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 山羊の肉体から、確かに魔道具として駆動する白い魔石を掴み出したあの日から、レオンハルトの歩みは止まらなかった。

 地下図書館の静寂のなか、ソフィー・オルタンスの凍てついた心を揺さぶり彼女の口から未来の委ねと期待を微かに孕んだ呟きをもぎ取った。だが、その一歩は同時に、レオンハルトを更なる深淵へと引きずり込んでいく。

山羊という通常の生物に魔石があることは完全に証明した。では。人間はどうだ。

 人間だけが例外であるはずがない。そこがもう一つの推測における、最後の、そして最も巨大な前提条件だった。

 だが、その仮説の妥当性を百パーセントにするためには、平民であり、なおかつ魔法を行使できなかった人間の肉体を見なくてはならない。そして、他の一切の他者を巻き込むわけにはいかない以上、その対象はただ一人、曾祖父その人をおいて他になかった。

 ある夜。レオンハルトは再び、貴族街の境界にある本家の邸宅を訪れ、大伯父アルベルトの前に立っていた。

 書斎の暖炉の炎は小さく、ただ赤い残光が二人の影を壁に長く伸ばしている。山羊の解剖図を収めたノートをデスクに置き、レオンハルトは一族の長たる大伯父へ、極めて冷徹な、しかし狂気的な要求を提出した。


「アルベルトおじさん。曾祖父カイの墓を、開けさせてください」


 重い沈黙が、古い本が並ぶ部屋を支配した。息の音だけが不気味に大きく響く。普通の人間であれば、敬愛する父の墓を暴くという提案に対して激昂しあるいは狂人として放逐しただろう。だが、アルベルトの瞳は、驚きに揺れることはなかった。長兄はただ、山羊の精密な解剖図を見、そして少年の真っ直ぐな瞳を静かに睨み返した。


「…一族の問題、か」


 アルベルトの低い呟きは、書斎の闇に静かに溶けていった。

 彼は、かつてカイが生涯をかけて貫いた姿勢の意図を誰よりも理解している男だった。そして同時に、目の前にいるレオンハルトが、その意思を、ただソフィー・オルタンスという一人の少女を救うためだけに、力尽くで超えようとしているその熱量をも理解していた。

 アルベルトは、デスクの上に組んでいた両手をゆっくりと解き、立ち上がった。


「……それも一つの決着だな」


 長兄の口から漏れたのは、諦念ではなく静かな納得の言葉だった。

 雲一つない、完璧な月夜だった。

 王都の喧騒から隔絶された私有地にある古い墓地。春の終わりの新緑の匂いが、夜の冷気を含んで濃密に漂っている。

 白大理石で組まれた重厚な合葬墓の前。カンドルの灯りを足元に置き、レオンハルトとアルベルトの二人だけが、影のように佇んでいた。アルベルトが作業着の外套の下から取り出したのは、車輪の軸を締め直すために使うような、鋼鉄製の重厚なレバーだった。

 カチリ、と古い鉄の噛み合わせが外れる音が、夜の静寂に響く。


「手を貸せ、レオンハルト」


「はい」


 二人はレバーに体重をかけ、カイとアリアが並んで眠る白石の合葬墓の重い蓋を静かに持ち上げた。

 密閉されていた大理石のなかから乾ききったどこか甘く冷たい土の香りが立ち上る。

 カンドルの光を、その棺の奥へと差し向ける。

 そこに横たわっていたのは、時間を経て、美しく、そして静かに土へと還りかけている二人の創始者の肉体の残影だった。

 レオンハルトは躊躇わなかった。アルコールで清めた自らの細い指先を、曾祖母アリアの、そして曾祖父カイの、肉体の中心、その胸の奥深くへとそっと這わせていった。

 アリアの肉体のなか、そしてカイの肉体のなか。

 レオンハルトの指先は、全く同じ場所で、全く同じ硬い異物を掴み出した。

 慎重にそれを取り出し、カンドルの光の下、掌の上に二つの石を並べる。

 洗い流されたその全貌を目撃した瞬間、レオンハルトは息を呑み、大伯父アルベルトは小さく目を見開いた。

 そこにあった二つの魔石には、何の差もなかった。

 ただ、掌に納まる程度の、白く、濁りのない、何の刻印も彫られていない綺麗な石が、二つ、並んで静かにそこに転がっていた。


「……何の、記述もない」


 レオンハルトは、その無色の結晶を見つめながら、身体の芯から震えが湧き上がるのを止められなかった。

 

 ただの人間として添い遂げる。

 アルベルトが、カンドルの炎の向こう側で、遠い目をして静かに呟いた。

 それが二人が遺した、言葉なき美学であり、沈黙の遺言。

 そして同時に掌の上の二つの白い石は、レオンハルトに対し、人にも魔石はある、この先の実証はお前が示せという、果てしない宿題を突きつけているようでもあった。

 レオンハルトは、二つの無色の石をそっと元の場所へと戻し、大理石の蓋を再び静かに閉じた。


 墓じまいを終え、本家の書斎に戻ったとき、夜はすでに深く更けていた。

 二人は暖炉の前に座り、無言のままでいた。

 そして。


「…父の推測は実証された。だがそれでも、お前にはまだ、あのオルタンスの娘を救うための具体的な手がないはずだ」

 

