第5話 給金を払う日
館へ戻ると、二人は食事より先に机へ向かった。
レオンハルトが、ミナの出発日を記した頁を開く。
「まず、いつまでの給金を用意するか決めましょう」
セシリアの前には、修理の見積もりが並んでいる。その上に置いたヴェラの手紙だけ、まだ折り目が新しかった。
「注文の返事がいつ来るかも、まだ分かりませんね」
セシリアは、書きかけた給金の欄へ目を戻した。
「ミナさんが町を出る前日まで。その分を、先に残しておきたいです」
返事を待っている間、二人で何度も開いた帳面だった。
今日はその隣に、ヴェラが次の試用で確かめたいことを書いた手紙がある。
次に試す彫刻刀は、一本では足りない。
柄を幾つか作り、替え刃を用意する。作るだけでなく、確かめてから送る。
向こうでも使ってもらい、答えが返るまで待つ。
セシリアは日付の欄を辿った。
ミナの商隊は、セシリアが町へ着いてから数えて五十七日目の朝に出る。
その前日までを区切りにすれば、明日から四十日あった。
「ここまでの仕事と給金を、先に確保したいのです」
「その間に、何を頼みますか」
「試作と確認を。それから、返事を待つ間は道具の手入れや、必要な修理を」
言ってから、セシリアは紙を一枚引き寄せた。
「ただし、何でもガストンさんに頼むわけにはいきません」
倉庫の扉の見積もりだった。
蝶番を直すのは、町の鍛冶屋。木の傷んだ箇所は、大工が見る。
ガストンに聞いた時も、それは自分より向こうの仕事だと、通りの先を指された。
「刃物の手入れなら引き受けられると伺いました。試作と重なる分は、今日、改めて相談します」
「指導の時間は?」
「はい。教える時間も含めて、日数を相談します」
レオンハルトは、別の頁を開いた。
領地の倉庫と、材木置き場の父子が持つ荷車。
どちらも修理が必要だが、持ち主が違う。
館で修理を頼めるものと、持ち主に確認が必要なものを、分けて記していた。
*
数日前、ヴェラからの返書を待っていた頃、荷車の父子へ見積もりを届けた。
息子は、紙に書かれた金額を何度も見ていた。
「これなら、直せるんですね」
若い男が、紙から目を上げた。
隣で父親が帽子を握っている。
「大工さんは、そうおっしゃっています。ただ、修理をお願いしたわけではありません」
セシリアが答えると、父親の指が止まった。
「お館から、頼んでくださるのかと」
セシリアは、手元の控えを見た。
修理する人を確かめる。
費用を聞く。
そのつもりで、何度か来た。
男たちには、館が修理を進めているように見えていたのだ。
「説明が足りませんでした。今は、費用を調べているところです」
「そうですか」
若い男は、見積もりを父親へ渡した。
紙が風で折れそうになり、父親が両手で押さえる。
レオンハルトが、荷車のそばへ進んだ。
「これはあなた方の荷車です。領地の倉庫を直す費用とは、分けて考えなければならない」
「はい」
「私が見に来たことで、直ると思わせたなら申し訳ない。修理を支える方法を考えるにも、ほかの家との扱いを決める必要があります」
男は少し黙り、それから頷いた。
「決まったら、教えてください。借りる荷車の都合もあるので」
その帰り、セシリアは帳面に二つの欄を作った。
頼まれた修理。
必要でも、まだ頼めない修理。
後の欄にも、家の名を残した。
*
返書を受け取った今、館の机には同じ帳面が開かれていた。
「この荷車は、今回の発注からは外れます」
レオンハルトが荷車の行を指した。
「記録は残す。だが、館が引き受けたことにはしない」
「はい」
倉庫の蝶番には、修理を急ぐ理由があった。
扉を開けるたびに二人で支えなければならず、荷を出す手を取られる。
こちらは領地の倉庫なので、館で修理を頼める。
金具は鍛冶屋へ、木部は大工へ。
セシリアは用途別に分けていた事業用の資金から、その費用を取り分けた。
試作へ回せる額が、少し減った。
今、直せるものがある。
直したくても、ここでは決められないものもある。
すべての名に印を付けられたら、どれほど楽だろう。
「こちらの給金が、二度入っています」
レオンハルトが言った。
セシリアは顔を寄せた。
