第4話 返ってくる言葉
ヴェラ、と書いたところで、ペンが止まった。
窓の外は、もう暗かった。
机には、ガストンから借りた布包みと、工房で書いた扱い方の紙がある。隣に開いた帳面には、レオンハルトが書き足してくれた一行が残っていた。
刃の、どこを使ったか。
セシリアはその文字を見てから、手紙へ目を戻した。
以前なら、用件はすぐに書けた。
納める品の名。数。必要な日。確かめたい点。
返事が来なければ、もう一度送る。答えのない箇所には、線を引いた。
今は、相手がこの名を見て封を閉じるかもしれない。
王都を発つ前、最後に届いた手紙の束に、ヴェラの名があったかどうか。
思い出せなかった。
まずは近況を、と書きかけた。
婚姻の挨拶。遠い町へ来たこと。橋が壊れ、仕事が減っていること。
そこまで書いて、セシリアはペンを置いた。
これを読んで、ヴェラは何を求められたと思うだろう。
同情して買ってほしいのか。
王都での評判を、否定してほしいのか。
布包みの端を開いた。
使い込まれた木の柄が、灯りの下に現れる。
ガストンは、自分の道具を貸した。
彼女の弁明を送るためではない。
セシリアは紙を脇へよけ、新しい一枚を取った。
『以前、飾り金具の納入についてお便りをいただいたセシリアです。今はリーベル橋町におります。こちらの職人が使っている道具について、ご意見を伺いたく、お手紙を差し上げました』
そこまでは、書けた。
次に、扱い方の紙を寄せる。
刃を替えた後は、浮いていないか確かめる。
工房でミナが説明し、ガストンが頷いた手順だった。
取り付けを確かめる。
その文字を追ううちに、王都で止めた馬車の車輪を思い出した。
*
白い石畳に、金色の飾りが光っていた。
式典の馬車は、もう出発を待っていた。
馬の首に結ばれた飾り紐。揃いの上着を着た従者。門の向こうから聞こえる楽の音。
「止めてください」
御者が振り返った。
セシリアは車輪のそばから立ち上がり、もう一度言った。
「このまま出してはいけません。車軸に亀裂があります。交換して、安全を確かめ直してください」
係の男が駆け寄ってきた。
その後ろから、工房の者らしい男も来た。
工房の男が答えかけた。
「今朝も確認を——」
セシリアは、その返答を遮った。
「では、なぜ、この状態なのですか」
男が口を閉じた。
セシリアは亀裂の走る車軸を指した。
見れば分かるはずだった。走行中に車軸が折れれば、馬車がどうなるか。
「どなたが、これでよいと判断なさったのですか」
周囲の顔が男へ向いた。
彼の頬が赤くなったことを、セシリアは覚えている。
その顔を見ても、問いを変えなかったことも。
誰かが馬を引いた。
出発を知らせるはずの声が、門の前で途切れた。
周囲から非難の声が上がった。
「王家の式典を止めるおつもりか」
「職人を大勢の前で辱めて、それほど満足ですか」
言葉が、次々に重なった。
危ないのだと説明した。
どこが、どうなっているかを、もう一度。
それでも、人々が見ているのは、彼女の指先ではなかった。
後に悪女と呼ばれる時、あの馬車の話が必ず添えられた。
*
ペン先から、インクが落ちた。
セシリアは手を上げた。
黒い点が、余白に滲んでいる。
止めなければならなかった。
今も、そこは変わらない。
ただ、あの男が言いかけた言葉の続きは、知らない。
確認したのが誰で、何を確かめ、何を見ていなかったのか。
あの場で彼女が繰り返したのは、なぜ見落としたのかという問いだった。
今日も、ガストンの作る理由を聞く前に、材料を無駄にしているのではないかと考えた。
扉が、控えめに鳴った。
「入っても?」
レオンハルトだった。
セシリアは布を柄へかぶせた。
「どうぞ」
彼は茶器を載せた盆を持っていた。
机の端へ置こうとして、二枚の紙に目を留める。
「場所を空けます」
「そちらの卓で。少し休みませんか」
言われてから、肩が固くなっていることに気付いた。
