ある家庭教師の話-3
私は少年の物語を読み終えた。
中学二年生にしてはよく書けてある。少々、稚拙な部分も目には付くが、気になる程ではない。大した才能だ。
評価してやらなければいけない事だし、注目するべき点でもあるだろう。しかし、私には、この物語を書く事ができた少年の能力よりも、書いてある内容の方が気になった。
何故、少年はこの物語を私に、あそこまで必死になって渡したのだろうか?
物語のキーワード。
絶望感と閉塞感。
そして、それに反発する為の力として出てくる、怒りや憎悪。
物語の初めでは、その怒りや憎悪は、対象のはっきりしない、未分化な存在として記述されている。
何に対する、でもない。ただ、環境によって苦しめられている“ジキ”が、救いを求めて、怒り憎悪しているに過ぎない。
しかし、後半に入ると、その怒りや憎悪にはっきりと輪郭が生じ始める。明確に、その対象が記述されてくるのだ。
そして、その相手は、刑場でもあり、囲いでもある、つまり、自分の環境そのものなのだ。
……環境。
少年は、今登校拒否をしている。
社会に対する反発。
精神分析学の創始者、フロイトによれば、父親は権威、規則、倫理、そういったモノの象徴なのだと言う。
(フロイトの説が全て正しいとするのは誤った見解だろうが、全て間違っている、と考えるのも正しい見解ではないだろう。間違った部分もあるし、正しい部分もある。そして、参考にすべき部分だってあるのだ。この主張は、少なくとも参考にするべき事柄であるように思える)
ただ、ここでの父親は、必ずしも男親の事だとして捉えるべきではないが。
また、男性原理という概念があるが、これは、合理性や闘争性の事。つまり、物事を“支配”という観点から捉える事に直結する概念なのだという。
相手の気持ちに重点を置くのではなく、相手の行動に重点を置く発想。
………。
少年の物語の中に、親(或いは親的な存在)は少しも出てこなかった。母親も父親も。ジキはひたすら孤独であり、他人に縋ろうとしてもうまくいかず、拒絶されてしまう。
それから、自省を経て、他人を責める思いは消えるが、次に現われるのは“社会”に対する憎悪だった。
そして、今の時代、社会は、男性原理でほぼ成り立っていると言っても過言ではない状態である。
私は、父親と少年との関係を知りたくなった。
過去に何かがあったのだろうか?
もしかしたら、物語に出てきた刑場は、少年にとって社会規則の象徴なのかもしれない。そして、その感情の発露の裏には、父親との関係が関わっているのかもしれない。
私は物語の最後を思い出した。
ジキは外へと抜け出す事ができた。
しかし、囲いの外に出たジキは、果たして仕合せなのだろうか? 私には、今も苦しんでいるように思える。
真っ暗闇の中で。
………。
次の家庭教師の時間の終りに、私は少年に物語が書かれたノートを返した。
詳しい感想は何も述べなかったが、私は、「面白かったよ」とだけ言ってみた。
少年は、少し照れたような様子を見せつつ、どんな表情をすれば良いのか困っているような顔をした。
言葉は慎重に選ばなければいけない。どんな言葉が、少年にどんな影響を与えるのか分からないのだから。
私は、まだ少年の事を知らな過ぎる。
信頼関係も、それほど強固ではない。
だから、私は取り敢えず、意味深な言葉を避けたのだ。
ただ、その代わりに、雑談として、私は少年にこんな話をしてみた。
「ちょっと、変な話をするけど良いかな? まー、簡単なモデルを使った、こういう見方もあるよ、みたいな一種の思考ゲームみたいな話なんだけど」
少年は、突然の私の言葉にキョトンとしつつも、「良いけど」と返してきた。
私は語り出す。
「赤いボールがたくさんあるとするね」
「うん」
「その赤いボール一つ一つには、周りの影響を受けて色が変わる、という性質があるんだ。周りが赤ければ、その影響を受けて自分の色を変える」
少年は、なんで私がそんな話をするのか不思議そうにしていたが、それを聞くとこう訊いて来た。
「カメレオンみたいなもんかな?」
「そうだね。カメレオンみたいなもんだ。カメレオンだらけなんだね。この世界は」
私は、少々の皮肉を込めて(ただし、少年に対する、ではない)、少年の意見を肯定した。
