第1話 橋のない橋町
はじめまして。
本作は、悪女と呼ばれた令嬢が、辺境の町で人々とともに未来を築いていく物語です。
魔法やチートに頼らない、少し変わった町おこしの物語をお楽しみいただければ幸いです。
王都で「悪女」と呼ばれたセシリアは、嫁ぐためにリーベルの町へやって来た。
馬車の窓から見える町は、思っていたより静かだった。
軒先で洗濯物を絞る女。
桶を抱えて走る子供。
店先に腰を下ろし、靴底へ針を通す老人。
通りの角には、小さな工房があった。
戸は閉ざされ、軒先には荷車の車輪が一つ、立てかけられたままになっている。
こちらを見る者はいる。
けれど、王都でそうだったように、わざわざ足を止めて彼女を見物する者はいなかった。
それだけで、少し息がしやすかった。
「橋は、この先にございます」
御者台から、迎えに来た館の使用人が振り返った。
セシリアは窓の外を見た。
「町へ入る時に渡った橋とは、別なのですか」
「はい。本来はこちらを渡るはずでした。先ほどお通りになったのは、隣の領地の橋です」
朝から、馬車はずいぶん遠回りをしていた。
細い山道では何度も対向する荷車を待ち、そのたびに御者は崖側の車輪を確認していた。
理由が、ようやく分かった。
馬車が止まる。
セシリアは外へ出た。
すぐ近くから、川の音が聞こえた。
町の道は川へ向かってまっすぐ伸び、その先で途切れていた。
石造りの橋脚だけが水の中に残されている。
こちら側から伸びた木の床は途中で不揃いに切れ、その先には何もない。
縄が張られ、道を塞いでいた。
セシリアは縄の手前まで歩いた。
「……これが、リーベルの橋ですか」
使用人が答えた。
「はい」
セシリアはもう一度、途切れた橋を見る。
「橋町と伺っていました」
使用人は苦笑した。
「橋町なのに橋がない、と。皆そう言います」
冗談にするには、笑いきれない話らしい。
道の脇には一台の荷車が止まっていた。
荷台いっぱいに材木が積まれ、男が縄を締め直している。
セシリアは荷車と、目の前の川を交互に見た。
「……あの材木も、迂回するのですか」
「はい」
使用人が答える。
「橋があれば、向こう岸まで渡って昼には戻れます。今は山道を回るので、帰りは明日です」
「明日……」
橋が一本ないだけで、一日の仕事が二日になる。
荷車の男の足元には、小さな旅袋が置かれていた。
日帰りではない。
本当に一晩かけて行くのだ。
使用人が小さく息を吐いた。
「今月も、若い者が一人、町を出ました」
「どちらへ?」
「王都です。仕事を探すそうです」
セシリアは橋から町へ目を向けた。
人はいる。
家もある。
店もある。
けれど、町の真ん中を流れる川の前で、仕事の流れだけが切れている。
「お館へご案内してもよろしいでしょうか」
「ええ」
セシリアが振り返った時だった。
荷車のそばにいた男が、隣の男へ何かを囁いた。
声は小さかった。
だが、聞こえた。
「王都の、あの悪女か」
足が止まりかける。
――悪女。
その言葉を聞くたびに、思い出す光景がある。
王都で最後に止めた、式典の馬車。
金色の飾りの下。
車軸には、細い亀裂が走っていた。
このまま走らせれば危険だ。
だから、止めた。
『王家の式典を止めるおつもりか』
周囲から飛んできたのは、車輪についての言葉ではなかった。
誰も亀裂について尋ねなかった。
人々が見ていたのは、止まった馬車ではなく、取りやめになった式典だった。
式典を止めた女。
融通の利かない令嬢。
職人を泣かせる女。
そして最後には――悪女。
危ない車輪を見てほしかっただけだった。
セシリアが男たちへ顔を向けると、二人はすぐに口を閉じた。
聞こえなかったふりをすることには、もう慣れている。
手袋の指先を整え、セシリアは馬車へ戻った。
けれど、窓の向こうに見える壊れた橋からは、しばらく目を離せなかった。
*
領主館は、町外れの緩い坂の上にあった。