 首肯。その事実はレオンハルトが一番わかっていた。

 視線が動く。何かを探して。

 そうして彷徨って、挙句、一点で止まった。それは暖炉の上に置かれた古めかしい箱。聞けば曾祖母の代のものらしい。

 箱の蓋が開けられると、中からは使い込まれたいくつかの木製の立方体が現れた。アリアが遺した一族の誰も解くことのできないパズルだった。

 それはカイがかつての知識から作り出した、ルービックキューブと呼ばれるパズルの超高難易度版。各面の色分けという親切な表示は一切ない。木製のパーツの表面には、ただ、円とそこに内接する、複雑な多角形や図形だけが迷路のように細かく彫刻されていた。

 各面の色がない以上、普通の人間がこれを揃えるためには多角形の頂点がいくつあるかを三次元的に数え上げ、途方もない計算の末に向きと位置を確定させなければならない。

 アリアはこれを、ただの暇つぶしとして何分か眺めただけでカチカチと簡単に揃えてしまっていたという。もっと難しいものを、もっと複雑な線をと彼女が挑み続けた結果、この家には他に誰も解くことができない同じ形をした木製の多角形キューブが、数十年もの間放置されていた。

 レオンハルトは、そのなかの最も複雑な図形が刻まれた一つを静かに手に取った。

 掌に触れる木肌の感触。その瞬間、幼い日の記憶が、網膜の裏側に鮮烈に蘇る。

 まだアリアが生きていた頃。アリアは幼いレオンハルトだけを特別に可愛がり、一日中付きっきりで刻印彫りの運針に付き合ってくれた。

 あの時、その手が、タガネが、空間に描いていた線の意味。

 読める。線の意味が、全部、見える。

 レオンハルトの瞳の奥で、その力が完全に覚醒した。

 パーツの頂点数を考える必要などない。線の繋がりを見たそばから脳内には最初からあるべき完成の形が立体的に浮かび上がっていた。

 レオンハルトは手元を一切見ることなく、ただ指先だけの感覚で、木製のキューブを回し始めた。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 静寂の書斎に、木と木が噛み合う小気味よい音だけが規則的に響く。

 迷いは一瞬もない。無駄な試行を一切挟まず、アリアがかつてタガネを握っていた時のリズムそのままに最短ルートだけを指先が追っていく。

 そして、わずか数十秒。

 パチリ、と最後のパーツが噛み合い、すべての面の円と多角形が、寸分の狂いもなく整列した。

 アルベルトは、デスクの向こう側で、その光景をじっと黙って見つめていた。瞳の奥に、かつてないほど優しく、そして不思議な感情が満ちていく。

 それは、驚愕や畏怖を通り越し、救いにも似た念だった。

 アリアの圧倒的な才を、息子という立場で最も間近で見続けながら、自分にはその才能が受け継がれず、兄弟の誰の肉体にもその形が発現しなかったという子としての静かな寂しさ。

 だが、今、目の前で完璧にパズルを解いてみせた孫の指先のなかに。

 確かに、姿なき母の血が美しく脈打って生きている。ヴィッセンの血脈は、あの真理の線を失ってはいなかったのだという言葉にならない敬意と慈しみが、アルベルトの横顔を穏やかに和らげていた。


「……見事だ、レオンハルト。確かに、お前の中であの人は生きている」


「……体が覚えていますから」


 レオンハルトはキューブを机に置き、自らの指先を見つめた。

 一族が自分を再来と呼ぶ理由を、彼は今、完璧に自覚していた。


 だが。

 己の絶対的な証明を果たしたその歓喜のなかで、レオンハルトの脳は突如として最悪の問題を示した。

 俺なら、見える。ソフィーの肉体の構造も、生体魔石の位置も、どう繋げば彼女の魔法が駆動されるかも、すべて、完璧に立体的に構築できる。だけど。

 指先が、震えた。

 どれだけ空間が見えていても、それを実行するための腕の先がこの世界にはない。

 心臓のすぐ裏に眠る生体魔石へアプローチするためには、肉体を深く切り裂かなければならない。だが、人体を傷つけずに微細な神経だけを切り分ける極薄の鋼鉄のメスは、フリードの技術を以てしてもまだ作れない。

 何より、血管を傷つけた瞬間に噴き出す大出血に対しそれを抑える止血鉗子も、失血死を防ぐ代替血液もこの世界には存在しない。

 刃を立てた瞬間に、ソフィーは確実に自分の手の中で失血死して天に召される。

 見えるのに、触れられない。

 絶望の壁が、レオンハルトの前に冷徹に立ちはだかった。彼は震える指先を強く握りしめ、暖炉の消えかけの赤い炎を睨みつけた。


 「皮膚の向こう側で神経を繋ぎ、信号を届けるには……僕はどうすればいいんだ」


 切り裂く刃がないのなら、肉体の表面から、どうやってその内部にアプローチすればいい。

 手詰まりのなか、レオンハルトの脳裏に、数日前の夜、あの北街の老舗料理店でジュリアンから見せられた、ソフィーのスケッチブックの残影が、不意に鮮烈に点滅を始めた。

 空間として、物理的に正しい線は一本もない。歪んでいて、不揃いな多面体の陰影。

 それなのに、物質としての圧倒的な実感が確かにそこに在るという、曾祖父の知識にない、あの不可思議な構造。

皮膚を裂かずに信号をバイパスさせる、とでも。

 絶望の底で、歪なアイデアの雛形が静かに浮かび上がる時を待っている。



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