「このボールには、強い影響力の色を真似るという性質がある。周りに赤が多ければ、他の色よりも影響力は強くなるのだから、当然、赤を真似る訳だ。分かるかな?」
少年はコクリと頷いた。
「すると、そこにもし青いボールがたった一つあったとしても、青色を真似る事は決してしないという事になる。赤色の影響の方が強いからね。そして、逆に、青いボールの方は周囲の赤の影響を受け続ける事になる。だから、いつかは塗り潰される事になるかもしれない」
少年は、私のその話から何かを感じ取ったのか、私がそこまでを説明すると表情を変えた。
「このボールの集団は、だから、集団内に生じたボール一つ一つの影響では変化し難い性質を持つ事になる。多数の影響の方に従うから、個→集団という影響の流れは起き難いのだね。つまり、個性が潰される社会だ。だから、変化する場合は、一時に大きな影響を広い範囲に受けなくてはならず、そして変化は徐々にではなく、一気に起こる」
そして、私がそこまでを説明する段になると、少年は口を開いた。
「それは、先生の語ったそれは、もしかして、この日本の社会の事じゃないの?」
私は応える。
「うん。取り敢えず、この考えは、一つのモデルとしては捉える事ができるだろうね。日本社会は流行に弱い。つまり、大きな影響ならば直ぐに受け入れる。歴史を振り返ってもそうだろう? 明治維新もそう、戦後の社会発展もそう。外国の真似は大得意で、しかも直ぐに受け入れる。しかし、その反面、小さな影響ならば無視をしてしまう。つまり、個性は潰している。日本では評価されなかった学者だとかが、海外では評価をされて、それから日本でやっと注目される、なんて事例は山ほどある」
「……それは、問題な性質だね」
少年は私の説明を聞くと静かにそう言った。
俯いている。
「ま、確かに、デメリットもあると思うよ。集団主義社会にはね」
私は、その俯いている頭に向かって話しかけた。
「ただし、メリットだってちゃんとあるんだ。だから、ただ否定すれば良いってもんでもないんだよ」
「メリット?」
少年はそれを聞くと顔を上げ、不思議そうな顔をして尋ねて来た。
「ああ、日本は恐らく宗教に対して世界で一番寛容な社会だ。神教も仏教もキリスト教もなんでもある。行事ですら、滅茶苦茶に行われている。しかも全く争っていない。これは、恐らく周りの影響を個々が受け易い集団主義社会だからだよ。考えないで、感覚で受け入れているんだ。周囲にそれが普通にあるものなら、当然だとしてしまう。平等で、平和な社会であるのも、恐らくそのお陰だろうしね」
私がそう説明をすると、少年は反論してきた。
「でも、問題な性質である事は確かだよ。解決しなくちゃいけないと思う」
私には、それが少々意外だった。
少年の見せた攻撃性が意外だったのだ。
「うん。それは、もちろんそうだと思うよ。ただ、それは別に、社会の性質を根本的に変えなくても可能だと思うんだ」
私の話を聴きながら、少年は何だか不服そうにしている。
「影響の強さ、はね。大勢の意見だからって必ずしも強い訳じゃないんだ。少数の意見だって、それが正しくて、良い結果を齎す意見ならば、強い影響力を持つ事ができる。実際、この日本社会でだって、個人の意見が社会に大きな影響を与えた事がいっぱいある。だからね、多分、個人の主張、意見を適切に評価するシステムがあれば、きっとこの問題は解決できると思うよ。その前に、個人個人が評価能力や判断能力を身に付ける事も大切だろうけどね」
しかし、私が必死に説明をすると、少年は軽く頷いた。
何とか納得をしたようだ。
少年が、何を不服に感じていたのかは、何となくだが想像がつく。恐らく、この社会を肯定したくなかったのだろう、少年は。
社会に対する反発。
登校拒否。
「ところで、」
私は続けて別の話を始めた。
「この話はね。実は、平等論とも絡んでくるんだよ」
その話も、少年に聴かせなければいけない話だと考えたからだ。
「平等論って、あの人種差別だとか、身分差別だとかの、平等?」
「そう、その平等だよ」
少年は、少し困惑した顔をしている。何となく、どう絡んでくるのか分かりかけてはいるのだろうが、しっかりとその輪郭を掴むまでには至っていないのだろう。
そんな表情だ。
「普通世間で言われている平等思想にはね、実は、二つの種類、いや、二つの方向性が存在するんだ」
