episode.06「先輩は見ていた」
本作は単体でもお読みいただけますが、全3部作の第2作目となります。
1作目となる『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』の世界観を知ってから触れていただくと、より深く楽しんでいただけるはずです。
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「はい、そうです。ママが入学のお祝いに作ってくれたんです!」
「……君はいつもそんな気味の悪いものを持っているのか?」
放課後の静まり返った音楽室で、片付けをしていた氷雨先輩が、信じられないほど冷たく凍てつくような表情でそう言い放った。
はぁ?——なにか、言った?
今、この人は何のつもりでそんなことを言ったの? まさか、わたしの世界で一番大切な、みーたんのこと……?
「これはママが作ってくれた、大切なみーたんです! そんな酷いことを言わないでください!」
わたしは思わず声を荒らげ、強い口調で抗議した。けれど、氷雨先輩は表情を微塵も崩さず、冷ややかに首を横に振るだけだった。
「そうじゃない。……それは良くないものだ。君には見えていないかもしれないが、あんなものに依存しているのは、君のためによくない」
「そんなことありません!」
わたしは叫んでいた。こんな人の、温かみの欠片もない言葉になんて耳を貸す必要はない。わたしは先輩をその場に置き去りにするように激しく振り切り、足早に音楽室をあとにした。
(本当、信じられないくらい酷いことを言う人だ。こんなにわたしに幸運をもたらしてくれる、世界で一番優しいみーたんに悪口を言うなんて……やっぱり、嫌な人だ)
胸の奥からマグマのようにふつふつと溢れ出る怒りと不快感を、どうにか抑え込もうと息を荒らげる。その時だった。
スクールバッグの金具にぶら下がる小さなみーたんから、鈴を転がすような、けれどどこか冷ややかで甘ったるい声が脳裏の芯に直接響いた。
『そうだよねー。あんな奴、いなくなっちゃえばいいのにねー』
「……うん、そうだね」
みーたんのその言葉を聞いた瞬間、ささくれ立っていた心が嘘のようにすーっと落ち着いていくのを感じた。
その瞬間だった。
わたしの頭の奥で、硬質な『カチリ』という音がして、意識の端がぷつりと切り替わった。
◇
「ねえ、つみき、先に帰ってて! ちょっとわたし、みそら先生に楽譜の質問したいことがあるから!」
生徒玄関へと向かっているつみきにそう声をかけ、わたしはわざと別の方向へと足を向けた。
けれど、わたしの本当の目的地は、職員室にいるはずの顧問の神谷みそら先生のところではない。
わたしは遠回りをし、つみきが帰るのを確認してから、ある人が出てくるのを待っていた。
部活動の時間が完全に終わり、夕暮れ時へと移り変わるその狭間の時間。波須町の空は、血のような赤と底知れぬ紫がグロテスクに混ざり合った、不気味な逢魔が時の光に包まれていた。
「……待っていましたよ、先輩。お話したいことがあるんです」
夕闇に溶けるように校門からすっと現れたのは、トランペットパートのトップであり、この吹奏楽部の絶対的な部長である氷雨先輩だった。
凛とした佇まいと周囲を威圧するような鋭い眼光は相変わらずだったが、その顔色はどこか紙のように蒼白で、じっとわたしのスクールバッグのファスナーにぶら下がる——みーたんに釘付けになっていた。
「海の方へ歩きませんか? 少し、誰にも邪魔されない静かなところで話がしたいんです」
わたしは氷雨先輩に不審がられないよう、いつもの柔らかい声色を借りてお願いした。氷雨先輩は無言のまま小さく頷き、わたしはその細い背中の後をついて歩き始めた。
街を走る路面電車の重苦しい金属音を遠くに聞きながら、わたしたちは学校を離れ、ひっそりとした港の方へと近づいていく。そこにあるのは、観光客も来ない冷たいコンクリートの防波堤だった。周囲には誰もいない。ただ、夕暮れの海から打ち寄せる波の音だけが、ザーッ、ザーッという単調なリズムで不気味に響いていた。
氷雨先輩はぴたっと足を止めると、ゆっくりと振り返り、わたしをまっすぐに見据えて言った。
「さっきはすまなかった。あんなこと言うつもりはなかったんだ。でも……そのぬいぐるみに頼るのは、もうやめなさい。それを今すぐ、その海に捨てたほうがいい」
「どうして、みーたんを捨てなきゃいけないの? みーたんはわたしに、こんなにもたくさんの幸運をくれる、とっても大切な神様なのに」
「神様なんかじゃない! そいつは……あいかちゃん、君を内側から蝕んでいる悪夢そのものだ!」
氷雨先輩は、これ以上ないほど切痛な、掠れた声を張り上げた。
「君のフルートの演奏は素晴らしい。それは嘘偽りのない本物だ。でも……あのぬいぐるみに触れている時の君の目は、人間のものじゃない。光がなくて、まるで魂の抜けた操り人形の目だ。お願いだ、目を覚ましてくれ……! その化け物から離れてくれ……!」
先輩の必死の訴えが、夕方の冷たい風に乗って耳をかすめる。
けれど、わたしの頭の中には、まったく別の声が心地よく響き渡っていた。
『やっぱり嫌な奴。……いなくなればいいよ、こんな邪魔な人間はさ……』
すっと、音もなく氷雨先輩の至近距離へと歩み寄る。
氷雨先輩は、わたしの醸し出す異様な気配——その冷徹で底の知れない眼光にようやく気づき、息をのんで小さく後ずさった。
わたしの唇が、ぞっとするほど歪んだ笑みを形作る。
そして、夕日を背にして防波堤の縁に立っていた氷雨先輩の胸元を、躊躇いなく、両手で思いきり突き飛ばした。
「バイバイ、先輩」
ドブン、と、鮮やかな夕日が沈みかけている海に似合わない重く濁った水音が響き渡る。
足場を失って防波堤から転落した氷雨先輩は、冷たい夕方の海に一気に飲み込まれ、ゴボゴボと口から苦しげな泡を吐き出しながらも、水面から必死に手を伸ばして叫んだ。
「……っ、がはッ……! だれ、か……っ! 誰か助けて……っ! あいかちゃんを……あいつから……引き離して……助けっ……!!」
その切実な叫び声も、冷たい波の音にかき消されるようにみるみる小さくなっていく。
最後の言葉は完全に水の中に飲み込まれ、ただ無数の小さな気泡だけが、わずかに残る夕日の光を反射してフツフツと海面に浮かび上がっては消えていった。
やがて、広い海面には何も波紋は残らず、ただ不気味な静寂だけが広がっていた。
「……ふふ。これで、わたしたちの邪魔をする人はみんないなくなったね」
わたしは制服のスカートを軽く払い、綺麗に整えられたツインテールの毛先を愛おしそうに優しく撫でた。
そして、後ろ髪を引かれることも一切なく、何事もなかったかのように、一人で静まり返った駅へと歩き出した。
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