試作の返事を待つ間は、ガストンとミナに刃物の手入れを頼む。
二人の給金は四十日分の欄に入れてあるのに、手入れの費用にも足してしまっていた。
「手入れの欄へ足すのは、材料と、ほかの職人に頼む分だけですね」
「ああ。二人の給金は、四十日分に含まれています」
二重に入れた額を消して合計を書き直すと、試作へ回せる金は少し増えた。
それでも、ミナの出発までに使える日数は変わらない。
ヴェラへ払う試用の費用、帰りの運び賃。道具を直してもう一度送るなら、その分も要る。
「作り直しは、どこまで見込みますか」
レオンハルトの問いに、セシリアは手紙を見た。
「一度、答えを受けて直し、もう一度使っていただく分までは。これを超える時は、次の材料を使う前に相談します」
「途中で、新しい試作を止める場合もある」
「はい」
その返事の後で、紙の上の『給金』という文字が、目に残った。
「試作を止めても、約束した給金は払いたいです」
レオンハルトが顔を上げた。
セシリアは次の言葉を探した。
その間に、別の帳面の頁を思い出していた。
*
王都の工房から届いた材料の記録には、指定どおりの品を使ったと書いてあった。
現物は、そうではなかった。
別の仕事場で部品を作る職人に尋ねると、渡された材料が前と違うという。
受け取るはずの代金も、遅れていた。
セシリアは、日付と名前を記した。
「まだ、払われていないのですね」
仕事帽を持つ男が答えた。
「ええ。次の納めが済めばと言われています」
男が膝の上で握っている帽子の縁に、白い粉が付いていた。
「それも、報告いたします」
男は頭を下げた。
材料のすり替えが調べられ、関係する発注が止まった。
決定を知らせる書面を読んだ時、セシリアはようやく肩の力を抜いた。
これ以上、同じ品が納められることはない。
帳面には、未払いの額も書いてあった。
報告の写しにも残した。
それで、必要な相手へ届いたと思った。
後日、屋敷の外で、見知らぬ若者に呼び止められた。
「あの工房の仕事をしていた者です」
仕事帽を持っていた男ではなかった。
背に荷を負い、腰には、布で巻いた道具が下がっていた。
「私は、言われた品を作っていました。材料を変えろと決めたのは、私じゃありません」
「そのことも、調べる方へお伝えしています」
セシリアが答えると、若者の顔が歪んだ。
「それで、明日から何をすればいいんですか」
返す言葉がなかった。
「家賃を払う日も、止めてくださるんですか」
若者は一度彼女を見て、歩いていった。
あの方に向かって何という口を、と、付き添いが言った。
セシリアは止めなかった。
若者を追って、名前を聞くこともしなかった。
発注を止めたのは彼女の命令ではない。
未払いを自分の判断で払える立場でもなかった。
だが、報告に書いた金が、その後どうなったか。
帽子を握っていた男が、受け取れたのか。
確かめる手紙を、彼女は一本も出さなかった。
*
「セシリア」
顔を上げると、レオンハルトがこちらを見ていた。
「休みましょうか」
「……いえ。続けたいです」
ペンを持ち直した。
けれど、数字を書く前に尋ねた。
「給金を払ったことは、どなたが確かめますか」
レオンハルトは少し考え、帳簿を自分の方へ寄せた。
「館で支払いを記録する。私が確認します」
「受け取る方にも、日と額が分かるようにしたいのです」
「同じ控えを渡しましょう」
「試した道具に、注文が来なかった時も……」
「こちらが頼んだ仕事です。売れたかどうかで、給金を払う日は変えません」
セシリアは『給金』の隣に、小さく『支払日』と書いた。
その欄を、空けたまま話を終えたくなかった。
*
その後、もう一度工房へ行くと、ガストンは炉のそばで炭の残りを見ていた。
「明日からなら、始められます」
作業台には、ミナの帳面が開かれている。
「まず、柄を三つ。それに使う刃と、替える分を作る。あちらの条件を確かめるなら、それくらいは」
「揃えるのに、何日掛かりそうですか」
「今ある仕事もやるなら、一週間ほど。ただし、朝に道具を見てからです。手入れが要るところもある」
ミナが頁をめくった。
