だから異常なまでに荒々しかった。
ジキは、どんな人間に対しても敵意を剥き出しにしていた。
同僚にも、年上にも、年下にも。目上の者だろうが、監視人であろうが。
お構いなしに。
ジキは怒りを食らい、憎悪を生命力の源泉にして生きていた。だから、自分の中にあるその感情を、そのままに、周囲に対しぶちまけていた。
憎んでいなくては、生きてはいけない。
ジキは、そういった人格に育ってしまっていた。
そうでなくては、あまりにも過酷な環境に耐えられなかったのだ。恐怖や絶望に押し潰されてしまう。
そしてだから、皆が考えているのと同じ行動を執る事ができなかった。順ずる事は、ジキにとって生きる活力をなくしてしまう事を意味している。反発を、しなくてはいけなかった。だから、ジキは優秀班を目指す事をしなかったのだ。
“抜け出てやる!”
ガリッ…
ジキは脱獄の為に、仲間を数人集めた。
もちろん、はじめは誰も仲間になどなろうとはしない。皆、脱獄など、夢のまた夢だと考えているからだ。しかし、時が経ち、周りの者達が一人、また一人と死んでいく中で、ジキの説得に気持ちの揺らぐ者が、少しだが現われた。
自分の体力の限界を自覚し始めた者達。
自分達はいずれ死んでしまう。
どうせ、死ぬなら。
可能性、ほぼ皆無であっても。
賭けてみるか。
脱獄。
そして、もう一つの理由。
ジキ。
ジキの凶暴性、荒々しさは、この刑場内の者達からでさえ、忌み嫌われていたが、同時にその生命力、強靭さは、畏怖の対象にもなっていたのだ。
力の弱い者達からは、特に。
だから、ジキならば或いは、と刑場内の者達にどこか思わせていたのだ。
脱獄の可能性があるかもしれない。
それで、結局、四人、脱獄参加者は集まった。
ジキを入れれば、五人だ。
ガリッ…
脱獄は失敗した。
五人いた内、二人は、失敗したその時に殺されてしまった。
ジキを含めた三人は捕まり、罰を受け、その過程で、元々体力のなかったその内の一人は耐え切れずに死んでしまった。
結局生き残ったは、二人だけ。
更に、首謀者であったジキは、見せしめの為、手枷を後手に嵌められ、腕の自由を奪われてしまった。
………。
つまり、執念で脱獄を決行した結果、呆気なく失敗し、当然、得るものは何もなく、ジキは、前よりも更に過酷な境遇に立たされてしまったのだ。
結果は惨憺たるものだろう。
三人が死亡し、何とか生き残った一人も無傷ではない。そして、ジキは腕の自由を奪われてしまった。
周りの者達は、そんなジキ達を、半ば呆れながら、そして哀れんだ目で見守った。初めから、無謀な計画だったのだ、と。馬鹿な事をしたものだ、と。そして、それから、自分達の状況の救いのなさを、改めて再認識した。
この状況からは、逃れられない。
死ぬまで、地獄が続くのだ。
………、そして、
もう、これでジキのヤツも思い知っただろう。脱獄を企む事など、しないだろう。
ジキは、諦めている。
そう、誰もが思っていた。
しかし、
…、
それでも、ジキは、脱獄を諦めてなどいなかったのだ。
ガリリッ!
憎い
後手に手枷を嵌めら、腕を封じられたジキは、それからの、作業を含めた日常の事々を、足と、そして顎とを使って行った。
いつまでも、ジキの手枷が外される事はなかったのだ。
それはどうやら、脱獄を実行したジキの、永続的な罰であったらしい。否、もちろん、それは推測に過ぎないが。もしかしたら、刑場側が、ジキに罰を下した事など忘れただけなのかもしれない。それで、外す事も忘れられていたのだ。否、もっと単純に、監視人達は、外すという作業を面倒くさがっただけなのかもしれない。
元より、どうせ死んでも構わない、という扱いなのである。
その可能性は、充分に考えられる。
何にせよ、ジキの手枷が外される事はなかった。
そして、その内に、ジキの顎や足はその所為で鍛えられ、そして器用になっていった。腕が自由でなくても、それほど困らない程に。
縄を顎で加え、重い岩石などを運び、足を使って、飯を食す事ができるようにまでになっていた。
……しかし、実はそれらは、ジキが故意に自らを鍛えた結果である。
顎と足を鍛える。
ジキは、その作業に懸命に打ち込んでいた。
その姿は、一見、ジキが改心し、真面目に作業を行っている様子に、つまり、脱獄など考えていない様子に窺えた。
実際、周囲の者たちは、その姿を観察し、刑場の監視人達も含め、ジキは改心しているのだと思っていた。
更に、もう、ジキは以前のように、やたらと周囲に対して刃向かうだとかいった問題行動を起こす事もなくなっていた。その事も、それを確信させる要因になった。
“真面目”に、優秀班を目指してるものと、周囲の誰もがそう思い、少しも疑っていなかった。
ガリッ
“そもそも、初めから馬鹿だったのだ”
ジキは、確かに、ある意味では反省をしていた。
周囲に対して、反発をし、その行動を監視人から睨まれる。そんな状態では、脱獄をする気があるという事を、自ら通告しているようなものだ。
“それでは、脱獄など、成功するはずがない!”
