episode.08「いじわるなせんぱい」
本作は単体でもお読みいただけますが、全3部作の第2作目となります。
1作目となる『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』の世界観を知ってから触れていただくと、より深く楽しんでいただけるはずです。
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部活も終わり、一人で静かに帰ろうとした時、背後から「ちょっといい?」と冷たく低い声をかけられた。
びくりと肩を震わせて振り返ると、そこには血の気の引いた、思いつめたような顔のきゆ先輩が立っていた。
「はい、なんでしょう……?」
わたしの引きつった問いかけには答えず、きゆ先輩は周囲をうかがうように険しく目を走らせた。
「……ここでは話しにくいことだから、音楽準備室に移動しよう」
そう有無を言わせぬ圧力をかけられて連れてこられたのは、日の光も届かない、ひんやりと薄暗い音楽準備室だった。
ガチャリと重い音を立てて鍵をかけたきゆ先輩は、逃がさないとばかりに鋭く真剣な眼差しでわたしをじっと見つめた。
「あの日……れいがいなくなる前の日、あいかちゃん、れいと一緒にいたでしょ? 私、校舎の三階の窓から見てたの。あの時、二人で校門を出てどこかへ歩いていくところを、ハッキリと見たのよ……! 本当は、何か知っているんじゃないの?」
きゆ先輩の声が、怒りと恐怖でわずかに震えている。
「えっ……! で、でも、わたしはあの日、神谷みそら先生に楽譜の質問をして、それから一人で帰りました! 氷雨先輩とは、会っていません……!」
咄嗟に声を張り上げてそう訴えるも、きゆ先輩の疑いに満ちた冷たい眼差しは少しも和らがなかった。彼女の中で、わたしの言葉はすでに「言い訳」にすら聞こえていないようだった。
「……そう。何か、私に話す気になったら……いつでも声をかけて。警察に行く前にね」
そうトゲのある言葉を残して、きゆ先輩は重い扉を乱暴に開け、準備室から出て行ってしまった。
パタン、と閉ざされた静寂の中で、わたしはただ立ち尽くす。
会っていない。話もしていない。……はずだ。それなのに、なんで誰も彼もわたしを疑うの? なんで信じてくれないんだろう。
(なんで……。どうして、みんなしてわたしを悪者扱いするの? きゆ先輩、頭がどうかしてるんじゃないの……?)
一人薄暗い準備室に取り残された空間で、胸の奥からドス黒い苛立ちが沸騰するように溢れ出そうになる。その時、制服のポケットやスクールバッグの横から、鈴を転がすような、あの甘く耳元にまとわりつく声が脳裏に直接響いた。
『そうだよねー。きゆ先輩、うざいよねー。ずっと疑ってきて、嫌なやつだよねー』
「……うん。本当、嫌になっちゃう。わたしだって、先輩の失踪でこんなに苦しんでるのに……」
みーたんの優しい同調を聞いて、行き場のないわたしの怒りは、表面的に暴れるのではなく、静かに、そして深くドロドロと沈み込んでいった。
◇
その日の夜。リビングで夕飯を食べていると、ソファでリモコンを操作していたママが、ふと手を止めて声を上げた。
「ねえ、これ……あいかの学校の子じゃない?」
気だるげにテレビ画面に目を向けると、そこには見覚えのある顔——氷雨先輩の制服姿の写真が大きく映し出されていた。
アナウンサーの淡々とした声が、残酷な事実をリビングに響かせる。
『昨夜遅く、近郊の港の防波堤付近で、行方不明となっていた高校3年生の女子生徒が遺体で発見されました。司法解剖の結果、死因は溺死と判別され……』
事故か、あるいは事件性の有無も含めて、警察が現在も慎重に調査を進めていると、ニュースは短く結ばれ、すぐに次の番組へと切り替わった。
「うわぁ、怖いわねぇ……。同じ学校の子なんて、本当に気味が悪いわ。あいかも夜道は気をつけなさいよ」
ママのその言葉は、どこか遠くの出来事のように、わたしの頭をスルーして通り過ぎていった。
氷雨先輩が、死んだ……?