仕上げまでに掛かった日と、途中でやり直した箇所が記されている。
「これを作った日は、途中で包丁が来ました」
「ああ。それもあったな」
ガストンは額を掻いた。
セシリアは、二人が話し終えるのを待った。
「確認と荷造りまで、七日間でできそうですか。できるなら、その翌日の便を調べます」
「便に間に合わせるために、研ぎを抜けと言われても困ります」
「研ぎは必要です。間に合わないと分かったら、教えてください。出す日を変えます」
ガストンは彼女を見た。
それから、ミナの帳面へ目を戻した。
「朝、取り掛かる前に見ます。どこまでやったかも、この子と確かめる」
「お願いします」
レオンハルトが、持参した紙を開いた。
作るもの。使う材料。返事を待つ間に頼む手入れと、記録の整理。
ミナへ教える時間も、そこに入れた。
ガストンの指が、その行で止まった。
「教えるのは、これまでもやっとります」
「はい。これからも、続けていただきたいです」
「その分まで払うと?」
「教える間は、親方も手を止めますから。その時間も、仕事の日数に入れたいのです」
ガストンはすぐには答えなかった。
ミナが、帳面を閉じかけて止めた。
「私が覚えるのにも、ですか」
「はい。今回お願いする確認や記録を覚える時間もです。何から教わるかは、親方と相談してください」
紙には、それぞれの給金が書かれていた。
返書を待つ間に聞いておいた額を、二人へ示す。
ミナは自分の名の隣を見た。
次に、期間の終わりの日へ目を動かした。
「商隊の、前の日まで」
「はい。今日お約束できるのは、そこまでです。注文が来たら、その先の仕事と給金をお伝えします。行くか残るかは、ミナさんが決めてください」
ガストンが、腕を組み直した。
「向こうで役に立たんと言われたら、どうするんです」
セシリアは、あらかじめ分けた欄を指した。
「戻った品と手紙を見て、直せるか相談します。直すと決めた分の材料と仕事代も、用意します」
「それでも、駄目なら」
「次を作るかは、改めて決めます。新しく作らない場合も、約束した期間の給金は払います。その間にお願いする手入れや記録の仕事は、ここに」
ガストンは紙を見たまま、口を閉じた。
「働き口を、買ってくださるということですか」
セシリアは、一瞬、答えかけた。
町のために、と。
けれど、ガストンの顔を見て、その言葉を飲み込んだ。
「この道具を、王都の工房で使える品にできるか確かめたいのです。試作も、手入れも、記録も、そのためにお願いします」
「ならなかったら、あなたの金が減る」
「はい」
言うと、胸の内側が冷えた。
紙の数字が減るのではない。
父の家を出る時、持ってきた金だ。
使い終えたからといって、同じだけ届くわけではない。
「ですから、使う額と期間を先に決めています。途中で、掛かった費用と、どこまでできたかを確認させてください」
ガストンは長く息を吐いた。
ミナの方を見て、それからレオンハルトへ向き直る。
「この子の分も、館から払われるんですね」
「はい。ガストンさんとミナさん、それぞれに払います」
ミナが顔を上げた。
「親方の手元が足りなくても?」
「ああ。あなたに約束した額を払います」
ガストンは、否定しなかった。
太い指が、紙の角を押さえていた。
「……それなら」
彼は一度、咳払いをした。
「この分は、引き受けます」
ミナはまだ紙を見ていた。
「最初は、いついただけますか」
セシリアは、用意した日を示した。
給金は、館で七日ごとに払う日へ揃える。
明日から始めると、最初の支払日までは五日間。その五日分を払い、次からは七日分ずつ払う。
最後は、商隊が出る前日までの残りを払う。
セシリアは、すべての支払日を紙に書き入れた。
ミナは指先で数えた。
最後まで辿ってから、最初の日へ戻る。
「この日に、母へ渡せます」
「はい」
「帳面に書いても?」
「もちろんです」
ミナは自分の帳面を開いた。
刃の角度を描いた頁ではなく、後ろの、まだ白いところを。
*
館へ戻った時には、窓の光が低くなっていた。
二人から聞いた仕事を加えると、予算の余白は思ったより狭かった。
最初の道具を送る時に使った運び賃も、既に払った分として残す。
