アリス視点
宿屋の娘の朝は早い。
夜が明ける前に井戸に行って冷たい水で顔を洗って。
昨日の残り物のパンを食べながらスープを温めたりパンを焼いたり準備して、朝の支度や妹サニーちゃんのお世話を済ませた家族が動き出すのをお手伝いする。
サニーちゃんの面倒を見るのはアリスの役目で、お着替えさせたり、危ないことがないように見守るのは毎日のこと。その間に従業員の人もやってきて、お客さんも目覚めはじめて、どんどん、慌ただしい一日が始まっていく。
サニーちゃんの抱っこを祖母に任せ、アリスは食堂のホールで働く。
雑用ばかりと言っても一つ一つが重要な仕事だ。汚れがあったら拭いたり、お皿洗いをしたりするのはもちろん、「おはようございます」「いってらっしゃい」の笑顔の挨拶が大事なのだと、パパとママからいつも教えられている。
そうしていると、アリスの耳に噂話が飛び込んできた。聞かないようにとは思っても、耳には入れるようにしている。そこに大切な情報があるかもしれないからだ。
「最近妙に貴族の遣いがうろうろしてるよな」
「あれ? 野良の聖猫族の目撃情報があるらしくて、飼い猫を逃がした人が探してるらしい」
「あのカフェの猫じゃなくて?」
「あれは野良じゃないだろ。あれじゃなくて、別の猫だよ。猫耳でもない」
「俺も聞いた。貴族がうろつくと面倒だよな、気ぃ使わねえといけないこと多くてさ」
「そうだよ、お前ちゃんとズボン履いとけよ?」
あっはっはっは。場に笑いが起きる。
アリスはドキドキしながら、興奮を表に出さないようにして作業を続ける。
(やっぱり近くに、ミルちゃんのお友達がいるんだわ。教えてあげないと)
以前から噂にはなっていたけれど、日を追うごとに噂が具体的になっている。
野良の聖猫族なんて、日々旅人達と会い、彼らの噂話を耳にするアリスでも見聞きしたことがない。テーブルを拭きながら、ふと思う。
(聖猫族の人たちは、ミルちゃんを探しに来たのかしら)
そもそもミルちゃんも、とても珍しい存在だ。
はじめてできた、聖猫族のお友達。普通の人間のようでほんのちょっとだけ違う可愛い猫ちゃん。耳はふわふわで気持ちに合わせてぴくぴく動くのが可愛いし、尻尾もゆらゆらして、アリスからみると、まるで風と遊んでいるように見える。
にゃあにゃあと元気いっぱいに身振り手振り大きくお話するとき、ちょこっと見える八重歯のかたちが人間と違って。遠くを見るときの瞳の色と表情は、ミステリアスで。
アリスの知らない何かを知っている、不思議なお友達。それがミルシェットだ。
ふと、アリスは不安になる。
(ミルちゃん、同じ猫ちゃんのお友達ができたら……アリスとお友達続けてくれるかしら)
なんだかざわざわとした気持ちになった。
遠い目をした彼女はときどき、別の世界から遊びに来た存在のような感じに見える。
(どうしてだろう……嫌な予感がするわ。ミルちゃんがお友達と会えるのは嬉しいことなのに、会ってしまうとミルちゃんが遠くに行ってしまうような……)
アリスは当然『ねこポ』の運命を知らない。『ねこポ』はあくまで別の世界の話だ。
しかし本能的に、主人公の業として、アリスは不穏な気配を察知していた。
ミルシェットとの別れを、恐れていた。
「おーい、アリス! 受付に来てくれないか」
父の声がする。アリスは返事をしてすぐに受付まで飛んで行った。
朝は物思いにふける暇がない。一日の始まりは肝心なのだ。
体を動かしているうちに自然と、アリスの悩みは吹き飛んでいった。
(とにかくミルちゃんに教えないと。きっと喜ぶはずよ)
アリスはミルシェットに会ったらすぐに、聖猫族の情報を伝えようと決めた。
驚いて喜ぶ親友の顔を思うと、アリスの心は弾む。
ミルシェットが離れてしまうかも、という不安は嘘じゃない。けれどミルシェットが喜ぶ情報を伝えられるのはまた、アリスにとっては楽しみでもあった。
アリスは自分が不安だからって、大切な情報を友達に黙っておくような子ではない。
「お手伝いが終わったら、すぐにミルちゃんのところに行きましょう。ふふ、シトラスさんもいるかもしれないし」
頭の中であれこれと楽しみを並べて、アリスは仕事に集中したのだった。




