System; Reconnection_7
何かを諦めるということは、決して敗北を意味しない。少なくとも、ヴィッセンの血を引く者にとっては、それは次の合理的な手続きへ移るための境界線の引き方に過ぎなかった。
深夜に合葬墓を開け、無色の石となって眠る沈黙の遺言を受け取った翌週。レオンハルトは、本家の書斎から持ち帰った興奮をすべて自らの頭脳の最も深い棚へと格納し忘却に送っていた。
刃がない、止血のインフラもない。血管を傷つければ、ソフィーは確実に死ぬ。
絶望的な断絶。極薄のメスも、止血鉗子も、失血死を防ぐ代替血液もないこの世界の医療水準においてソフィー・オルタンスの心臓の裏に眠る生体魔石へ刃を立てることは自殺行為を通り越して最早ただの屠殺でしかなかった。
レオンハルトは、自分一人の寿命のなかでその高度な外科の体系を一から積み上げることは不可能だと完全に割切った。曾祖父カイがかつて鉄道網の実現には二百年の猶予があると社会のスペックを見積って知識を後世へと託したように、レオンハルトもまた、自らが暴き出した真理を未来へと託することを決意した。
彼はアルベルトから払い出された印刷所の地下保管庫の設備をフルに稼働させた。
その眼と手で描き写した山羊の精密な解剖図。筋肉の重なり、血管の流れ。たった一つだけを隠蔽し、他の体構造の全てを網羅した精緻な線画の束を一族の印刷網を使いながらひっそりと王都の市場、そして大学の知識層へと流通させた。
そのインパクトは、レオンハルトの兄であるルーカスが国家の裏方で掴んできた噂によれば、現文明の医学界にとってはあまりにも過剰で歪な一撃となった。
大学の医師や解剖学の学者たちは、その絵が持つ立体的な空間の圧倒的な正しさを前にして、ただただ呆然と立ち尽くしたという。生命を冷徹に構造化して捉えるその恐るべき線の引き方は人の理解の範疇を遥かに先取りしすぎていた。彼らはそれを神の悪戯か悪魔の食卓かと囁き合い、恐怖しながらも貪欲にその線を自らの手書きの写本へと模写し始めていた。医学の土台を誰も知らないうちに内側から書き換えていくそれがレオンハルトの遺した最初の、そして最大の後世への宿題だった。
だが、未来の底上げなど今のレオンハルトにとっては副産物に過ぎない。
彼は再び、あの地下図書館へと足を向けていた。
いつもの席に座るソフィー・オルタンスの前に、レオンハルトは足音を殺して立ち、静かに彼女の正面の椅子を引いた。
ソフィーは古文書から目を離さず、しかしその肩を微かに強張らせながら、以前のような氷の拒絶ではなく、どこか期待と不安の混ざり合った、震える声を出した。
「……どうするつもりですか、と。そう、聞いたはずですが」
「ソフィー」
レオンハルトは、ただ真っ直ぐに彼女の青い瞳を見つめ、自らの敗北を言葉にした。
「今の僕には、君の身体を切り裂いて、その生体魔石の問題を直す具体的な手段は、一つもない」
ソフィーの指先が、ぴたりと止まった。彼女の青い瞳が揺れる。
「……やはり、ただの絵空事だったのですね。私を、からかいに来たのですか」
「違うよ、そうじゃないんだ。…まだ続きがある」
レオンハルトは身を乗り出し、彼女の震える指先を制するように、その机を強く叩いた。
「家畜の解剖を経て、僕は人の肉体にも魔石が眠っていることを実証した。君の身体の構造が狂っているわけじゃない。そこに石は必ず在る。だけど、ごめん。今の技術じゃ肉体を切り裂いていけば君は大出血を起こして死ぬ。刃がないんだ。君を殺さずに、その心臓の裏にある石に到達するための腕が、まだないんだ」
ソフィーは、絶望に視線を落とそうとした。しかし、レオンハルトの瞳の奥に宿る、奇妙に燃え上がる狂気が、彼女の視線を無理矢理に繋ぎ止めていた。
「手段がないなら、僕は、新しい手段を見つける。皮膚を切り裂く刃がないのなら、肉体の表面から、別の方法でその内部へアプローチする線を新しく作り出す。何があっても、その解決策を見つける」
地下図書館のなかで、レオンハルトの告げたその狂気的な誓いの更新にソフィーは言葉を失った。直す手段がないと正直に告げながら、それでもなお救うと言い切る少年の、その底知れぬ執念。
「……ご勝手にどうぞ、と。そう言うしか、ないじゃないですか」
ソフィーは古文書に顔を埋めた。だが、その声に防御壁の冷たい影は無かった。
ソフィーに誓いを立てたものの、レオンハルトの脳内にあるアイデアは未だ形を持たない抽象的な卵に過ぎなかった。
皮膚を裂かずにその向こう側へ信号を届ける
言うのは簡単だが、それを具現化するための具体的な要素は何もない。
この行き詰まった要求に形を与えるため、レオンハルトは週末、大学の敷地を出て、再びあの王都の職人街にそびえる鍛冶工房へと足を運んだ。
「おう、レオンか。またあのオルタンスの娘にビンタでも食らって来たか?」
「叔父さん。からかわないでよ。今日は、本当に、無理難題の相談に来たんだ」
レオンハルトの尋常ではない目の鋭さに、フリードはフッと鼻で笑い前掛けの煤を払った。
「相変わらず、頭の硬い優等生様だな。まあ、上がれ。美味い酒の肴の話なら、いくらでも聞いてやる」
