第6話 仕事のある一日
最初に動いたのは、炉ではなく、作業台だった。
ガストンが、ミナに声を掛けた。
「そっちを持て」
「どちらですか」
「そっちだ」
ミナが右側へ回ると、ガストンは反対側を指した。
「そっちじゃない」
入口で、セシリアは足を止めた。
昨日、試作のために空けた一角には、使う道具が並んでいた。
ガストンとミナは台の向きを変えようとしていたが、脚の下に挟まった木片が引っ掛かっていた。
セシリアが、二人へ声を掛けた。
「お手伝いを——」
「そこにいてください。足を挟む」
ガストンに言われ、セシリアは入口の脇へ寄った。
ミナが木片を抜く。二人で台を持ち上げ、向きを変えて下ろすと、窓からの光が台の上へ広く落ちた。
「ここなら、二人で見られますね」
ミナが言った。
ガストンは台を両手で押し、がたつきがないか確かめた。
昨日、給金と支払日を決めた。
今日は、二人に頼んだ試作の仕事を始める日だった。
*
ガストンは、すぐには新しい刃を作らなかった。
砥石を見て、使う道具を並べる。
炉のそばではミナを呼び、傷みのある箇所と、今のうちに手を入れる箇所を指した。
彼女が触れてよいところと、親方に任せるところも、一つずつ分けた。
セシリアは、手入れが必要な道具を帳面に書いた。
「買い替えが必要ですか」
「こっちは手入れで済みます。そちらは、予備が棚にある」
ガストンが奥を指す。
ミナは棚から取り出し、親方の前へ置いた。
昨日も、この場所では客の包丁を研いでいた。
これからは、その仕事を続けながら試作も進める。途中で道具が使えなくならないよう、二人で点検を済ませておく必要があった。
セシリアは、持参した紙を作業台へ広げた。
「昨日伺った仕事を、並べてみました」
ガストンは、紙の端を押さえた。
午前は道具の点検と準備。
その後に、刃の形を作る仕事。
ミナは柄の下準備と、教わった箇所の仕上げ。
午後には、親方に見てもらう時間を置いた。
ミナは自分の名を見つけ、作業台の端にある包丁を見た。
「これは、いつやりますか」
「昨日、研ぎを待っていたものですね」
セシリアが尋ねると、ガストンが頷いた。
「今日の昼までだ。引き取りに来る」
「では、先にそちらを」
午前の欄へ書き足す。
すると、その後の仕事が押し下がった。
セシリアは、後に続く仕事の開始時刻を書き直した。
紙の上では、午後までに収まった。
*
昼前に、包丁の持ち主が来た。
前掛けをした女で、入ってくるなり作業台を見た。
「できてますか。夕方の仕込みに使いたくて」
ミナが奥を振り返る。
ガストンは別の道具を手にしていたが、それを置き、包丁へ向かった。
仕上がりを見て、刃を拭く。
ミナが用意した包みへ収め、女へ渡した。
「欠けていたところは直した。硬いものに、同じように当てんように」
「気を付けます」
女は代金を払い、包みを抱えた。
「これがないと、もう一本の方じゃ手が疲れてね。助かりました」
扉が閉まる。
ミナは代金を記録し、木札を外した。
予定どおり、一つ終わった。
セシリアは午前の紙に印を付けた。
それから、彫刻刀の試作に使う柄と刃を置く場所へ目を向けた。
朝と、あまり変わっていなかった。
「こちらは、まだ取り掛かっていないのですか」
ミナの手が止まった。
「少しは、進めたんですが」
彼女が木の柄を取った。
途中まで整えた面に、指を添える。
「ここから先を、見ていただいてからと思って」
「親方に?」
ガストンは、炉のそばで道具を持ち直していた。
「今は、そっちを見られん」
ミナが柄を台へ戻す。
慌てる様子はなかった。これまでも、こうして親方の手が空くのを待っていたのだろう。
紙には、二人の名が別々に書いてある。
二人とも働けるように、仕事を分けたつもりだった。
セシリアはミナの行を辿った。
「ここを仕上げる時にも、親方の確認が要るのですね」
「はい。削りすぎると、戻せないので」
教えてもらう時間は、午後にまとめて取ればよいと思っていた。
けれど、次の削り方が分からなければ、ミナの仕事はそこで止まる。午後まで一人で進められるわけではなかった。
ガストンが炉の前から離れた。
ミナの柄を取り、窓へ向ける。
「ここまではいい。次は、こっちを残せ」
「こちらですか」