私はそう言った後で、世間では、その二つを混同してしまっているようだけどね、と更に付け加えてみた。
すると、少年は少し悔しそうな顔になった。
多分、分からない事が悔しいのだ。
大人しそうに思えても、この少年は結構負けず嫌いで、我の強い、攻撃的な一面を持っているらしい。
少年が書いた物語からでも分かるように。
もちろん、攻撃性を持っている事自体は悪い事ではない。ただ、その持っている攻撃性は、コントロールできるようにならなければいけない。
うまい具合に噴出させる力を身に付けないと、それは少年にとってマイナス要素となってしまう。
………。
「その二つとはね、さっき君が言ったけど、人種差別と身分差別の事だよ。平等思想の起源を考えると、人種差別をなくす意味での平等思想と、身分差別をなくす意味での平等思想、この二つが考えられるんだ。前者は、アメリカが代表例になる、黒人差別だとかの問題解決が起源だろうけど、後者は、もっと古くて、フランス革命、四民平等が謳われ、民主政治が始まる辺りに、恐らくその起源がある。そして、起源ばかりじゃなくて、性質を見ても、この二つは全然別のモノなんだよ」
少年は私のその説明を聴くと、目を輝かせ始めた。
人は、自分の概念を守ろうともするが、逆に変革しようともする。だから、新たな概念に触れると、快感が生じる事があるのだ。
(知的好奇心が刺激される、と言い換える事が或いは可能かもしれない)
特に、この少年は概念の変革を望んでいるように思える。
だからきっと、少年は今、私の話を面白がって聞いているのだろうと思う。快感が、悔しいという思いよりも勝ったのだ。
「先のボールの話に例えよう。赤いボールばかりの中へ、青いボールが混入するとする。この青いボールを、青いボールのまま受け入れ平等に扱う、という方向性が人種差別や民族差別を解決する意味での平等思想だね。人には自分とは違う存在を拒否する、という性質がある。その性質を克服する為の理想だ。異質平等、と表現するべきかな? そして、もう一つ、身分差別を解決する為の平等思想は、青いボールを赤くして、つまり自分達と同じにして、受け入れて平等に扱う、という方向性だ。元々は違うとされていたモノを同じにして、平等にするのだね。主に、優越感を感じていたい、という人間の性質から発生する差別問題を克服する為の理想だ。こちらは、同質平等、と表現するべきかな?」
私がそう話終えると、少年はこう言った。
「日本社会は、青いボールを無理矢理に赤くして受け入れる、という方向性での同質平等ばかりが言われている気がする」
そして、そう言った後で、さっきの先生の、あの、個性を潰す社会モデルの話を聞いてもさ、と小さな声で付け加えた。
やはり、メリットがある、という話を聞いても、この集団主義社会を肯定したくはないようだ。
私はこう応えた。
「そうだね。私もそんな気がするよ。この日本社会は、長い事他の民族と直接には触れ合ってこなかった。だから、中々、異質な存在を異質なまま受け入れるという方向性を実感する事ができないのかもしれないね」
……もし、仮に、赤いボールたちが一方的に青いボールを無理矢理に赤くして取り入れるのならば、それは、平等と言うよりも、むしろ支配に似ている。
異端者は排除する。
自分達だけの主観的な価値観を押し付ける。
別の要素がある、という主張をヒステリックに非難する、平等理想論者達。
少年は、そういった厭な因子を敏感に感じ取っているのかもしれない。
「無理矢理に赤く染められてしまった、青いボールの気持ちはどうなのだろう?」
それから、そう呟いた。
私も、そういった事は嫌いだ。
自己中心的な発想から繰り出される平等思想。平等にするのなら、自分達が基準だとする発想。自分達と同じにする事が当然だと考える発想。
結局、異質な存在を受け入れる事は拒絶している。
………。
もちろん、二つの平等の方向性は、両方とも必要なモノだ。場合によって、状況によって、このどちらの発想が適切かは変わってくる。ただ、それは自覚してやらなくてはいけない。
自覚せず、自己中心的な発想で平等思想を徹底しようとするのなら、それは単なる異質な価値観の否定、排除になってしまう。
自分達以外の価値観だって、理解してやらねばならないのに…。
(………異質な存在。
………、私は、自己擁護をしているのだろうか?)