二人は窓辺の小さな卓へ移った。
茶はまだ熱く、セシリアは両手を添えたまま飲まずにいた。
レオンハルトが言った。
「ヨハンへは、戻ったら館へ寄るよう伝言を頼みました。明日の午後に出せる便があるか、確かめてもらう」
「ありがとうございます」
「手紙は、進んでいますか」
セシリアは机を見た。
「ヴェラさんが、王都での私の評判をご存じかもしれません」
「返事が来るか、心配ですか」
「はい」
口にすると、手紙を書けなかった理由がひどく小さく聞こえた。
町の仕事のためだと言いながら、自分がまた拒まれることを気にしている。
「宛先を変えたいのですか」
セシリアは首を振った。
「以前、道具の手入れと調整で作業が止まると、教えてくださった方です。この一本が役に立つか、伺うなら、その方だと思います」
「では、なぜヴェラさんにお願いしたいか、そのまま書いてはどうですか。返事をくださるかは、私にも分かりませんが」
セシリアの口元が、少し緩んだ。
「そこは、そうですね」
慰めの手紙を書いてもらうわけではない。
使う人の答えが欲しくて、借りてきたのだ。
茶を飲み終え、机へ戻った。
『以前、刃の手入れと調整に時間が掛かると伺いました。今回の道具は、柄を持ち替えずに刃を交換できます。ただし、そちらのお仕事に使えるかは、私には判断できません』
工房で聞いた用途と、扱える材料を書き写す。
ガストンが確かめた範囲を広げず、ヴェラの仕事に合わなければ使わず返してほしいと添えた。
試してもらうのはヴェラ一人。
刃や柄を削って直すことはせず、合わない時は、そのまま戻してもらう。
試用の期間と返送日は、明日、便を確かめてから書き入れる。
セシリアは、帳面にある最後の一行を見た。
『使いにくいところがありましたら、どの作業で、刃のどの辺りを使った時か、お教えください。短い言葉や図でも構いません。作った職人と、手順を記録している弟子へ、そのまま届けます』
書き終えてから、初めの一枚を折った。
町の窮状を書いた紙は、手紙の中へ入れなかった。
*
翌日の昼前、ヨハンが館へ来た。
袖口に、乾いた泥が付いていた。
腰を下ろす前に窓の外を見たので、セシリアは用意した小箱を卓へ置いた。
「こちらです。借りた彫刻刀が一本と、替え刃が一本。それから手紙を」
ヨハンは箱の大きさを確かめた。
「午後に出る王都行きの便へ、載せられます」
「あなたが運んでくださるのですか」
「街道の受け渡しまでです。そこから先は、向こうの運び手へ渡します」
セシリアは、書きかけていた名を止めた。
「帰りも、同じ方へ?」
「こちらへ戻る便は押さえられます。受け取る日を決めておけば。ただし、向こうで試し終わっていなければ、荷は戻りません」
レオンハルトが卓へ紙を広げた。
ヨハンは、行きと帰りの便を指で辿った。
今日出せば、四日後に着く。
着いた翌日から三日間、ヴェラに使ってもらう。
試し終えた次の日に、道具と返事を帰りの便へ載せてもらう。
その予定どおりに進めば、町へ戻るのは、今日から十二日後だった。
セシリアは手紙を確かめた。
「試せない時も、その便で戻していただくよう書きます」
「それなら、待つ場所を空けておきます。帰りの運び賃も掛かりますよ」
「はい。往復分を伺いたいです」
ヨハンが往復の運び賃を答えた。
セシリアは持参金の事業用の欄へ書き、レオンハルトに紙を向けた。
「まず、この一往復と荷造りに使いたいのです」
彼は金額と日付を見た。
「返事がなかった場合は?」
「こちらで試作を始めず、まず道具がどこにあるか確かめます。ガストンさんにも、予定どおり戻らなかったことを伝えます」
レオンハルトは頷いた。
ヨハンが箱を持ち上げた。
蓋を開け、刃に覆いが付いていることと、余分な隙間がないかを見た。
「返す時にも、この箱を使ってもらってください。中の布も」
「手紙に加えます」
「それから、宛先は箱にも。手紙だけ離れると、困ります」
