File.EX -side:れい-「冷(れい)徹な水底」
本作は単体でもお読みいただけますが、全3部作の第2作目となります。
1作目となる『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』の世界観を知ってから触れていただくと、より深く楽しんでいただけるはずです。
▼『群青の嘘』はこちらから
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私たちの所属している県立北橋高校の吹奏楽部は、全国大会出場経験もある歴史ある強豪校だ。
先輩方からの伝統を受け継ぎ、昨年果たした北陸大会出場以上の成績——今年こそは全国を目指さなくてはいけない。けれども、卒業された先輩方の抜けた穴は大きく、新しく部長となった私は、副部長のきゆと向かい合いながら大きなため息をついた。
「今年の1年生、どうかな?」
「ある程度の人材は入ってくるだろうけれども、先輩たちの穴を簡単に埋めるのは難しいだろうね」
「とりあえず、今目の前に迫っている新入生歓迎の音楽会に全力を傾けよう」
「そうね。それを聞いて、すごい新人が来ちゃうかも」ときゆがふふっと笑った。
ジャーーーーーン。
みそら先生の指揮棒が、新入生歓迎会での演奏の終わりを告げる。
客席からの鳴りやまない拍手に私たちは満足の笑みを浮かべ、楽器を抱えてステージを降りた。
「よかったんじゃない?」
「まあね。でも、やっぱり核になる何かが足りないな」
「れいがいるじゃない?」
「きゆも頑張ってくれよ、副部長」
私たちの演奏が響いたせいか、今年の入部希望者はなかなかの人数だった。全員の演奏を聞いてみたが、どの生徒も基礎ができていてレベルが高い。
「みんな、れいみたいに完璧なわけじゃないのよ。今いるメンバーでベストを尽くさなきゃ」ときゆが苦笑する。
そんな話をしていたが入部の申し込みの最後の日に、未経験のギター弾き崩れであるつみき、経験者のゆう、そして——あいかが入部してきた。
ゆうもつみきも悪くはないが、この時点ではまだ、全国を狙う私たちのレベルとは到底いえないように見えた。
けれど、きゆと同じフルートパートに入ったあいかは違った。
最初はどこかおどおどとしていて、慣れない部活の雰囲気に怯えているようだったのに……なんだ、この上達の速さは? 吹くたびに音が変わり、まるで何かに憑りつかれたようにメロディを自分のものにしていく。
——これなら、いけるかもしれない。とんでもない新人が入ってきたものだ。
そんなある日の放課後、部活全体の空気がガラリと変わった。
コンクールで演奏する自由曲の「ソロパート・オーディション」の実施が告げられたのだ。
吹奏楽部において、オーディションは特別な意味を持つ。コンクールのステージに立てる人数には厳格な上限があり、特にフルートパートの割り当てはわずか。そして何より、曲のハイライトとなる難易度の高いソロを吹けるのは、パート内からたった二人だけだった。
「今回のソロは、曲全体の印象を左右する極めて重要なパートです。学年に関係なく、最も完成度の高い演奏をした二人を選びます」
パイプ椅子に腰掛け、総譜に鋭い視線を落としながら告げたのは、顧問の神谷みそら先生だった。
先生はこの部活の絶対的なリーダーであり、音楽に対しては誰よりも妥協を許さない。指揮棒を振るだけで空気が一瞬でピンと張り詰める、圧倒的なオーラを持っていた。
オーディションは音楽室で、一人ずつ順番に行われた。
皆が極度の緊張で顔を引きつらせる中、最後にあいかの順番がやってきた。
あいかのフルートから放たれた最後の音が、美しい残響となって音楽室から消えた時——室内には、息を呑むような深い静寂が広がった。
……すごい。これならいける。私以上かもしれない。
そして、すべての演奏が終わった後。みそら先生が全員の前に立ち、冷徹な声で結果を発表した。
「……フルートパートのソロは、副部長のきゆと、1年生のあいか。この二名に決定します」
その瞬間、静まり返っていた部屋が一気に歓声に包まれた。
「すごーい! 1年生でソロに選ばれたの、あいかちゃんだけだよ!?」
「あいかちゃん、あの高音の伸び、鳥肌が立ったよ! 本当にすごすぎる!」
同級生たちがあいかの周りに駆け寄ってきて、口々に祝福している。
きゆも「一緒にソロ吹けるの、すごく嬉しいよ! よろしくね、あいかちゃん」と、満面の笑みで彼女を優しく抱きしめていた。
——けれど、私はなぜか、その光景を眺めながら背筋が凍るような不気味な寒気を感じていた。