「…この二つの平等の方向性はね、完全には分化できないかもしれない。この二つの要素が、様々な平等問題に、或いはそれ以外の事々に絡んでくるし、含まれてもいる」
少年は、私の話を聴きながら、真剣な顔をして何かを考え込んでいた。
私は、それを見ながら思った。
話した意味があったのかもしれない。
「特にややこしいのは、男女平等問題だろうね。二つの方向性が両方必要だよ。女性を同じ存在と見なして、職場に受け入れる必要性もあるし、子供を産む事や体力面、性的な面を考えるのなら、男性とは別の存在として受け入れる必要性もある」
ただ、この問題はそれだけではない。何故なら、生物的な性差ばかりがあるのではなく、文化的な性差というものもあり、そして、男性原理、女性原理、といったものだって存在するからだ。
“性役割、と生物的な性別の混同”が、今の男女平等問題では起こっている。
しかし、私は少年の様子を見て、詳しくこの話を説明する事は止した。
必死に考え込んでいて、充分に私の話の内容を消化できる状態ではないと思えたからだ。
それに、今日は既に色々な話をし過ぎている。一度に話すべき量は超えているだろう。よりしっかりと、正確に、深く理解をする為には、適度な学習量があるのだ。
もうその日の家庭教師の時間は終っていたので、私はそれから「じゃあ、もう帰るよ」と必死に考え込んでいる少年に向かって言うと、少年の家を後にした。
少年は、「うん」と気のない返事をして、やっぱり何かを考え込んでいた。
………。
私が、少年に先の話をしたのは、少年の綴った物語の中に、絶望感や閉塞感、そして怒りや憎悪の他に、疎外感が強烈に発露していて、そして更に口を使った攻撃、噛む、という行為が印象的に記述されていたからだ。
口を使った動作には、心理的に特別な意味があるとされている。
相手を食す、とは、相手を己が内に受け入れる、という行為でもあるのだ。
(ただ、それら言われている事に、どの程度の確証性があるのかは分からない。実際、疑問点が上げられない訳でもない。ただ、動物にも、性行為の最中に相手を噛む、などの行動が観られる点などを考えると、何かしら深い関係がある事だけは確かなようだ)
そして、それには、攻撃と慈愛の両方の意味がある。
例えば、キスをする。これは、相手に好意があるから行うのだが、同時に口は、相手に噛み付く、つまり攻撃する事もできる。
未分化な領域では、それらは相手に影響を与える、という意味において、同一の行為なのだ。
食べてしまいたいくらい好き、などという表現もある。
愛憎両極性。
相手を好きでなければ、己が内に取り入れようなどとは思わない。
もちろん、それら表現は全て象徴的な意味であるが。
そして、相手を受け入れるという事は、自分が変わる事でもある。自分は、その受け入れた相手から影響を受けるのだから、それは当たり前だ。そして、もちろん、それは相手に影響を与える事でもある。相手を変化させるという側面がある。
相手と自分が混ざり合う事。
つまり、相手を受け入れるとは、相手と自分が同じ主体になり、互いに変化をする事なのだ。
そして、変化をするという事には痛みが伴なう。もし、自分を守りつつ相手を受け入れよう、否、取り入れようとするのなら、それは、恐らく“支配”になる。
(だから、攻撃の意味が現われるのかもしれない)
先の、赤いボールの中に紛れ込んだ青いボールが無理矢理に赤くさせられる状態というのは、これに似ている。
そして、少年の綴った物語の中から感じられる疎外感。
青いボールの気持ち。
噛み付くジキ。
結び付けて考える事ができるように思える。
私は少年に対し、考える材料を提供してやりたかったのだ。
答えを提示してやるのではなく。
(そんなものは私にだって分からないのだが)
あの話が、真っ暗闇の中で、自分を、世界を把握する為の、手掛かりくらいにはなるかもしれない。
そう思ったのだ。
………。
何日かが過ぎた。
私は、少年と父親との関係を知りたいと思っていたが、少年の父親と巡り合う機会がなかったので、それは中々に難しかった。
もちろん、会う事ができたからといって、そんな事を直接訊ける訳もないが、少年に対する接し方や、或いは私に対する態度などから、それがある程度は窺い知る事ができるかもしれない、と考えていたのだ。
父親と出会う機会がないのは当たり前の事だった。少年はずっと家にいる訳だし、そうすると、私が家庭教師をする時間は当然、昼間に限られてくる。その時間帯、父親は外で働いているのだ。
だから、出会うのは母親ばかりだった。