玄関の石段は磨かれている。
けれど、手すりの塗装はところどころ剥げていた。
豪奢ではない。
かといって、荒れているわけでもない。
使えるものを、使えるだけ使っている。
そんな館だった。
執務室へ通されると、机の向こうにいた男が立ち上がった。
「レオンハルトです。長い道中、お疲れでしょう」
セシリアはわずかに身構えた。
だが、彼の視線に探るような色はなかった。
悪女を見物する目でもない。
「セシリアです。お迎えをありがとうございます」
勧められた椅子に座る。
茶が運ばれてきた。
窓の外には町の屋根が広がり、その向こうに川が見えた。
レオンハルトが口を開く。
「橋をご覧になったそうですね」
「はい。縄の外から少しだけ」
「危険な場所があります。詳しく見るなら案内をつけます」
セシリアはすぐに尋ねた。
「あの状態になってから、どのくらい経つのですか」
レオンハルトが答える。
セシリアが想像していたより、ずっと長かった。
思わず眉を寄せた。
橋があれば昼に戻れる荷車が、一晩かけて山を回る。
若者が仕事を求めて町を出ていく。
それが何年も続いている。
「それほど長く……」
言葉が先に出た。
「なぜ、放置したのですか」
部屋が静かになった。
自分の声だけが妙に大きく聞こえた。
レオンハルトは怒鳴らなかった。
言い返しもしなかった。
ただ、机の上から手を離し、背後の棚へ向かった。
厚い紙束を取り出す。
「これを」
セシリアの前へ置いた。
一番上には、橋の修繕に関する見積書があった。
「拝見しても?」
「そのために出しました」
セシリアは紙をめくった。
一度、修繕を依頼している。
断られている。
その下には、もう一度会合を求めた手紙。
さらにその下にも、別の年の見積書。
同じ筆跡で数字が書き直されていた。
資材購入の欄には、取り消しの印がある。
「この年は、資材の購入を止めたのですね」
「川沿いの家と、水路の修繕を先にしました」
セシリアの指が止まった。
別の書類を見る。
増水。
家屋の損傷。
水路の破損。
橋を直すか。
暮らしている人間の家を直すか。
両方を選べるだけの金はなかった。
さらに紙をめくる。
補助を求めた書面。
返事。
却下。
再申請。
また却下。
この人は、何度も動いていた。
セシリアは紙束から手を離した。
「……放置した、と申し上げたのは間違いでした」
レオンハルトは黙って彼女を見た。
「進めようとして、進められなかったのですね」
セシリアは息を整える。
「事情を知らずに、失礼なことを申し上げました」
謝った後、無意識に体へ力が入った。
王都では、誤りを認めれば、それで話が終わるとは限らなかった。
次は何を認めろと言われるのか。
何を責められるのか。
そんなことまで考えてしまう。
だが、レオンハルトは責めなかった。
手紙を一枚取り、元の位置へ戻した。
「ここにあるのも、町の事情の一部です」
「……はい」
「橋を直す必要はあります」
レオンハルトは続ける。
「ですが、橋の話だけをしていれば済む状態でもない」
セシリアは窓の外を見た。
橋だけを見れば、橋を直せばいいと思う。
けれど橋を直すための金を使えば、別の何かが直せなくなる。
知らないことがある。
見えていないものがある。
王都でも、それを何度も間違えたのかもしれない。
冷めかけた茶へ、ようやく手を伸ばした。
*
「帳簿を見たいという希望は、ご実家からの書面にもありました」
茶器が下げられると、レオンハルトは別の書類を開いた。
セシリアは頷く。
「帳簿も拝見したいです。ただ……」
一度、言葉を切った。
「現場も見せてください」
レオンハルトが顔を上げる。
「現場を?」
「帳簿だけでは、今日と同じことを言ってしまうかもしれません」
橋を見ただけで、放置したと決めつけた。
次は、同じ間違いをしたくない。
「私が同行できる時に」
