第2話 動かない荷車
車輪を直せる者が、誰もいなくなったわけではなかった。
「鉄の輪なら、鍛冶屋で直せます。木の部分も、軽い傷みなら大工が」
翌朝。
館を出て間もなく、レオンハルトが昨日の問いに答えた。
「作り直すとなると、川向こうの工房へ頼むことになります」
「車輪だけを運ぶのですか」
「ああ。外せれば」
レオンハルトは、セシリアの歩調に合わせた。
「外せない時は、職人にこちらへ来てもらう」
「その間、荷車は使えませんね」
「そうなる」
通りの角に、閉まった店があった。
入口の上には、木で作られた車輪の看板。
扉の下には細い草が生え、窓の向こうには何本もの木材が立てかけられている。
軒先には、昨日見た車輪がそのまま立てかけられていた。
あの工房だった。
道具は置いたまま。
職人だけが、王都へ仕事を探しに行った。
帰るつもりで残したのか。
持っていけなかったのか。
閉じた扉を見ているだけでは、分からない。
「先に橋へ行きましょう」
レオンハルトが言った。
「荷を出す者が、そろそろ集まります」
「はい」
セシリアは手にしていた小さな帳面を開いた。
*
朝の川は、到着した日よりも眩しかった。
レオンハルトは昨日と同じ、道を塞ぐ縄の前で止まった。
川の向こうから、木を打つ音が聞こえる。
橋は切れている。
それでも川の両側には、人の暮らしが続いていた。
「向こうの道を、王都へ行く荷車も通るのですね」
セシリアが尋ねた。
「ああ。以前はここを渡って、そのまま街道へ出ていた」
レオンハルトが対岸を示す。
「木材も、鉱山からの荷も、工房の品もだ」
切れた橋の先には、今も道が続いている。
あそこまで渡れれば、昨日のように朝から狭い山道を曲がり続ける必要はない。
セシリアは、川の中に残った石の橋脚を見た。
「石の部分は残っているのですね」
「使えるかどうかは、調べてもらわなければ分からない」
セシリアは口を閉じた。
昨日までなら、
――残っているなら使えばいい。
そう続けていたかもしれない。
帳面に書く。
『橋脚』
そして、その横に、
『調査が必要』
と付け加えた。
レオンハルトが、その文字をちらりと見た。
その時。
川沿いの道を、一台の荷車が進んできた。
馬が引いている。
けれど、それだけでは足りない。
二人の男が後ろから荷台を押していた。
これから始まる坂に備えているのだろう。
セシリアは帳面を閉じた。
*
道が上り始める手前で、男たちは荷車を止めた。
一人が車輪の下に木片を差し込む。
もう一人は腰を伸ばし、肩に掛けていた布で汗を拭った。
「ヨハン」
レオンハルトが声を掛けた。
御者台の近くにいた男が振り返る。
そしてセシリアを見た瞬間、その手が止まった。
「……あなたでしたか」
声に覚えがあった。
王都の屋敷。
雨に濡れた受領書を両手で差し出していた男。
セシリアも、ようやく思い出した。
「冬に、金具の荷を届けてくださった方ですね」
「はい」
ヨハンの表情が少し固くなる。
「着いたのが、一日遅れました」
「峠で車軸が折れたと伺いました」
今度は、ヨハンが目を見開いた。
「……覚えていらしたんですか」
「ええ」
セシリアは答えた。
「荷の数は合っていました。遅れた理由も記録しましたから」
「遅れた、とだけではなく?」
「車軸が折れたこともです。あなたに伺って、書きました」
セシリアにとっては、同じことではなかった。
荷が足りなければ、どこで減ったのか。
道で止まったなら、次も同じ道を使えるのか。
原因が違えば、次に見る場所も違う。
ヨハンは手の中の縄へ目を落とした。
「……そうでしたか」
少しだけ、声が柔らかくなった。
セシリアは荷台を見た。
「今日は、どちらまで?」
「川向こうの材木商です」
ヨハンが坂を見上げる。
「橋があれば、夕方を待たずに次の仕事へ行けるんですが」
昨日聞いた話と同じだった。
橋があれば昼に戻れる。
今は、帰りが翌日になる。
セシリアは荷台へ目を向けた。
材木は積まれている。
けれど、まだ隙間があった。
「もう少し荷を増やすことは、できないのでしょうか」
ヨハンが縄を引く手を止めた。
「平らな道なら」
そして坂を見る。
「あそこを上るなら、これ以上引かせるのは無理です」
セシリアも坂を見た。
「……道によって、載せられる量も変わるのですね」
「下りは下りで、止める方があります」
ヨハンは馬の首を軽く叩いた。
馬が耳を動かす。
「少なく載せて、長く走る」
ヨハンは続けた。
「その分の運び賃をいただかないと、こちらも続けられません」
