終
そよそよと風が吹く。
雲一つない、青い空が黄金色の大地の上に何処までも続いている。
都の小麦の刈り入れは、今日となった。
拝県よりも、だいぶ遅れての収穫となったが、見込み通り豊作のようで、阿沙の機嫌はすこぶる良かった。
―――刈り入れ日の翌日。
拝県には、早速嵐が来た。収穫後に、天候が荒れるというのは、本当だったらしい。
悪天候を見計らったかのように、光西、慧廷、その隣の紫天領までもが競うように、援軍を送ってきた。
もしかして、これらの領地は気候が荒れて、戦争が出来ないことを見越していたのではないか……と思われるほどの示し合わせたかのような登場の仕方だった。
そうとなっては、エスティアも積極的に戦う理由がなかったらしい。
すぐに軍を退いた。
香鈴が自分のことのように誇らしげに笑っていた。
宋禮は、見た目だけは、平穏を取り戻した。
だから、莉央はこうして暢気に、阿沙の農作業を手伝ったり、眺めていたりすることが出来るのだ。
「私、公位を退いたら、誰も私の知らない所で、農民になろうか……と思っていました」
「どうしたんです。いきなり?」
作業が一段落ついて、躊躇なく土手に座り込んだ祥玲に、莉央もつられて腰をかけた。
「今も、そう思っています。着付けも香鈴に習ったんですよ。拝県に行ったとき、女官をほとんど連れて行きませんでしたからね。覚える必然性もあったんです」
「しかし、拝県で怪我した私の着物を脱がせた時は着付けてくれませんでしたね」
祥玲は、澄まし顔で言ってのけた。
(この人は、相変わらず……)
「私は、男物の着物の着付けまでは知りませんよ」
「では、駄目ですね。農家の娘さんともなれば、家族の着付けくらいは出来るものですよ。貴方の年では、嫁いでいても不思議じゃない」
「私…………。貴方の怪我のところを殴ってみたいんですが」
「残念ながら、私の傷は完治してしまいました」
祥玲は、楽しそうだ。
何故、莉央の意図を察しているのに、わざと逸らすのだろう。
「領地は落ち着きましたよ。貴方のおかげです。貴方が領主になると仰ったら、今度こそ、私は潔く身を退いても良いとも、心の半分で思っていました」
「それで、私が領主となり、貴方を追放して――、貴方は農民になるというのですか?」
「別に悲観しているわけじゃないです。以前よりは、今の立場を受け入れているつもりです」
「貴方は自分で意識していないと思うけれど、しぶとい方だ。泣きじゃくっても、弱音を吐いても、愚痴っても、それでも、懸命に自分の置かれた環境に立ち向かって行ける人だと思います」
「……はあ?」
「私が領主にならないのは、貴方のためじゃありませんし、領民のためでもありません。自分のためです」
「自分……の?」
「以前、私は抜き身の刃だと……。キアノに言われました。ちゃんと収められる鞘がない限り、何処までも加減を知らないで切り続けるんだと……。でもね。貴方を知っていくうちに、貴方なら私を止められる。そんな気がしたんです」
「買いかぶりですよ」
莉央は慌てて頭を振った。自分のような小娘がそんな役に立つとは思えない。
「そんなことはありませんよ。私は貴方のその世間知らずで頑迷な割に、恐ろしいほど一途な行動力と、浅はかに人を信用して、すぐに裏切られるのに、それでも自分を裏切った人間をあっさりと許せてしまうような、……そんな器の大きさを買っているのです」
「……それは私を馬鹿にしているんですか?」
「いえ、貴方が誤解をしないために、真実を指摘しただけですよ」
祥玲はにっこりと笑った。嫌味なくらい爽やか過ぎて腹が立つ。
「それに、私が領主になれないのは、それだけじゃないです」
「えっ?」
「つい最近、私、夢を持ちましてね。以前から公位には執着していなかったのですが、その夢のためには、公位は邪魔なんです」
「夢……ですか? それは、すぐには手が届かないものなんですか?」
「すぐに手が届くようで、ちゃんと手順を踏まないと、私の一人よがりになってしまうかもしれない繊細なものだったりします」
「難しいですね」
「はい」
祥玲の双眸が真っ直ぐと、莉央に伸びていた。
以前とは違い、ぼさぼさの髪は綺麗に整えられている。