「そこを落とすと、後で困る」
彼が指したところへ、ミナが小さく印を付けた。
セシリアは、それが何のための形なのかを尋ねかけ、口を閉じた。
今、教わっているのはミナだった。
二人の話が終わるのを待ち、紙を寄せる。
「同じ時刻に、親方へ二つの仕事を頼んでいました」
「二つ?」
ガストンが顔を上げた。
「刃を作る仕事と、ミナさんの仕上げを見ていただく仕事です。別々の行に書いて、どちらにも親方が必要なことを見落としました」
ガストンは紙を見た。
ミナも、自分の名の行へ目を落とす。
「教えるのを、まとめて午後にはできませんな」
セシリアは頷いた。
線を引こうとして、先にミナへ尋ねた。
「一人で進められるのは、どこまでですか」
*
ミナは、自分の帳面を開いた。
終わりまで任せてもらえる手入れ。
途中で一度見てもらう仕上げ。
最初から、親方の手元を見る必要がある仕事。
セシリアが分けて書くと、ガストンは一か所を指した。
「それは、まだ一人ではやらせん」
「前は、できました」
「前は、わしが横にいた」
ミナは口を閉じ、頷いた。
セシリアは、その仕事を、親方と一緒に進める欄へ移した。
ミナは移された行を見ていた。ガストンは、続けて別の仕事を指した。
「こっちの手入れは、一人でいい。終わったものは、わしが最後に見る」
ミナはそちらへ、小さな丸を付けた。
朝の予定を書き直した。
親方が手を離せる時に、次に進む箇所を一緒に見る。
ミナは教わったところまで進め、確認を待つ間にできる別の仕事へ移る。
そのための道具と品を、置く場所も決めた。
壁際にあった板へ紙を留めると、ミナは立ち上がって見に行った。
「ここだと、親方から見えません」
ガストンの椅子へ座り、振り返ってみせる。
柱が邪魔をしていた。
板を窓の横へ移した。
今度はガストンが立ち、作業の邪魔にならないか確かめる。
「文字が細かい」
セシリアは板を見上げた。
仕事の名に、材料、気を付けること、予定の日。
忘れないように書いた分だけ、紙が埋まっていた。
「詳しいことは、帳面に残します」
彼女は紙を外し、太く書き直した。
誰が、いつ、何を、どこまで。
確認する人の名も、その隣へ。
ミナが板の下に、もう一つ欄を足した。
親方の確認待ち。
「見ていただく仕事の紙は、ここへ移します」
「忘れて置きっぱなしにするなよ」
「親方も、見てください」
ガストンは返事をせず、板の留め具を押し込んだ。
*
午後の仕事をすべて元の予定へ戻すことは、できなかった。
ガストンが、使う材料を前へ並べた。
ミナは準備の済んだものと、これから確かめるものを分ける。
セシリアは紙を見た。
「今日、ここまで進めるのは難しいですか」
「難しいですな。午前にできなかった分があります」
ガストンは、あっさり答えた。
予定を整理できたので、遅れも取り戻せる気がしていた。
手が増えたわけではないのに。
セシリアは予定を見た。
「では、明日へ」
「こちらを明日にして、代わりにこれを今日、見ておきたい」
彼がミナの柄を指した。
「続きが分かれば、この子が朝から進められる」
ミナが頷いた。
セシリアは、紙を入れ替えた。
発送の候補日は変えずに済むか、一週間分をもう一度見た。
予定には、遅れに備えて空けておいた時間が少しある。今日残った仕事をそこへ移すと、発送日は変えずに済みそうだった。その分、残りの余裕は減った。
ガストンが言った。
「明日の終わりに、また見ます」
「はい。送るための確認と荷造りの時間は、残してください」
セシリアが答えると、ガストンは手を止めた。
「そこまで込みで、一週間と言いましたからな」
少しだけ、言葉が硬かった。
セシリアは頷き、同じことを重ねて言うのをやめた。
ガストンは、ミナの隣へ椅子を寄せた。
「昨日、どこを見た」
「ここです」
「なら、今のと比べてみろ」
ミナが、二つの品を明かりへ向ける。
ガストンは答えを言わず、彼女の手元を待っていた。
セシリアは板から一歩離れた。
朝は、それぞれに仕事を書けば動くと思っていた。
書き直した予定には、二人で仕上がりを確かめる時間も入っている。その後に、ミナが一人で進められる仕事が続いていた。
*
翌日、セシリアが工房へ行くと、仕事の紙が一枚、「親方の確認待ち」の欄へ移っていた。