「お忙しければ、案内の方だけでも構いません」
少しの沈黙。
レオンハルトがセシリアを見た。
「……案内を頼みましょう。ただし、領地の金を動かすなら、私を納得させてほしい」
「必要な理由と、費用をお伝えします」
「できないことも、です」
セシリアは少し考えた。
「では、私の提案が間違っていると思われた時は、理由を教えてください」
「理由?」
「直せるところは、直したいので」
レオンハルトはしばらく彼女を見ていた。
やがて、書類の余白へ一行を書いた。
「分かりました」
それだけだった。
セシリアは膝の上で握っていた手を、少し緩めた。
*
翌朝。
館の小さな広間には、白い花が飾られていた。
豪華な式ではない。
窓辺に一束。
誓約書のそばに一束。
それだけだった。
「お庭の花ですか」
セシリアが尋ねると、昨日茶を運んだ女が振り返った。
「はい。今朝、開いたものを」
今朝咲いた花。
自分のために選んでくれたのだろうか。
そう考えると、少しだけ戸惑った。
王都から持ってきた服の中から、淡い色の一着を選んだ。
胸元の飾りは付けなかった。
広間には、昨日より少しだけ整った服を着たレオンハルトが待っていた。
互いの名を告げる。
誓約を読み、署名する。
セシリアがペンを傾けた時、先端にインクの滴が膨らんだ。
「あ……」
書類へ落ちる前に、横から吸い取り紙が差し出された。
「こちらを」
レオンハルトだった。
「ありがとうございます」
余分なインクを取り、名前を書く。
最後の文字を書き終える。
拍手は、広間にいる人数分だけだった。
それでもセシリアには、十分だった。
花を整えていた女も笑っている。
セシリアはその人へ、小さく頭を下げた。
*
食事を待つ間、二人は窓辺に立っていた。
町の屋根が見える。
レオンハルトが尋ねた。
「お疲れではありませんか」
「昨日よりは」
そう答えると、彼の口元が少しだけ緩んだ。
「それなら、よかった」
セシリアは川の方角へ目を向けた。
橋は、ここからでは屋根に隠れて見えない。
「明日、橋を見に行きたいです」
口にしてから、言い直す。
「……案内をお願いできますか」
「ああ。朝に出ましょう」
レオンハルトも町を見た。
「荷を出している者にも、話を聞けると思います」
「お願いします」
昨日は、壊れた橋だけを見ていた。
今日は、その橋を直そうとしていた人間を知った。
明日は、橋を使う人間を見よう。
背後で食卓の椅子が引かれた。
レオンハルトがセシリアへ手を差し出す。
彼女は一度その手を見てから、自分の手を重ねた。
食卓へ向かう途中、レオンハルトが言った。
「そうだ。橋へ行く道に、車輪の工房がある」
「車輪の?」
「先週、閉まったばかりだ」
セシリアは、町へ来た日に見た建物を思い出した。
閉ざされた戸と、軒先に立てかけられた車輪。
あの工房だったのか。
「職人の方は?」
「王都へ仕事を探しに行った。道具は置いたままだ」
王都では、危険な車輪を止めた。
ここでは――車輪を直す人間そのものが、いなくなっている。
昨日見た、材木を積んだ荷車が頭に浮かぶ。
その荷を届けた金を待っている家もあるのだろう。
橋がない。
道が遠くなる。
仕事が減る。
人が町を出る。
人がいなくなれば、残された仕事さえ続けられなくなる。
車輪が一つ壊れた時。
止まるのは、荷車だけではない。
セシリアは足を止めた。
「レオンハルト様」
「何でしょう」
セシリアは窓の向こうにある町を見た。
「この町で、車輪が壊れたら――どうするのですか」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作では、ものづくりや仕事の仕組み、そして人と人との信用をテーマに描いています。
セシリアがこの町で何を見つけ、どのように変わっていくのか。
彼女と町の人々の歩みを、これから見守っていただけたら嬉しいです。