ヴェラの試用費用を入れ、次の往復と、必要なら直して送る分を確保した。
セシリアは計算を終え、下に線を引いた。
「この額の中で、試します」
レオンハルトは、少し離れたところに置いてある紙を見た。
「こちらは?」
「注文をいただいた後に、使う分です」
彼女は、その紙を寄せた。
「試作に全部使ってしまえば、買いたいと言われても、材料が買えません。作って、届けて、代金が戻るまでは給金も要ります」
そこには、まず五本ほどを引き受ける場合の費用を、仮に積み上げてあった。
工房で聞いた材料と作業の日数に、輸送と検品、代金が届くまでの待ち時間を足す。
数量も値段も、まだ買い手とは決めていない。
ガストンが今回の試作を終えれば、掛かった手間も書き直す必要がある。
「この額なら、どんな注文でも受けられるわけではありません」
「足りなければ?」
「一度に作る数か、支払いの条件を相談します。守れる条件になるまで、引き受けません」
レオンハルトは、紙の端に記された額を指した。
「この備えは」
「入金が遅れても、給金を七日分は払えるように。材料を追加したり、もう一度送ったりする費用まで、ここにあるとは考えていません」
彼は紙を読み直した。
セシリアは、その横へ試作の予算を置く。
「こちらの試作が足りなくなっても、その金を移さずに相談します」
レオンハルトは、二枚の間を少し空けた。
「では、別に残す。使うのは、注文の条件が決まってからにしましょう」
セシリアは頷いた。
残っている金が、使ってよい金とは限らなかった。
まだ作っていない品と、まだ来ていない支払日のために、ここへ置いておく。
帳面の隅には、彼女自身の暮らしに残す分もある。
そこは動かさなかった。
「橋の調査は、この中にはありませんね」
レオンハルトが尋ねた。
「はい。今日の計画では、賄えません」
窓の外で、川の音がしていた。
この館へ来た日は、まず橋を直さなければと考えていた。
橋の手前に、四十日分の仕事があった。
それで橋は架からない。
ミナが来月、この町を出ないという約束もない。
それでも、最初の給金を払う日は、決められた。
レオンハルトがペンを取った。
「この範囲で、承認します」
署名を書き、彼女へ紙を向けた。
「途中で見直す時は、頼む仕事と、既に約束した支払いを分けて話しましょう。支払いまで曖昧にしない」
「はい」
セシリアも名を書いた。
インクが乾くまでの間、二人とも黙っていた。
*
工房には、まだ灯りがあった。
署名の済んだ控えを届けると、ガストンは入口で受け取った。
奥では、ミナが作業台を拭いている。
「今日は、もう終わりですか」
「ええ。明日は少し、置き方から変えんと」
ガストンが、台の端に寄せた品を見た。
研ぎを待つ包丁。
仕上げの途中の刃。
王都から返ってきた、自分用の道具。
そこへ明日から、別の仕事が加わる。
「一緒に置くと、どこまでやったか分からんようになる」
ミナが布を畳んだ。
「親方は分かるとおっしゃいます」
「わしにはな」
「私にも分かるようにしてください」
ガストンは鼻から息を出した。
それから、台の一角を空けた。
「明日、やる」
セシリアは笑いかけ、ガストンに見られる前に控えへ目を落とした。
仕事を頼む紙には、二人の名がある。
給金の額と、支払う日もある。
ミナが近づき、その紙を覗いた。
「書いた日と、同じですね」
「はい。変えていません」
セシリアが答えると、ミナは小さく頷いた。
「では、母に言ってきます」
棚から上着を取り、袖を通す。
セシリアへ礼をし、ガストンへ明朝の時刻を確かめてから、外へ出た。
路地の角で、ミナの足音が少し速くなった。
セシリアは、開いた扉の前に立っていた。
王都で去っていった若者が、どこへ帰ったのかは知らない。
明日から何をするのかも、聞かなかった。
今、ミナは家へ帰る。
母親に、給金を受け取る日を伝えるために。
その日まで、まだ金は渡していない。
セシリアは、自分の控えを開いた。
最初の支払日の隣に、小さな空欄がある。
受け取りを確かめたら、そこへ印を付ける。
紙を閉じ、館へ続く道を歩き始めた。