セシリアは紙を一枚切った。
ヴェラの工房の名と所在を書き、その下に返送先を記す。
リーベル橋町。
その文字を、ヨハンが確かめた。
「返事も、ここへ持ってきます」
「お願いします」
小箱が彼の腕へ移った。
机の上に、四角い空き場所ができた。
*
荷を出した翌日も、町の荷車は止まったままだった。
セシリアは、前に聞き忘れた大工の名を記した頁を開き、レオンハルトと修理の費用を尋ねに行った。
材があれば済むもの。
金具も替えなければならないもの。
見てからでなければ答えられないもの。
館へ戻る頃には、帳面の空欄が別の問いで埋まっていた。
夕食後の茶の席に、見積もりを一枚持っていくようになった。
レオンハルトから、倉庫の扉の話が出る日もあった。
必要な仕事は見つかったが、誰の金で、どこまで頼むかは、まだ決まらない。
工房へ寄ると、ミナは包丁の持ち主の名を、木札へ書き直していた。
「もう、届いた頃ですか」
木札を置いたミナが尋ねた。
「明日、その予定です」
セシリアが答えると、ミナは壁に掛かった暦を見た。
先の日に、小さな印がある。
商隊の出る日だった。
「叔父へ、返事を書きました。その便で行くつもりで、用意をしておくと」
「はい」
ミナが選んだ便は、そのままだった。
道具は送れた。
けれど、ミナがこの町で仕事を続けられるかは、まだ何も決まっていない。
*
道具が戻った日は、朝から晴れていた。
セシリアがリーベルへ着いて、十六日目だった。
館の玄関で受け取った箱には、見覚えのある宛名札が付いている。その隣に、王都からの札が重ねられていた。
セシリアは、先に手紙を探した。
あった。
折り畳まれた紙の表に、彼女の名がある。
封を切ろうとして、箱へ目を戻した。
一本と、それに合わせた替え刃一本。
借りたものが戻ったことを、まず確かめなければならない。
布を開き、数を確かめた。
使える状態かどうかは、ガストンに見てもらう。
手紙は、その上に置いた。
「工房へ、行ってきます」
廊下で会ったレオンハルトに告げると、彼は箱を見た。
「返事が?」
「はい。まだ、読んでいません」
「私も行きます」
*
ガストンは箱を受け取ると、すぐに布を開いた。
柄を手に取り、刃先を明かりへ向ける。
替え刃も確かめ、ようやく卓へ置いた。
「戻りましたな」
その声を聞いてから、セシリアは封を切った。
中には手紙が二枚と、小さな図が入っていた。
最初の一枚を広げ、二人に聞こえるように読み上げた。
『セシリア様。お手紙と道具を受け取りました。ご婚姻を、お祝い申し上げます』
セシリアは一度、息を吸った。
『まず、借りた一本について。よくできた道具です』
続きを待っていたミナが、顔を上げた。
『同封された扱い方で刃を交換できました。握りを変えずに作業へ戻れる点は、私の仕事にも役立ちます。今回、木の型の細部を彫る作業に使いました。金属への彫りには使っておりません』
紙の端に、細い曲線が描かれている。
線の終わりへ向けて、短い矢印が添えてあった。
『刃先のこの部分で、線の終わりを止めやすい。ここは、今使っているものより好みです』
ミナが、半歩近づいた。
「図を、見ても?」
セシリアは紙を向けた。
ミナは自分の帳面を開き、図と見比べた。
「親方。先の、ここだそうです」
ガストンは手紙を覗き込んだ。
太い指を上げかけ、紙には触れずに戻した。
「そうか」
それだけ言って、返ってきた柄を撫でた。
セシリアは、次の段落を読んだ。
『ただ、今回は柄一本と、それに合う替え刃一本しか試していません。工房で何本か揃えて使う前に、ほかの柄と刃でも確かめたいことがあります』
ガストンの指が止まった。
『私の工房では、刃を研いでいる間に別の刃を使います。どの柄にも、同じ替え刃を付けて使えると助かります。柄に合う刃を探したり、取り付けるたびに削って合わせたりするなら、交換の間、仕事が止まってしまいます』
ミナが尋ねた。