「橋が戻れば、以前の運び賃に戻せますか」
セシリアが尋ねる。
だが、ヨハンはすぐには頷かなかった。
「渡ってみなければ、約束はできません」
「……そうですか」
「荷をどれだけ載せられるか。馬にどれだけ負担が掛かるか。それを確かめてからです」
セシリアは帳面を開いた。
『橋が直れば――』
そこまで書いて、止める。
まだ、その先は決められない。
「今の運び賃を伺ってもよろしいですか」
ヨハンが答える。
セシリアが書き終えるのを待ってから、帰りの荷がある場合と、空で戻る場合の違いまで教えてくれた。
向こうから、別の男が呼ぶ。
「そろそろ出るぞ」
「お引き止めしました」
セシリアは帳面を閉じた。
ヨハンが御者台へ上がる。
車輪の下の木片が抜かれた。
荷車が、ぎしりと音を立てて坂を上り始める。
二人は、その姿が木立に隠れるまで見送った。
セシリアが尋ねた。
「あの材木は、売れることが決まっているのですか」
「あれはな」
レオンハルトが答える。
「決まっていない荷もある」
*
木材置き場は、川から少し上がったところにあった。
屋根の下に、何段もの材木が積まれている。
地面へ直接置かず、短い木を渡して、その上に並べられていた。
風が隙間を抜けるたび、乾いた木の匂いがする。
セシリアは奥を見る。
材木は、まだ続いていた。
荷車が壊れたら困る。
昨日は、それだけを考えていた。
けれどここには、
運ばれるのを待っている材そのものがある。
年配の男が、材木へ掛けた布を直していた。
レオンハルトに気づき、手を止める。
「こちらはセシリアです」
レオンハルトが紹介した。
「町の仕事を見たいそうです」
「……そうですか」
男は帽子を取って頭を下げ、すぐに被り直した。
セシリアは奥の材木を見た。
「ここにあるものは、売り先が決まっていないのですか」
「全部ではありません」
男が場所を示す。
「手前は引き取り待ち。奥は、まだです」
「いつから置かれているのですか」
「全部、同じ時期じゃありません」
男は一本の材の端に付けられた印を示した。
「これは買い手がいたんです」
「いた?」
「運び賃を足したら、向こうで買う方が安いと言われましてね」
セシリアは、先ほどヨハンから聞いた金額を思い出した。
運び手が不当に高く取っているのではない。
載せられる量が少ない。
時間が掛かる。
だから、高くなる。
「置いている間も、手が掛かるのですね」
セシリアが布を見る。
「濡れれば覆う。ずれれば積み直す」
男が重しを載せた。
「何もせず置いておけるなら、楽なんですが」
その手の関節には、細かな傷がいくつもあった。
セシリアは材木を見回す。
「これだけあれば、橋の――」
そこまで言って、止まった。
男が初めて、まっすぐセシリアを見る。
レオンハルトも、何も言わない。
昨日と同じだ。
セシリアは言い直した。
「……橋に使える材かどうかも、まだ分かりませんね」
男が頷いた。
「何を作るかで、要る材は違います」
「はい」
「橋なら、橋を造る者に見てもらわんと」
セシリアは帳面を開いた。
先ほど書いた、
『材がある』
という一行。
その下へ、
『売り先あり・引き取り待ち』
『売り先なし』
と分けて書き直した。
「数と用途を、後で伺ってもよろしいでしょうか」
「帳面はあります。倅が戻ったら出せますよ」
男はそう言って、置き場の裏へ目を向けた。
「そこの荷車も見ていくんですか」
「荷車?」
「あれです」
*
置き場の裏に、小さな荷車があった。
片側を木の台へ載せられ、車輪が一本外されている。
その車輪は、壁に立てかけてあった。
セシリアは近づき、しゃがんだ。
木の輪の一部に隙間がある。
触れようとして、手を止めた。
「触っても大丈夫でしょうか」
「置いてある分には」
材木の間から若い男の声がした。
「ただ、荷は載せちゃいけないと言われています」
先ほどの男の息子だった。
短い板を父親へ渡し、帽子を取る。
セシリアを見ると、少しだけ表情を固くした。
「大工に見てもらったんです」
若い男が言った。
「直せるそうです」
「では、なぜ修理を頼まなかったのですか」
「頼むつもりでした」
男は空の荷台を見る。
「奥の材が売れたら」
「……材が?」
「あれの代金を、修理代にするつもりだったので」
セシリアは木材置き場を振り返った。
材木を濡らさないように布を掛ける。
ずれれば積み直す。
仕事はしている。
けれど、その仕事をした今日、金が入るわけではない。
「この荷車は、車輪工房が閉まる前からここに?」