だから、ジキは周囲に対しての反発を止めていたのだ。
ジキは、憎悪を、その怒りを、胸の奥深くに隠し、手枷を嵌められ腕を封じられた毎日を、じくじくと過ごしていた。
燻った炎。
執念で、それを抑え込んでいた。
“油断させる”
ジキは、まずはそれが第一だと判断したのだ。
手枷を嵌められている立場というのは、その為には好都合だった。
そんな不利な条件で、脱獄を実行するなど誰も考えないだろうからである。
“後は、腕を封じられたままで、脱獄を実行できるだけの能力を身に付けるだけだ”
ジキは、そう考えていた。
そして、それに熱中する事で、自らの怒りを封じてもいた。それで、憤懣を発散させていたのだ。
そして、それは同時に、ジキが新しく手に入れた“生き続ける力”その源泉でもあった。
作業の合間合間に、ジキは監視が一番手薄な場所を丹念に調べ、それを頭に叩き込んでいった。
脱出に一番適した時刻、それも少しずつ、少しずつ調べていった。
まずはあそこを通り、ここから外を目指す。この位置なら、なんとか塀を登れるだろう。
そして、頭の中でそれを整理し、脱出の計画を練っていった。書き物などは、一切しなかった。今度のジキは、証拠となるようなモノを絶対に残さないと決めていたのだ。
ただ、
たった一人にだけは、それを告白した。
前回の脱獄時、一緒に逃げようとし、そして失敗し、ジキ以外ではただ一人生き残る事ができた“仲間”。その一人にだけは。
ジキは、その一人を再び脱獄に誘ったのだ。
今度こそは絶対に上手くいくぞ、と。
ジキにはその自信があった。
ガリッ…
それは、相手に対する申し訳なさ、罪の意識からの行為だったのかもしれない。ジキがそんな思いを抱くのは、初めての事だった。
が、
…憎い!
脱獄は密告された。
その“仲間”の手によって。
いよいよ脱獄を、ジキは決行した。
その一人と共に。
監視が一番手薄な時刻、真夜中。一番手薄な場所。そこを縫うように移動するジキともう一人。ところが、ある一時、今まで一緒に行動していたはずの仲間はスッといなくなった。そして、次の瞬間、灯りが決して燈るはずのないその場所に、灯りが。
照らし出される世界。
人の気配がわらわらと。
ジキはその場に立ち尽くし、その状況に対して唖然とした。
光りを背景に影で見える、武器を手に持った刑場の衛兵達。
何が起こったのか、ジキにはしばらくの間分からなかった。
やがて、ついさっきまで一緒に行動していたはずの仲間が、その群れの合間から姿を現す。
それで、ジキは、はじめてこの事態が何であるのかに思い至った。
“裏切られたのか!”
そう悟る。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!
「お前の所為で、みんな死んだんだ! お前の所為で!」
衛兵達の間から、さっきまで仲間だったはずの男が叫んだ。
罪の意識を無理矢理に払拭する為の叫び。
ギリッ……。
歯を食い縛り、全て、全てをジキは睨み据えた。
憎い!