「同じ刃を、ほかの柄にも付けたいということですか」
「はい。付け替えた後、調整せずに使えるかを確かめたいようです」
セシリアは、二枚目を広げた。
ヴェラは、次に試す時の条件を書いていた。
複数の柄と替え刃を用意すること。
それぞれに見分けられる印を付けること。
組み合わせを替えても、固定した時に刃先の位置が変わらず、使っている間に緩まないか確かめること。
次は工房のほかの職人も使うため、貸し出す相手の範囲を広げてよいか、返答を求めていた。
品を作り始める前に確認できるよう、試用に必要な日数と費用も添えてある。
ガストンは、黙って聞いていた。
『条件が合うようでしたら、改めて試します。今の段階では、購入のお約束はできません』
読み終えると、外から桶を置く音が聞こえた。
ガストンが、木箱の蓋へ手を置いた。
「この一本が悪かったわけじゃないんですな」
「はい。よくできた道具だと」
セシリアは最初の頁へ戻った。
「ただ、次は柄と刃の組み合わせを替えても使えるか、試したいそうです」
「合わせりゃ、使えます」
ミナが、作業台にある二つの柄を見た。
昨日まで、どの刃をどちらへ合わせるか、確かめていたものだった。
「向こうでは、親方に合わせてもらえません」
ミナは帳面の端を押さえた。
「私なら、合わなければ親方に聞けます。でも、王都へ送った後は……」
セシリアは、返ってきた柄へ目を落とした。
ガストンの手の中で使えることは、もう見た。
ヴェラも、その一本を認めた。
けれど、ガストンが隣にいない場所で、別の一本を手に取る人がいる。
セシリアは二枚目の手紙を差し出した。
「次に試したいことが、ここに書いてあります。一緒に読んでいただけますか」
ガストンは、すぐには頷かなかった。
返ってきた道具を布の上へ置き、二枚目の紙を自分の方へ引いた。
「……見せてください」
ミナが椅子を寄せた。
*
工房を出る頃には、昼を過ぎていた。
ガストンは次の品を作ると約束しなかった。
今の道具を作るのに掛かった手間を確かめ、ミナの仕事と修理の予定を見てから、改めて話すことになった。
手紙の写しは、工房に残した。
図のある頁を写す時だけ、ミナが自分でペンを取った。
帰り道、セシリアは、手元に残った原本を何度も確かめた。
レオンハルトが、その仕草へ目を向けた。
「気になる箇所が?」
「いえ」
彼女は首を振り、紙を折り直した。
「返ってきたので」
「手紙が?」
「はい。道具を使った方の言葉が」
王都の話を、何も知らないのかもしれない。
知っていて、書かなかったのかもしれない。
どちらかは、分からない。
それでも手紙には、彼女の評判ではなく、刃先に刻まれた細い線のことが書いてあった。
セシリアは、紙を帳面に挟んだ。
「ただ、もう一度試していただくには、作る時間が要ります」
「ああ」
「材料と、運ぶお金も。試していただく費用も」
通りの先で、ミナと同じくらいの少女が、店先の袋を抱え直していた。
セシリアは、その姿を目で追った。
ミナは手紙を待つ間にも、木札を書き、刃を研ぎ、出発の用意をしていた。
次の返事を待つ間も、暮らしは続く。
「試していただいても、注文が来ないかもしれません」
「それでも、頼んだ仕事の給金は払わなければなりません」
レオンハルトの言葉に、セシリアは頷いた。
「はい。その分も、先に用意したいです」
セシリアは、帳面を開いた。
返書を待ちながら集めた見積もりと、持参金の残りを書いた頁がある。
その間へ、ヴェラの手紙を置いた。
「館へ戻ったら、お時間をいただけますか」
レオンハルトが、彼女の手元を見た。
「試作の費用ですか」
「はい。私の持参金で、材料を買って、何日分の給金を払えるか。まず、それを確かめたいです」
セシリアは工房へ続く道を振り返った。
次の道具を作る間にも、ミナには暮らすための金が要る。
注文の返事を待ってからでは、間に合わなかった。




