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 皮膚を切り裂く刃がないのなら、肉体の表面からその内部の奥深くへと信号を届ける線を新しく作り出す。

 フリードの営む鍛冶工房の炉の残熱とウイスキーの濃厚な薫りが満ちる空間のなかで、レオンハルトの頭脳に起工した疑似神経の入れ墨回路という名のブレイクスルー。脳の思考が放つ微弱な電気の波形を皮膚の直上からダイレクトに感知し、それをそのまま心臓の裏の生体魔石へとバイパスさせるという曾祖父の遺した知識のインベントリには存在しない術式。

 しかし、設計図がどれほど完璧であろうとも、それを実際の生体という物理で稼働させることの間には、またしても断絶が立ちはだかっていた。

 アリア譲りの空間を果てしない精度で捉える眼と異様なまでに器用な指先はある。

 だが、人の生きた皮膚に針を突き立て化膿という反応や魔力伝導の抵抗による暴発を起こすことなく正確な深度で均一にインクを流し込むという実際の経験は、十五歳のレオンハルトには一秒たりとも存在しない。

 もし本番のソフィー・オルタンスの肌で手元が狂えば、彼女の滑らかな皮膚に一生消えない汚点を残すだけでなく、異常な魔力の逆流によって彼女の肉体を内側から破壊してしまうリスクがあった。

 本番の前に、生きた人間の肉体を用いた膨大な臨床データの収集と、自らの指先の運針速度を極限まで叩き上げる訓練が絶対に必要だった。

 倫理の防壁を完全に破壊し、生きた人間を実験の材料として確保するための国家と教会の死角を突く手続き。

 レオンハルトはその最も暗い領域へ踏み込むために、兄ルーカス、そしてオルタンス家の長男ジュリアンへ再びあの北街の老舗料理店での夜の会食を依頼した。

 その緊迫した取引を夜に控えた、ある日の昼下がり。

 大学の地下図書館の空気は、いつもと変わらずひんやりとした静寂に満ちていた。

 変わらずいつもの席に座るソフィーの前に、レオンハルトは静かに姿を現した。

 だが、これまでと違いソフィーは古文書を読んでいなかった。

 彼女は、興奮と、それ以上に底知れぬ恐怖と畏怖を孕んだ青い瞳を剥き出しにして、一束の、古びて黄ばんだ論文の山を、レオンハルトの目の前へと激しく突きつけた。


「……あなたたちは、一体、何者なのですか。ヴィッセンさん」


 それは、六十八年前から、およそ四十年前程度までの、大学の貯蔵庫の最底流に眠っていた古い研究記録の束だった。

 ソフィーが執念で漁り続けてきた歴史。そこには、現在の王都を支配するヴィッセンの姓はどこにも記されていない。ただ名前なき時代の研究者たちの連名があるだけだ。

 だが、その色褪せた手書き文書のなかに遺されていたのは、あの日レオンハルトが彼女に見せた山羊の解剖図にあまりに酷似した異様に精密なスケッチの数々だった。

 ただの富と酒を売る平民の巨大実業家だと思っていた少年の背後に。この国の魔道具の根底を、名前すらなかった時代から、歴史の死角で裏から書き換え続けてきた創始者たちの、底知れぬ巨大な影がソフィーの脳内で蠢いていた。


 レオンハルトは、突きつけられた古い論文の山を見つめ、それから静かに彼女を見据えた。


「全部、うちの親族が残したものさ」


 彼は口伝を破らぬよう、声音を平に保ったまましかしヴィッセンとしての冷徹な自負をその声に宿した。


「この姓を持つ前の古い時代の記録もあるけれどね。でも、これだけの自負と、世界の真理を探し続けてきた圧倒的な積み重ね、僕たちの血にはある。だからこそ、僕は君の身体の問題を見つけると言ったんだ。この線が、その証明だよ」


 ソフィーは、息を呑んでその論文の署名なき精巧なスケッチを見つめ直した。

 平民の一族が、国家や教会の検閲の目を盗み、歴史の闇で積み上げてきた知性の系譜。

 レオンハルトは、直接的な術式はまだ明かさないままで、彼女の机の横に置かれていた、あの多面的な陰影のスケッチブックへと視線を落とした。


「君のこの絵の構造が、僕の新しいアイデアの卵になったんだ。正確さではなく命の実感をそこに描き出す、君のその素晴らしい才能に、感謝を。ありがとう、ソフィー」


 そう言って、レオンハルトは静かに席を立った。

 ソフィーはただ驚愕に唇を震わせその後姿を見つめるだけだった。


 夜。王都の北街は夏の香りを滲ませながら夜を追いやりつつある。

 看板のないその老舗料理店の個室。案内された扉を開けると、炭の温かな匂いとともに、兄とジュリアン・オルタンスがすでに並んで席に就いていた。

 一度目の会食からさほど日の経っていない、あまりにも急な二度目の召集。ジュリアンは手元の酒を揺らしながら、部屋に入ってきたレオンハルトに対し、鋭い揺さぶりの言葉を投げかけた。


「随分と早い呼び出しだな、レオンハルト。もう音を上げたか?」


 ジュリアンの言葉には刺が混ざっていた。


「違います、ジュリアンさん」


 レオンハルトは外套を脱ぎ、席に着くと、真っ直ぐに二人の兄を見据えた。


「音を上げたどころか、僕は、ソフィーの身体を傷つけずに魔法の回路を起動する術式の突端を掴みました。だけど、それを本物にするための生体データが、圧倒的に足りない」


 レオンハルトは倫理を完全に投げ捨てた要求を冷徹に話し始めた。


「もし、国家の法律や教会の規約に触れることなく、合法的に、生きた人間の肉体を使って特殊な入れ墨の実験を繰り返したい場合この国の法制度からして問題は、どこにありますか?」


 個室の空気が、一瞬にして凍りついた。

 息さえも止まったかのような、ひりつくような緊張。魔法が使えない妹を救うためとはいえ、十五歳の平民の少年が、生きた人間の肉体を実験道具として要求したのだ。

 ジュリアンの青い瞳の奥に、一瞬だけ、おぞましい化け物を見るかのような張り詰めた警戒の火が灯った。

 しかし。その緊張は、ほんの数秒の後に、霧散した。

 

 静かにグラスを机に置き、ただレオンハルトの目を真っ直ぐに睨み据えた。


「……なるほどな。お前はそこまでやる覚悟か」


 代わりに声を続けたのは兄。


「……で、俺たちに、何をしてほしい?」

 

 国家と教会の死角である監獄への潜入、そして生きた囚人たちの肉体を用いた人体実証。その最悪の回廊の引き金が、協力という言葉の下に今まさに引かれようとしていた。



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