笑う衛兵達。
「この者はな、お前の脱獄を密告する代わりに、優秀班に入れてくれと申し立ててきたのだ。観念しろ、辺りは囲まれている、どうせ逃げられんぞ」
笑う衛兵達。
「良かったではないか、罪滅ぼしができて。お前のお陰でこの者は優秀班に入れるのだ。ただ、お前には、拷問と、これまでよりももっと酷い、過酷な労働が待っているがな」
ガリッ…ガリッ…
ジキは、それから特別な牢へと連れて行かれた。
“本物の”犯罪者達の牢へと。
しかも、そこは、重罪の者達、とびきり凶悪で凶暴な者達ばかりが集まる、獄中の暗部だった。
中に叩き込まれるジキ。
痩せた子供に、獄中の者達の視線が集まる。
「なんだこいつは?」
「面白ぇ新入りが来たな」
「子供じゃねぇか」
叩き込まれたその体勢のままジキは床に這いつくばっており、その顔はそれで床に向けられていた。
囚人達からは、ジキの表情は見えない。
囚人達は、その体勢のジキを口々に馬鹿にし、からかっていた。
そして、囚人の内の一人がジキに近づいていったその時だった。
ジキは、顔をむくりと上げた。
その表情
怒り、怒り、怒り。
怒りを超えた怒り。
狂人の顔。
憎悪。
その顔を見た瞬間、囚人達は戦慄した。
そして、それが切っ掛けだった。今まで、あまりの衝撃と絶望感、憎悪や怒りの為、表面上は噴出せずに奥に塊となっていたその情動が、一気に爆発をしたのだ。
うわあぁぁぁぁぁぁ!
近付いて来た囚人の、その喉元に食らい尽く、ジキ。
囚人の首元から血が噴出した。
悲鳴を上げる囚人。
それを見つめる他の囚人達は、突然の出来事に事態がうまく飲み込めず、一瞬凝固したが、それから直ぐに何が起こったのかを悟ると、一斉にジキを取り押さえに向かった。
通常の条件ならば、ジキに勝ち目はなかっただろう。
相手は頑健で凶悪な男達、複数の手練である。
しかし、囚人達はジキを知らなかった。手を使わず、足を器用に動かし、そして強靭な顎を武器に闘うジキの戦闘方法は、人間のそれではない。
そして、
ジキの方は“人間”という動物を知っていた。
殴りかかる、或いは掴みかかる囚人の指を、腕を、食いちぎる。そして、それで怯んだ相手の喉を噛み砕き、一瞬にして殺してしまうジキ。
もちろん、要因はそれだけではない。
外見よりも遥かに強い力をジキが持っており、その差によって囚人達がジキの能力を見誤っていたという点。
何より、全てに対する憎悪を剥き出しにしている状態のジキと、ただの変わった新入りをからかっていただけの囚人達との“殺意”の決定的な差。
荒れ狂うジキ。
狂気、乱、乱、乱。
それでも、もっと冷静に事態に対処し、組織的に行動していれば、囚人達はジキを何とかできたかもしれない。しかし、正体不明かつ異形、そして狂気なる形相と異常な凶暴性を見せるジキに恐怖し、防衛本能を暴走させ、混乱してしまっていた囚人達には、それは不可能だった。
最後には、逃げ惑う者や、助けを大声で叫ぶ者もあったが、獄中の暗部であるこの場所には誰もやって来ない。
やがて、
血の海の中に、ただ独り、ただ独りだけで、座り込むジキの姿があった。
呆然自失の状態。
他の囚人達は、全て死んでいた。
――皆殺し、だった。
憎い!
ガリッ!
その後、ジキはたった一人別の牢へと監禁された。
直ぐには殺されなかった。ジキに対する決定は、延期された。
支配者である、という刑場側の余裕だろうか? ジキの凶暴性や異質性、そしてその強さが注目をされた為だ。ただ、殺してしまうのは惜しい。そういう事である。
ただ、だからといって何に使える訳でもない。ジキはただ閉じ込められていた。
しばらくの間。
そして、その間、ジキ。
ジキは、真っ暗闇の中、たった独りのその空間で、自問自答に陥っていた。
己の人生。
何だったのか?
激情の波が過ぎ去った後にやってきた、静かで落ち込んだ状態、その感情で、ジキは自分を見つめていた。
人がやって来ては殺され、やって来ては殺され、その繰り返しを、ずっと見続けて来た自分の人生。
どれほどの人々と別れたか?
その中には、多少なりは仲の良くなった者もあった。
殺されてしまった人々、死んでしまった人々。
自分が噛み殺した、囚人達。
血がいっぱいだった。
“なんで裏切られたのだろう?”
俺が悪かったのか? 相手が悪かったのか?