もちろん、母親に少年と父親との関係を訊く事だってできるが、私はそれをしなかった。何故なら、少年は家にいるのだ。更に、少なからず私の行動を気にしているだろう事も明かなのだ。だから、家の中で、父親の事を私が母親に尋ねたのなら、それを聞かれてしまう可能性が大きい。そして、聞かれてしまったのなら、少年に動揺が走るだろう事は分かり切っている。
そんな危険は冒せない。
だが、ある日、母親と二人きりになる機会が私に訪れた。私が家庭教師を終え、家から出ようとした時、偶然、少年の母親も出かける所で、そして、その事の成り行きによって、私は少年の母親としばらく一緒に歩く事になったのだ。
私は、父親と少年との関係を尋ねるのなら今しかないと思い、思い切って話しかけてみる事にした。
「ご主人は、あの子に対してどんな接し方をするのですか?」
できるだけ、何でもないような雰囲気で訊いてみたつもりだったが、相手にどう響いているかは分からなかった。
母親は、私のその突然の問い掛けに少々驚いたような顔をしたが(私は、会話の間を見抜く事ができず、訊きたい事を訊くのにも、こうしてタイミングを外してしまい不自然になってしまう事がしばしある。それで、相手に変な風に思われるのが常なのだ)、直ぐに平静な表情に戻ると、逆に私に向かってこう尋ねて来た。
「あの子の様子に、何か変わった所でもありましたか?」
私はどう答えようか迷ったが、こう答えてみた。
「いえ、ただ僕はご主人と会った事がないもので、少し興味を覚えただけです。あの子の父親がどんな父親で、そしてあの子にとってどんな存在なのか」
すると、母親は平たんに答えた。
「あまり、二人とも関わり合いを持とうとはしません。でも、今の時代はそういった親子関係が普通なのではないでしょうか? 父親と息子の間ならば特に。私の家庭が特別だとは思いませんわ」
実に、この母親らしい返答だ。
だから、それで良いのです。答え終えたその顔は、まるでそう言っているかのようだった。
普通であれば良い訳ではないのに。普通でも不適切な状態であるのなら、問題点を解決する為に動くべきだ。そして、例え、解決した状態が世間から逸脱しているのだとしても、それが良い結果を招くのであれば受け入れるべきだ。
そんな当たり前の事も分からないのだろうか? この母親は。
私は嫌悪感を覚えたが、それを顔には出さなかった。
私がその後何も言わないでいると、今度は母親の方から質問をしてきた。
「あの子の勉強の方はどうなのでしょうか? 順調に進んでいますか?」
私は即答した。
「ええ、あの子は優秀ですよ。恐らく、学校に通っている他の子供達よりも、よほど真面目に学習をしているでしょうね」
本当の事だ。
それを聞くと母親は、そうですか、と呟いた。そして、それから、
わたしは、
「わたしは、あの子の将来の事が心配なんです。このまま学校に行かないで、大丈夫なのでしょうか?」
少年の母親は、心底不安げな心配そうな表情になって、独り言のようにそう言った。
恐らく、本当に心配をしているのだろう。
「これから、高校にも行かなかったのなら、あの子は社会から落ちぶれてしまいますわ。幾ら真面目に勉強をしていても、あの子に高校に行く気が沸かなかったなら、どうしようもありません」
私は、母親のその言葉を聞いて何とも言えない気持ちになった。
そう願っているのなら、父親との関係は、恐らく外せない重要な要素だ。少年の事を本当に心配しながら、子供の気持ちや教育に対する無理解から、それに対して適切な行動を執ってやる事ができない母親。
何だか哀れだ。
この世界は、結局のところ、我々が生活するのに都合良くはできていない。
この母親だって、ある意味では犠牲者なのだ。
この世界の仕組みの。
私は、思わず母親を説得しようかと思ったがそれを止めた。この母親に、教育論を説いてもとてもじゃないが理解してくれるとは思えなかったからだ。却って反感を買ってしまいそうである。
私には、巧く説明をする自信がない。
私は、そう自覚すると悔しさを感じた。私には、抗う力がないのだろうか? そして、そう思うと哀しくなった。
ふと気付くと、私は、その表情を赤裸々にさらしていた。表情を隠す事を忘れていたのだ。慌てて少年の母親を見ると、少年の母親は、私の事を妙な表情で見つめていた。
何かに気付き、そしてその気付いた事を意外に思っているような、そんな表情だった。
そして、それから、少年の母親は、私に向かって何かを言いかけて、
止めた。
私はその動作を不思議に思った。
私の表情から、何かを読み取ったのだろうか?
分からないが。
………少年の母親は、何を言いかけたのだろうか?
………。
そのまま、少年の母親と直ぐに別れたので、それを尋ねる事はできなかった。