「はい」
男が頷く。
「町の中で使うだけだから、急がなくてもいいと思っていました」
少し笑った。
「そうしているうちに、頼めなくなりました」
セシリアは立ち上がった。
昨日の問いには、答えがあった。
車輪を直す方法はある。
川向こうへ持っていく。
職人を呼ぶ。
大工へ頼む。
それでも、この荷車は動かない。
「今は、どうやって材を運んでいるのですか」
「軽いものは担ぎます」
若い男が答える。
「重い時は、隣の荷車を借ります。向こうが使わない日に」
「それでは……」
「遅くはなります」
男が腕の木屑を払う。
「でも、何もできないわけじゃありません」
セシリアは口を閉じた。
また一つ、
できない
と決めかけていた。
レオンハルトが荷台の縁へ手を置いた。
「館へ出している修繕の希望に、これは入っていたか」
「いえ」
若い男が首を振る。
「金を用意してから頼もうと思っていたので」
「そうか」
レオンハルトの返事も、少し遅かった。
セシリアは新しい頁を開く。
「この荷車について、書き留めてもよろしいですか」
若い男の目が、ペンへ動く。
セシリアはその視線を知っていた。
王都でも、何度も見た。
――何を書かれるのか。
そう待つ目だった。
「すぐに修理できるとは、お約束できません」
セシリアは先に言った。
「誰に頼めるのか。費用はいくらなのか。他にも同じような荷車があるのか。それを確かめたいのです」
若い男が父親を見る。
父親は壁の車輪を見てから、頷いた。
「では」
若い男もセシリアを見る。
「直るなら、使いたいです」
「分かりました」
セシリアは持ち主の名と、荷車の置かれた場所を書いた。
金額の欄だけは、
空白のまま残した。
*
川沿いの道へ戻る。
荷車の轍に、小さな水溜まりができていた。
今日見た場所は、どこも遠くない。
壊れた橋。
木材置き場。
動かない荷車。
歩いて回れるほど近い。
それなのに、一つだけ見ていれば、まるで別の問題に見える。
セシリアは立ち止まり、帳面を開いた。
荷車。
修理代が払えない。
その理由は、材木が売れないから。
材木が売れない理由は、運び賃が高いから。
運び賃が高い理由は――
橋がないから。
セシリアは橋の頁まで戻った。
「橋が直れば、あの材は売れると思っていました」
レオンハルトも足を止めた。
「運ぶ費用は下がるかもしれません」
セシリアは続ける。
「でも、買う人がいなければ、材は残ります」
「ああ」
「荷車も、橋が直れば何とかなると思っていました」
今度は荷車の頁を見る。
「でも、修理代は材が売れなければ払えない」
言葉にすると、単純だった。
単純なのに。
そこにいる人たちは、その間ずっと材木を担いでいる。
レオンハルトが木材置き場を振り返った。
「私のところへ届いた修繕の希望だけでは、足りなかったな」
「……はい」
「頼みに来ない家にも、聞いてみる」
「私も、今日伺ったことを整理します」
セシリアは帳面を閉じかけた。
そこで止まる。
「……大工の方のお名前を聞いていません」
「荷車を見た?」
「はい」
セシリアは来た道を振り返る。
「戻って伺ってもよろしいですか」
レオンハルトが帳面を見る。
そして、わずかに笑った。
「次に会った時でもいいと思っていたが」
先に歩き出す。
「まだ、あそこにいるだろう」
セシリアも後を追った。
「修理する人がいない、で終わらせるところでした」
「私もだ」
レオンハルトが答えた。
「頼まれなかった仕事を、知らずにいた」
帳面に残ったのは、壊れた車輪だけではない。
直せると言った大工。
直したいと言った持ち主。
その間にある、
まだ埋まらない修理代。
戻る途中。
通りの奥から、鉄を打つ音が聞こえた。
――カン。
――カン。
セシリアが足を止める。
「工房も見せてください」
「鍛冶屋か?」
「はい」
セシリアは音のする方を見た。
「直せるものと、作れるものを知りたいのです」
そして、帳面を見る。
「仕事があるかどうかだけでは、また見落としそうなので」
レオンハルトは少し考えた。
「刃物を作る工房がある。親方はガストンだ」
「今も仕事を?」
「小さな修理を。それと――」
レオンハルトが言葉を切った。
「売り物も作っている」
「どこへ売っているのですか」
鉄を打つ音が、もう一度響いた。
レオンハルトは答えた。
「売れてはいないんだ」
セシリアの指に、帳面の角が当たった。
売れていない。
それでも、作っている。
今度こそ。
理由を聞かなければならなかった。