前にかかる余計な髪がない分、しっかりと目が合った。
莉央は、その眼差しから逃げるように、顔を背けた。
ーー見惚れているだなんて、知られたくなかった。
「私、祥玲様がすべてを話してくれないことに、腹を立てていたんです。今もそう。心の何処かで貴方の夢について知りたいと思ってる。でも、私、分かってもいるんです。私は祥玲様が私に話してくれることを期待しているだけなんです」
「莉央さん」
祥玲の澄んだ声音が空気に溶ける。
この人に名前で呼ばれると、どういうわけか、体の底から何とも言えない感情が沸き立ってくるのを感じていた。
もどかしいような、切ないような、彼だけの特別があった。
それが、何なのか莉央には、まだ分からない。
……でも、これだけは言えた。
「私は、貴方を信じたい。そのためには、貴方が何を考えているのか、私の中で見極めることが出来る目を持たなければならない。……だから、もしも貴方の近くにいることが出来るのならば、これからは、貴方の考えていることを当てにいきます」
「……当てますか」
「当てたいです」
「では、手始めに、私の夢から当ててみて下さい」
「…………いきなり、難問ですね」
「難しいのなら、答えの手掛かりを出しましょうか。ひとまず、貴方を抱き締めても良いですか?」
「はっ!?」
突如、迫ってきた祥玲の腕を、莉央は発作的に押し返す。
しかし、それとは別に、急に辺りが暗くなって、莉央はまた違った驚きと対峙する羽目になった。
「その辺りを、是非、俺にも聞かせて頂きたいものですな。祥玲様」
莉央と祥玲を覆っていたのは、王英の影だったらしい。
最近、特に小言すら口にしなくなっていた王英が、莉央には恐ろしくて仕方なかった。
「城を留守にして、良いんですか?」
「それを言うのならば、貴方とそこの小娘の方が問題ですね。訴えを起こしても良い」
祥玲は、正式に書官庁の長官職に任命された。一軍の副官から、城の蔵書整理の仕事に就いた男は、史上初めてに違いないだろう。
まして、唯一の皇族がそんな閑職に甘んじているなんて、誰も思いはしない。
本人の希望なので、莉央も渋々その地位に任命したものの、王英は不満そのものだった。
「王英。貴方得意の嫌味は、いい加減聞き飽きました。本題の方を私は知りたいですね」
莉央に突き飛ばされて、後ろにひっくり返りそうになっていた祥玲が、ようやく体勢を整え、顔を上げた。
王英は、ふんと鼻を鳴らして、紙が普及している宋禮では、あまり見ない木簡を渡した。
どうやら、エスティアにはまだ紙はないらしい。
「これは?」
「貴方あてです。貴方が何処に住んでいるのか分からなかったようで、何故か城に届いたんです。それを読んだら、とっとと城に戻って来てもらいたかったので、わざわざ俺自らが運んでまいりました」
祥玲は、王英の言葉を流し聞きしながら、いそいそと、木簡を広げて見入った。
莉央が横から見入ると、知らない文字がびっしりと並んでいる。
「なるほど」
祥玲は満足そうにうなずくと、口角を上げた。
「キアノからの文です」
「えっ?」
「一体、何が書いてあるのですか?」
憮然と王英がうながした。
「これが私に向けた最初で最後の文になるそうです」
「…………そうですか」
「気にしないで下さい。莉央さん。別にキアノの手紙をもらったところで、嬉しくも何ともないですからね」
その言い方は、どうかと思うが、きっと祥玲もキアノもこういう付き合い方が心地良いのだろう。
「ええーっと。なになに? エスティアの王子は美男だと、莉央さんに報告しておけと。まったく忌々しい男ですね」
「それだけですか?」
莉央の心中を察した祥玲が微苦笑した。
「――志雄は今……」
「斎公!」
豪華な四頭馬車が畑の手前に停車した。
距離はあるものの、声は丸聞こえだ。
「香鈴……」
阿沙はいまだに、莉央が領主であることを知らない。その呼び方には注意したいところだったが、次の瞬間、莉央はそんなことは忘れてしまった。
透き通るような水色の衣をまとった香鈴に続いて、馬車から降り立つ、華奢な青年。麦の実りの色をした髪が宋禮の風になびいた。
「…………志雄!」