怒りが欲しかった。
怒れば苦しさを忘れていられる。憎悪すれば、それは生きる力になった。
怖かったんだ。
己は、怖かったんだ。
絶望に押し潰されたくはなかった。不安が多すぎて、憎悪しなければ歩けなかった。
閉塞感が…。
“お前の所為だ!”
脱獄に失敗して殺されてしまった仲間達。
確かに、自分の所為で、奴らは死んだのかもしれない。今思い返してみれば、あれは杜撰な脱獄計画だった。怒りに任せ、憎悪によって、無理矢理に成功すると思い込んでいただけの、稚拙な行動だった。
そして、その稚拙な行動に、自分は他の人間を誘ってしまったのだ。そして、それは失敗に終った。当然の失敗だ。
自分が噛み殺してしまった、囚人達。
“お前の所為だ!”
……己が悪いのか?
そもそも、生まれて来るべきではなかったのか?
こんな人生に何の意味があるのだろう?
“良かったではないか、罪滅ぼしができて。お前のお陰でこの者は優秀班に入れるのだ”
本当に良かったのかもしれない。
………。
ジキは、閉じ込められているお陰で、過酷な労働から開放されていた。食料も、わずかではあるが、毎日支給される。
皮肉な事に、劣等班にいた頃よりも、脱獄に失敗して捕まった今の方が、ジキの状況は改善されているのだった。
その事とも関係して、ジキの凄まじい脱獄に対する執念は凪いでいった。ジキには、もう、無理に脱獄をしなくてはいけない理由などないのだ。
自分を裏切ったあいつも、優秀班に入る事ができた。結果的には、これで良かったのかもしれない。
そして、そう思うようになっていった。
だが、ある日の事だ、巡回の者が気紛れで、ジキにこんな事を教えたのだ。
「お前を裏切った仲間は死んだぞ。優秀班でな。殺されたのか、過労死かは分からないが。もしかしたら、仲間を売って優秀班に入った事で、他の連中の反感を買ったのかもな。どうだ? 少しは気が晴れたか?」
ジキは、それを聞いて衝撃を受けた。
そしてそれで、疑問が浮上した。
考える時間ならば幾らでもある。今の状況に諦めかけていたジキは、再び猛烈な思考を開始したのだ。
自分は、目の前しか見ていなかったのではないだろうか?
そもそも、何故、ここの連中は脱獄をしようとはしないのか?
何故、皆で一斉に立ち上がり、刑場を破壊しようとしないのか?
まず、そこから、おかしかったのだ。
少なくとも、抵抗をする事くらいはできるはずである。
何故、しないのか?
どうせ、殺されるのなら、試してみれば良いのに…。
優秀班。
劣等班の者達にとっては、まるで理想郷のような存在だ。
皆、行きたがってる。
脱獄に対する思いが、反発に対する思いが、それで薄れているのではないか?
考え続けるジキに、徐々にだが、この刑場のカラクリの正体が分かって来ていた。
そして、優秀班に入ったのなら、その下には劣等班があるという優越感、そして少なくとも生き抜く事ができる、という現状が待っている。誰も、危険を犯して、脱獄をしようなどとはしないのではないだろうか?
全てが、上手く仕組まれているような気がする。
この大きな囲いに。
何故、俺の脱獄を密告する事と優秀班に上がる事の取引を、刑場の連中は認めたのだろうか? 俺を裏切ったあいつを優秀班に入れたのだろうか?
密告を聞いたなら、そんな必要はない。約束を守る義務など刑場側にはないのだ。無視しても良いはずだ。
おかしい。
刑場側が約束を守れば、脱獄を密告すれば優秀班に上がれる、という思いが劣等班の連中に生まれはしないだろうか?
そうなれば、劣等班の連中は、お互いがお互いを疑心暗鬼で見つめるようになるかもしれない。すると脱獄は、ますます発生し難くなる。
………。
この、大きな囲いが、全ての元凶なのかもしれない。
あいつが俺を裏切ったのは、あいつが悪い訳でも、俺の所為でもない。この刑場の仕組みの所為だったのかもしれない。この刑場に、操られている事が原因だったのだ。
そうだ!
この刑場が、俺達を苦しめているんだ!
皆、騙されているのだ!
この大きな仕組みに! 囲いに! 刑場に! 社会に!
だとするのならば……。
馬鹿みてぇじゃねぇか… 俺達は
……ちきしょう!
ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!
憎い!
憎い!
この囲いが。
大人しく従ってなどいられるか!