ミナの字で、短く書き足してある。
ここまで済み。親方に見てもらう。
勝手に続けた跡はなかった。
ミナは隣で別の手入れをし、ガストンは手の離せるところまで作業を進めていた。
「これが済んだら、見る」
彼が言うと、ミナは頷いた。
セシリアは、板へ伸ばしかけた手を引いた。
その日の終わりには、別の予定も動いた。
思ったより手間の掛かった箇所があり、翌朝の順番を入れ替えた。
三日目には、ミナが確認を待っていることをガストンが忘れかけた。
彼女が板を指すと、彼は顔をしかめたが、道具を置いた。
「忘れてません」
「まだ、何も言っていません」
ミナの返事に、セシリアは帳面の陰へ目を落とした。
板を掛けても、予定どおりに進まない日はあった。
朝に紙を見て順番を確かめ、終わった仕事の紙を移し、残った仕事は翌日の予定に入れ直す。
それを、翌日も続けた。
町の倉庫では、大工と鍛冶屋が扉を直していた。
そちらの作業はガストンへ回さず、レオンハルトが引き渡しを確かめた。
夕食後、二人で紙を広げる時、セシリアの報告に「まだ」が増えた。
まだ、刃の仕上げが残っている。
まだ、三つの柄は揃っていない。
ただ、誰の、どの仕事を待っているかは、朝に確かめられるようになった。
レオンハルトは、その話を聞いてから、倉庫の扉が一人で開くようになったと伝えた。
「給金を払った後、私も見に行ってよろしいですか」
「ああ。荷を出す時の方が、分かると思います」
セシリアは、その予定も帳面へ書いた。
*
仕事を始めて五日目の夕方、ミナは館へ来た。
ガストンも一緒だった。
入口で上着の埃を払う彼の隣で、ミナは小さな帳面を両手で持っていた。
セシリアがリーベルに来て、二十一日目。
約束した最初の支払日だった。
机には、二人分の控えが別々に置かれている。
レオンハルトが額を確かめ、館の係が金を数えて出した。
ガストンは受け取ると、控えを自分で読んだ。
ミナは、自分の前に置かれた金を見たまま、すぐには手を出さなかった。
「五日分です」
セシリアが伝えると、ミナは頷いた。
「はい。……分かっています」
帳面を開く。
先日、自分で書いた額と、目の前の金を見比べた。
ミナが、小さな声で言った。
「まだ、王都へ送っていません」
ガストンが彼女を見た。
セシリアは、机の上の控えをミナへ向けた。
「今日まで、お願いした仕事をしていただきました。道具の準備も、仕上げも、記録も」
「でも、品はまだ」
「完成までの仕事も含めて、働いた日数でお支払いすると決めました。今日は、約束した五日分です」
ミナは、もう一度金を数えた。
今度は、一つずつ指先で動かした。
受け取った額を確かめ、控えへ名を書く。
最後の文字だけ、少し大きくなった。
ガストンは彼女が書き終えるまで待ち、それから自分の控えを折った。
「明日も、いつもの時刻だ」
「はい」
ミナは布の財布へ金を入れた。
紐を一度結び、もう一度、引いた。
セシリアは支払いの記録へ印を付けた。
空けておいた欄が、一つ埋まる。
その向こうで、ミナが財布を上着の内側へしまっていた。
*
「母が、店で待っています」
館を出たところで、ミナが言った。
ガストンは工房へ戻り、セシリアとレオンハルトは倉庫の方へ向かうところだった。
途中までは、同じ道になる。
セシリアは、ミナと並んで歩いた。
「お買い物ですか」
「はい。糸を買って帰ろうと話していて」
ミナは、しまった財布に一度触れた。
「小麦も。母が縫ったものを届けるので、帰りに一緒に」
通りの店先で、女が一人、空の籠を持って待っていた。
ミナを見つけると手を上げ、後ろにいる二人に気付いて背を正す。
「お館様。奥様」
セシリアは、先に会釈した。
ミナの母親は娘の顔を見た。
尋ねるより早く、ミナが小さく頷く。
「いただいたよ」
母親の肩が下がった。
「そう」
それだけ答え、娘と並んで店の中へ入った。
ミナは戸口で振り返る。
「では、また明日」
セシリアも挨拶を返した。
店の戸は開いていた。
棚から糸の束が下ろされ、母親が色を確かめる。
「いつも買っている糸は?」
「こちらだよ」
店主が別の束を出した。
母親は二つを比べ、少し考えてから、いつも使う方を選んだ。
「こっちの方が、切れにくいから」
ミナが頷く。