冷たい水底に沈んでいくあの日の感覚が蘇り、何が何だか分からない恐怖と興奮が、ぐるぐると頭の中を激しく駆け巡る。何があったの? 本当に、わたしのせいでこの人は死んでしまったの……?
その夜は、高熱を出したような悪寒とパニックで、一睡もすることができなかった。
◇
翌朝、登校した学校の話題は、当然ながら氷雨先輩の死のニュース一色に染まっていた。
校門の前には、野次馬やマスコミのテレビカメラが数台も陣取っており、朝からひどく騒がしく、息が詰まるようだった。わたしはカメラのレンズを避けるように、うつむきながら足早に校舎の中へと滑り込んだ。
「ねえ、昨日のニュース見た……? 目撃者もいなくて、警察も全然手がかりがつかめないみたいなんだって」
教室の自分の席に座るなり、つみきが青い顔をして耳打ちしてきた。
「自殺なんてするような人じゃないよ……。きっと、最近噂になってる変質者か何かに襲われたんだよ……絶対そうだよ……」
ゆうちゃんも恐怖に震えながら、小さな声でそう同意した。
わたしがすっかり魂の抜けたようなうわの空で立ち尽くしていると、二人が心配そうに覗き込み、「あいかは、どう思う……?」と意見を求めてきた。
「わたしは……あんまり、先輩とは話したことなかったから……よく分からないよ……」
それだけを答えるのが、精一杯だった。
◇
しばらくの間、吹奏楽部の活動は全面的に中止となり、その日の放課後には、全校生徒や部員たちを代表して、氷雨先輩のお通夜に参列することになった。
黒い喪服に身を包み、重苦しい空気が漂う斎場。祭壇の遺影の中で、氷雨先輩は相変わらず完璧ですまし顔のまま微笑んでいた。
式の最中、氷雨先輩のお母さんが現実を受け止めきれずに泣き崩れ、父親が真っ白な顔でうなだれている姿が目に入り、胸が締め付けられるような罪悪感がよぎる。
(かわいそうだな……。わたしがこんなことを思ってしまったから……?)
そんな風に同情心が芽生えた瞬間、背筋に冷水を浴びせられたような、強い、あまりにも鋭い殺気を含んだ視線を感じた。
びくっと振り返ると、参列者の遠くの席から、きゆ先輩がこちらをじっと見つめていた。
あんなに優しく指導してくれたきゆ先輩が、今はまるで、目の前にいる凶悪な犯人を見定めるような、凍りつくほど冷たい目でわたしを睨みつけている。
(……なんで、そんな目で見るの……? わたしは、わたしは何もしてないのに……!)
◇
そして、翌日。学校の廊下できゆ先輩とすれ違った時のことだった。
わたしは恐怖を押し殺し、勇気を出して「……きゆ先輩、おはようございます」と声をかけた。
けれど、先輩はわたしを人間としてすら認識していないかのように完全に無視し、そのままわたしの横を通り過ぎていった。それどころか、少し離れた場所で他の先輩と合流すると、こちらをチラチラと振り返りながら、ひそひそと悪意に満ちた声で何かを囁き合っている。
——わたしを犯人扱いして、裏でコソコソ噂話をしている。
わたしが何をしたって言うの? 関係ないのに! なんでそんな酷いことするの……!?
ふつふつと、心の底から黒いマグマのような怒りが沸き上がってきた。
きゆ先輩なんて、大嫌いだ。あんなに偉そうにわたしを追い詰めて、まるですべてを知っているような顔をして……。
もう嫌だ。あんな先輩、いなくなってしまえばいいのに。前の、優しかった頃の先輩に戻ってほしいかなんて、もうどうでもいい。
今の、わたしを疑うだけの鬱陶しい先輩なんて——いなくなっちゃえばいいんだ。
わたしは怒りと得体の知れない興奮で震える手で小さなメモ用紙を千切り、放課後の屋上に佐野先輩を呼び出すための文字を、乱暴に書き殴った。
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