工房の奥にある、煤けた木製の机。
フリードはいつものようにウイスキーをなみなみと注いだグラスを置いた。
レオンハルトはいつかに叔父から教わった通りの作法で、口の中に唾液を溜め、琥珀色の液体を滑り込ませて温め、喉に流してから鼻から息を抜いた。鮮やかな香りが脳内を満たすが、彼の焦燥感はその美味さに安らぐことを許さなかった。
「叔父さん。…皮膚を切り裂かずに、肉体のすぐ表面からその内部の奥深くにある生体魔石へ、魔力の信号を正確に届ける手段を探しているんだ。今の世界の医学だと、肉体を切れば失血死する。だから、刃を当てずに、皮膚の向こう側の配線を繋ぎ直さなきゃいけない。だけど、そんな方法、どうしても思い浮かばないんだ」
レオンハルトが、脳内の抽象的な葛藤を出力した。
少年の足掻きを、フリードは氷のグラス越しに琥珀色に歪むレオンハルトの顔を見つめながら、静かに聞いていた。
そして、叔父はウイスキーを一息に含むと、椅子の背もたれに大きく身体を預け豪快に笑い飛ばした。
「ははは! 相変わらずお前は、祖父さんの遺したお利口なルールのなかだけで右往左往してやがるな、レオン。別の方法を考えるってんなら、色々試すしかねぇだろ。前提を忘れて、一回すべてをひっくり返してみやがれ」
フリードは、手元にある最高級のウイスキーのグラスを指先で弾いた。
「例えば、このウイスキーだ。俺もお前も、これが曾祖父さんの作った至高の美酒だってんで、そのままで飲んでる。だがよ、ここに冷たい水をぶち込んだらどうなる? さらに氷を浮かべたら? あるいは、クソ熱く火にかけて温めてやったらどうだ? 味が化けるか、それともクソ不味い泥水になるか、そんなことはやってみなきゃ分からねぇんだよ」
フリードは身を乗り出し、鋭い職人の目でレオンハルトを睨みつけた。
「これが社交界の栄華だろうが、わざわざ別のブランデー樽を造って何年もソレラがどうこうだとか、そんな創始者のルールなんて、全部どうでもいいんだよ。恐れるな。一度、お前の頭の中にあるやれることを、やりたいことを、前提をすべて取っ払って机の上に並べてみろ」
前提を、すべて、取っ払う。
フリード叔父さんの一言が、レオンハルトの脳内でリフレインする。
神経を繋げるという意味を、根底からひっくり返す閃きが脳内で高速で組み立てられていく。
肉体を切れないなら心臓にある生体魔石の真隣に極小の脳を新しく生体組織として作るか。いや、不可能だ。では逆は。頭の中に、心臓の魔石を移動させるか。それも刃が必要だ。いっそ、彼女の肉体の全身の細胞を徐々に魔石の組織に置き換えていくか。違う。どれも限界を超えられない。
待てよ。なぜ、神経を介さなければならないんだ。
仮説では、生まれながらの魔法使いは脳や心臓に生体魔石との直結回路としての神経を持つとされていた。だが、ソフィーはその神経が生まれつき千切れている。
ならば、その千切れた配線を引き直す必要なんて、最初からどこにもないのではないか。
脳と、生体魔石が、神経という回りくどい配線を経ずに、その直上から、直接結合したらどうなるんだ。
レオンハルトは息をすることさえ忘れ、氷のグラスを握りしめたまま硬直した。
人間の脳が思考し、魔法の式を組み立てるとき、そこには微弱な電気信号が必ず脈打っている。その信号を、肉体の奥深くへ伸ばした神経で伝えるのではなく皮膚のすぐ表面から、脳の思考の波形をダイレクトに感知しそれをそのまま生体コアの受付層へと導通させる、そんなインクを皮膚の直上に配置すればいい。
皮膚という極薄の境界線を超え神経信号を魔石の受付層へとバイパスさせる、皮膚を切らないタトゥー・ハック。
こんな狂気的な生体ハックは口伝のどこにもない。一族の残した数式の向こう側、生命の躍動をそのまま利用した新しい世代の知恵が、ついにこの瞬間に駆動されたのだ。
「……おい、レオン。顔が完全に化け物になってるぞ」
フリードが、甥の瞳の奥に灯った恐るべき真理の輝きを見て、ニヤリと満足げに笑った。
「叔父さん、答えが見えてきた。……俺には、叔父さんの技術で作った、人間の皮膚を裂かずに均一な深さで運針できる極細の特殊合金針と、魔石に魔力を伝えられるインクが必要だ。ソフィーの肌に、入れ墨で刻印を、脳の信号を増幅して連鎖的に魔石迄届ける疑似神経を彫る」
十五歳の少年の口から漏れた最悪の仕様。
フリード・ヴィッセンは、再びグラスのウイスキーを喉に流し込むと、その空のグラスを机に強く叩きつけた。
「いいぜ、レオン! そんな最悪の悪戯こそが、俺たちの血の本当の使い道だ。折れず、曲がらず、お前の狙った深さへ正確に墨を届ける最高の針を、俺が鍛え上げてやる。さいっこうに面白い酒の肴だ!」
「…はい。ありがとうございます、フリード叔父さん」
レオンハルトは立ち上がり、叔父の熱い工房の残熱を背に、確かな足取りで外へと降りた。
初夏の風は先ほどまでの脳を優しく冷ましていく。
手元に道具はまだ何もない。だが、彼の脳内には、金属針とインクという具現化されたマテリアルを用いて、ソフィーの身体を書き換えるという業の火が灯り始めていた。