ジキは、それで、再び脱獄に対する執念を燃やした。憎悪を復活させていた。
己という人間がこうなのは、この世界の仕組みの所為なのだ! 己が悪い訳でも、誰が悪い訳でもない。己にこうさせる、己の人生が悪いのだ!
憎いーーー!
ガリッ!
しばらくの間、まるで腑抜けになってしまったかのように大人しくなっていたジキに対する警戒は弱くなっていた。
今度こそは、幾らなんでも脱獄など試みないだろう、という先入観もあったし、ただ閉じ込めているだけの人間に、人手を割く訳にもいかない、という刑場側の事情もあったのだろう。
ただ一人だけいる、見張りの人間が居眠りを始めるのを確認すると、ジキは牢を破る為、自分を閉じ込めている木牢にかぶり付いた。
ガリッ!
憎い!
憎い!憎い!憎い!憎い!憎い!憎い!
ガリガリガリガリガリガリ…
……ガリガリッガリガリッ
やがて、
鳴り響く木を削る音が止んだ。
やたらと太い格子で作られている木牢の一角に、痩せているジキならば、なんとか通れるだけの間隔ができていた。
ジキの足には、機敏な動きを封じる為の足枷が嵌められており、その先には鉄球が繋がっていた。ジキは、まずはその間隔に鉄球を通すと、今度は無理矢理に自分の体を通した。
ズルズルと這い出る。
体中に擦り傷ができた。
だが、痛みは感じなかった。
憎悪と怒りで、痛みの感覚が麻痺しているのだ。
静かに眠っている見張りの人間に向かって、ジキは近付いていく。足枷に付いている鉄球を、その人間の頭に向かって思いきり叩き付けた。
鈍い音がして、見張り人間の寝息が途絶える。
動かない。
ふーーー!
息を吐き出すジキ。
しかし、まだ、ジキの興奮は持続していた。
それから、足枷の鍵を探し出すと、ジキは器用に顎を使ってそれで足枷を外した。
興奮はしているものの、ジキの判断力はしっかりとしていたのだ。慌ててはいけない。まずは身を軽くする必要がある。怖がるな。今ここで慌てて直ぐに逃げ出しても、足枷を付けたままなら、きっと失敗に終ってしまう。
警備は、他の場所も手薄だった。
牢獄内から出る事は、だから容易だった。
牢獄内から出ると、暗闇の中、ジキはここが刑場の何処に位置するのかを必死に把握しようとした。
闇雲に行動をしても、駄目なのは分かっていたからだ。取り敢えずは、情報を集めなくてはいけない。
自分の知っている場所に辿り着き、そこから外を、確実に目指すのだ。
二度も脱出の計画を練っていて刑場の地理を把握しているジキならば、その方が可能性は高い。
やがて、ジキは自分のいるその場所が、それほど自分の知っている場所からは離れていない事を確かめた。
この位置からならば、辿り着ける!
ジキは暗闇の中を這いつくばるようにして、以前脱出する予定だった場所を目指して移動を開始した。
巡回の者がやって来なければ、自分の脱獄はばれはしない。そして、巡回がやってくるまでにはまだ少々の時間がある。
このまま、順調に進めば、誰にも気付かれない状態で外へ行ける!
ジキは闇に紛れて必死に進んだ。
昔、自分達が捕まった場所を通り過ぎた。
奴らはもう死んでしまっている。
今は一人だ。独りだ。
考えてみれば、いつもたった独りで生きている気になっていた自分なのに、いつも誰かとこの場所を抜け出そうとしていた。
今は独りきりだ。
………。
ジキの目の前には壁があった。
昇り難いように工夫されている高い壁だ。
ジキは、顎をその壁にガキリと食い付かせると、その壁を昇り始めた。
昇る過程で、口の中が切れる。血の味がする。しかし、その血の味ですらもジキには喜ばしかった。
ガキリ、ガキリ
やがて、その壁を超えるところまで来る。
暗闇があった。暗闇の中に別天地があるのだ。空の上には大きな月が浮かんでいる。
その時、ジキの背後で、ジキの脱獄を知らせる警鐘が鳴った。次の瞬間、ジキはその壁から別天地に向かって飛び降りていた。
幸い下は柔らかい地面で、ジキが大きな怪我を負う事はなかった。
壁の中、ジキを囲っていた仕組みの中では、自分が逃げ出した事によって騒ぎが起こっていた。
その喧騒を背に、ジキは思いっきり駆け出していた。
暗闇の中を。