小麦の袋が台へ置かれ、持参した小瓶には油が注がれた。
財布から出した金が、店主の手へ移る。
母親が糸を籠へ入れ、ミナは小麦の袋を抱えた。
セシリアは、店先から少し離れたところで足を止めていた。
試作の品は、まだ王都へ送ってもいない。
それでも、約束の日に払った給金で、ミナたちは糸と小麦と油を買っていた。
「倉庫は、こちらです」
レオンハルトの声に、顔を上げる。
「あ……はい」
歩き出そうとすると、店の中からミナの声がした。
「それは、私が持つ」
母親が、ミナに声を掛けた。
「袋があるでしょう」
「籠は、お母さんが」
役目を分ける声だった。
工房で聞いたものより、少し早口だった。
セシリアは、もう一度だけ振り返った。
*
倉庫の扉は、一人で開いた。
レオンハルトとセシリアの前で、荷を扱う男が扉を押す。
大工に直してもらった箇所を示し、開け閉めで引っ掛からなくなったことを話した。
セシリアは、扉の向こうの荷を見た。
以前は扉を支えるために呼ばれていたもう一人が、今日は中で荷の数を確かめている。
「明日も、この使い方で困らないか見ます」
男が言った。
レオンハルトは頷き、気になることがあれば知らせるよう頼んだ。
帰る頃には、店先の人影が減っていた。
「工房も、こうして確認しなければなりませんね」
セシリアが言うと、レオンハルトは彼女を見た。
「板ができたかどうかではなく、仕事が進められるか」
「はい。今日は、ミナさんが先に書き直していました。親方も、見てくださって」
セシリアは、昼間のことを話した。
ミナの短い書き足し。ガストンが、確認を終えた紙を自分で移したこと。
話し終えても、レオンハルトは急いで次の問いを出さなかった。
「少し、嬉しそうですね」
セシリアは口を閉じた。
「……そう見えますか」
「ああ」
彼女は、店のあった方へ目を向けた。
「給金を受け取った時より、買い物をしている時の方が、分かった気がしました」
「決めた日に払えば、ああして買い物の予定を立てられるのですね」
レオンハルトも、同じ方を見た。
「私もです」
短い返事だった。
セシリアは、彼の横顔を見た。
館の帳簿にも、支払いの記録はある。
今日は、その金を受け取った親子が何を選ぶのかを、二人で見た。
セシリアは何か言おうとして、うまく言葉にできずに笑った。
レオンハルトの口元も、少し緩んだ。
「茶の時間には、戻れそうです」
「今日は、帳面を食卓まで持っていかないようにします」
「茶の卓には?」
「……それも、なるべく」
彼が声を立てずに笑った。
セシリアは、先に顔を前へ戻した。
歩く速さは、変えなかった。
*
館で茶が運ばれてきた時、セシリアは帳面を脇の椅子へ置いた。
レオンハルトが、気付いた顔をしたが、何も言わなかった。
代わりに、小皿を彼女の方へ寄せた。
薄く切った菓子が、二つ載っていた。
「この菓子は、甘さが控えめだそうです」
「お好きなのですか」
「私には、もう少し甘くても」
セシリアは彼を見た。
予算の紙を読んでいる時には、想像したことのない答えだった。
「そうなのですね」
「意外ですか」
「少し」
一つ取ると、表面が小さく崩れた。
口へ運び、飲み込んでから、彼女は頷いた。
「私は、このくらいが好きです」
レオンハルトは、残った一つを取った。
窓の外で、誰かが戸を閉める音がした。
セシリアは茶器を両手で持ち、今日はその音を聞いていた。
しばらくして、彼が尋ねた。
「明日は、仕上げですか」
仕事の話へ戻ったのは、彼の方だった。
「はい。三つの柄と、それぞれの刃を揃えるところまで。今日、親方が、間に合う見込みだと」
「では、あとは送るだけ?」
「いえ。揃ってから、仕上がりを確かめます。それから荷造りです」
セシリアは椅子の上の帳面を見た。
手は伸ばさなかった。
「ヴェラさんが使う時には、作った人が隣にいませんから」
レオンハルトが頷いた。
工房の板には、まだ終わっていない仕事が残っている。
明日は刃と柄を揃え、その後には発送前の確認がある。
それでも、ミナは明日の仕事を知っている。
帰った家には、小麦と油がある。母親は、いつもの糸を買えた。
セシリアは、もう一口、茶を飲んだ。
甘さの控えめな菓子が、少しだけ口の中に残っていた。