莉央は駆け出す。その背中に間髪入れずに、怒声が投げつけられた。
「走るな!」
「ひっ」
莉央はびくっとして、足を止めた。
おそるおそる振り返ると、王英が目を吊り上げている。
「すい……ませ」
幼い頃からの習慣で、そのまま謝罪しようとした莉央に、王英は意外な言葉を口にしてみせた。
「お前がこの領地を背負ってるんだ。走って転んでつまらん怪我でもしたら、無様だろう」
「大宰」
王英の表情に変化はない。
――が、微かに笑っていたように見えたのは、錯覚だろうか。
(きっと錯覚だ……)
半分、放心状態で、莉央は馬車のもとに歩き始めた。
――王英が莉央を領主と呼んだのだ。
もしかしたら、夢かもしれないと疑った。
自分が領主となり、エスティアという大国と戦ったこともすべて。
だけど、低地の麦畑から莉央に刈り入れを再開しながら、手を振っている阿沙と、その孫娘の笑顔は、現実のものだ。
………………莉央が領主なのだ。
(強くならなきゃ……)
一歩一歩を、踏み締めながら、風をまとって歩く。
即位するまで、ほとんど外に出たこともなかった莉央は、まだ生まれたての赤ん坊のようなものだ。
これから、少しずつ外界のことを知っていくつもりだ。
支えがあっても担がれないように。
自分の足でも、道を歩いていけるように。
そうでなければ、いくら最小限で済んだとはいえ、エスティアとの戦いで犠牲になった人々に申し訳ない。
(行こう……)
もっと毅然と、背中を伸ばして歩けるように。
莉央は強く拳を握りしめた。
――だから。
自分の背後でこんな会話が繰り広げられていたことなど、知る由もなかった。
「それで、祥玲様。領主になることが出来ない、貴方の夢というものについて、お話頂きたいものですが?」
「貴方が私を領主にしようなどと、ふざけた妄想を二度と掻き立てないのならば、話しても良いですよ」
「そのふざけた妄想は、この瞬間に完全に消失しそうですから、教えてもらいたいものですね」
「……ほら、莉央さんが譲位して、農家にでもなってしまったら、地位が釣り合わなくなってしまうじゃないですか」
「はっ?」
「私が領主となったら、莉央さんの身分を奪うことになるでしょう? 本当のことを話せば、彼女は咎人となってしまいます。ならば、とりあえず私が王家の人間と名乗り出た上で、時間をかけて父の無罪を訴え、手柄を立て、彼女の夫になる方が手っ取り早い」
「…………そんな理由で?」
「重要なことですよ。少なくとも、私にとっては。領主なんてものになるより、ずっと」
「私には、やはり貴方が分かりませんよ。祥玲様」
「王英。私も貴方のことが分からないのですが。キアノの手紙にあった「首は洗うが、あんたを待ちたくない」というのは、どういう意味なのでしょうか?」
刈り入れの終わっていない麦の穂が音を奏でながら、金色に揺れている。
そよそよと吹く風のことを「玲瓏」と呼ぶ。
古の詩人が実った稲穂が風に揺れる音を「玲瓏」と表現したのが起源らしい。
細長く広大な瓏国の都から西の領地。
宋禮領では農作物が実ることを、神の恵みとして尊んだ。
【了】
また随分長い話を書いたものだと、色々と振り返りながら、今回、こちらに上げさせて頂きました。
「愚者の野望」と同じ世界観での話ですが、完全に独立した話となっています。
この10年後くらいの世界が、「愚者の野望」の世界なのですが、この話を書いたのは、「愚者の野望」より少し後のことだったように記憶しています。
当時の私はこの後、「愚者の野望」の葉明と、こちらの軍師?祥玲が組んで、色々とするような話を脳内ででっちあげていました。
出会いは太公望よろしく釣りかなあーとか。妄想してたものです。
今となってみれば、もう少し戦略とか、文章力を鍛えろと突っ込みたいところですが、これはこれで。。
毎度のごとく、開き直った気持ちで、成仏してくれればいいな……と思った次第です。
この話もまた、大変読みにくかったと思います。
もしも、ここまでたどり着いた方がいらしたら、勇者です。
本当に有難うございます。
土下座して謝罪したい気持ちでいっぱいですが、同時に嬉しくて涙が出そうです。
本当に本当に、お目汚しを失礼いたしました。