一体なんだろう、この違和感は。
それからというもの、私は無意識にあいかの姿を目で追ってしまうようになっていた。
彼女はいつも、古びた小さなクマのぬいぐるみ——「みーたん」を大切そうに持ち歩いていた。けれど、どうしてもあのぬいぐるみから目を離すことができなかった。見るたびに、胃のあたりが締め付けられるような、底知れぬ禍々しさを感じるのだ。
私はあまりオカルトを信じる方ではないが、きゆ曰く、私には少し霊感のようなものがあるらしい。あれは良くないものだ。私の直感がそう訴える。
あれは呪いなのか、悪霊なのかわからないが彼女の、あいかの為にならないものだ。
何か、確かめなくてはならない。そんな強迫観念に駆られ、私は練習の合間を縫ってあいかに声をかけた。
「そのぬいぐるみ……いつも持っているの?」
「はい、そうです! ママが入学のお祝いに作ってくれたんです!」
「……君はいつも、そんな気味の悪いものを持っているのか?」
……しまった。そんなトゲのある言葉を言うつもりはなかったのに、不安が勝って口から滑り出てしまった。
「これはママが作ってくれた、大切なみーたんです! そんな酷いことを言わないでください!」
「そうじゃない。……それは良くないものだ。君には見えていないかもしれないが、あんなものに依存しているのは、君のためによくない」
「そんなことありません!」
あいかはヒステリックに叫び、私をその場に置き去りにするように激しく振り向くと、足早に音楽室の扉をあとにしていった。
なんてことを言ってしまったんだ。これじゃあ、きゆの言っていたオカルトを馬鹿にできないじゃないか……。悪霊や呪いなんてあるわけないのに。
明日にでも、彼女にはちゃんと謝ろう。そう心に決めて放課後の校舎を出た。
校門を抜けたところで、暗がりからあいかがスッと現れた。
「……待っていましたよ、先輩。お話したいことがあるんです」
「海の方へ歩きませんか? 少し、誰にも邪魔されない静かなところで話がしたいんです」
私は罪悪感から彼女の機嫌を直そうと思い、無言のまま小さく頷いた。あいかを後ろに歩かせ、私たちは夕暮れの港へと向かった。
防波堤の冷たい潮風が吹き抜ける中、私は足を止めて彼女に向き直った。
「さっきはごめんね。あんなこと言うつもりはなかったんだ。でも……そのぬいぐるみに頼るのは、もうやめなさい。それを今すぐ、その海に捨てたほうがいい」
「どうして、みーたんを捨てなきゃいけないの? みーたんは私に、こんなにもたくさんの幸運をくれる、大事な神様なのに」
その時のあいかの声は、いつもの等身大の1年生のそれではなかった。
「神様なんかじゃない! そいつは……あいかちゃん、君を内側から蝕んでいる『何か』だ!」
「君のフルートの演奏は素晴らしい。それは嘘偽りのない本物だ。でも……あのぬいぐるみに触れている時の君の目は、人間のもんじゃない。光がなくて、まるで魂の抜けた操り人形の目だ。お願いだ、目を覚ましてくれ……! その化け物から離れてくれ……!」
私の必死の訴えを聞きながら、あいかの唇が、ぞっとするほど歪んだ笑みを形作った。
——あ、違う。これはあいかじゃない。やっぱりあいかは何かに魅入られているに違いない。
そう気づいた瞬間には、すでに遅かった。
彼女は夕日を背にして油断しきっていた私の胸元を、信じられないほどの怪力で、躊躇いなく両手で思いきり突き飛ばした。
「バイバイ、先輩」
ドブン、と、美しい夕日が沈みかけている海には似合わない、重く濁った水音が響き渡る。
足場を失って防波堤から転落した私は、冷たい夕方の海に一気に飲み込まれ、ゴボゴボと口から苦しげな泡を吐き出しながらも、水面から必死に手を伸ばして叫んだ。
「……ッ、がはッ……! だれ、か……っ! 誰か……助けて……っ! あいかを……あいつから……引き離して……助けっ……!!」
体がうまく動かない……何かに体が海の水底に私を引きずり込もうとしている。
その切実な叫び声も、冷たい波の音にかき消されるように、みるみる小さくなっていく。
——なんでこうなった? 私はただ、あいかを救いたかっただけなのに……。
水底へと沈んでいく私の脳裏に焼きついたのは、最後に見た、あいかの冷え切った瞳だった。
あれは、あいかじゃない。誰か……誰か、あの子を助けてやってくれ……っ!
私の声は誰にも届くことなく、冷たい海の底の泡と消えていった。
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