第十五話:果たされなかった約束
ヴェルナーのムチの先が、ルナリアの片手に巻きついている。
白い神官服の袖からのぞく細い手首に、黒い革が巻き付いているのが見えるが、ルナリアは平然としている。
普通なら、痛がって泣き叫んでもおかしくない。ヴェルナーも、その異様さに気づいたらしい。
「平気な顔しやがって!泣き叫べ!」
そう叫ぶと、ヴェルナーはムチを力任せに引いた。当然、その勢いにつられてルナリアの手も強く引かれる――はずだった。
「なっ!ムチが……動かん」
ヴェルナーの振りかざしたムチは、ルナリアの手首に巻き付いたまま、ピクリとも動かなかった。
リュカの傷を見ようとひざまずいたブランシュだったが、ルナリアとヴェルナーから目を離せずにいた。
その隣に、土地神がすっと寄ってくる。
「なあ、これって釣りみたいじゃないか?」
――バシンッ!
ブランシュは見もせず、隣に来ていた土地神の太ももを叩いた。
「痛てて……お前、なんなんだよ。普通の人間は俺に触れないはずなのに……」
ブランシュはひざまずいたまま、下から土地神をキッと睨みつけた。すると土地神は黙り込んだ。その間にも、ヴェルナーはムチを動かそうと四苦八苦している。
「くそくそくそっ!怪力女め!お前など引き裂いてくれるわ!」
ルナリアは、ブランシュそっくりの顔で平然と立っている。
「怪力女ですって?うふふ……面白いことをおっしゃる執事さんね。いいでしょう、本当の怪力とはなにか、教えて差し上げてもよくってよ?」
嫌な予感を覚えたブランシュは「ルナリア!」と声を上げるが、もちろん、ルナリアは止まらない。止まるはずもない。
ルナリアはムチが巻きついた手を、ふわりと横に振った。ただそれだけなのに――
「なっ――」
ヴェルナーの体がふわりと浮いた。そして次の瞬間には、石畳へ叩きつけられた。
「がっ……ぐはっ!」
――ドゴッ!
鈍い音が広場に響き、石畳から小石が跳ねる。
ルナリアを引き裂くと言っていたヴェルナーだが、引き裂かれそうになっているのは、どう見ても彼の方だった。
だが、ヴェルナーにも意地があるのだろう。ムチを手放せば済むのに、頑として離そうとしない。
それを見たルナリアは、うっすらと微笑んだ。
「あら、これに耐えるなんて優秀な執事さんだこと。褒めて差し上げるわ」
そう言って、ルナリアはムチの先を手に絡ませたまま、自分の武器のように振るい始めた。
右へ。左へ。軽々とムチを振るう。
「ぐっ……へっ……がは……!」
振り回されたヴェルナーの体は半円を描いて、何度も地面へ叩きつけられる。
白い神官服の小柄な少女が、片手にぬいぐるみを抱えたまま、平然と大人の男を地面に叩きつけている。
その光景は、あまりにも現実離れしていた。
土地神は顔をしかめ、自分の二の腕をさすった。
「いい気味だけどよ、ひでぇな」
リュカは一言も発しない。
ただ、その指だけはブランシュのドレスをしっかりつかんで離さなかった。
何度も石畳に叩きつけられたヴェルナーは、うめき声を漏らしたまま動けずにいた。
ヴェルナーはもう立てそうにない。そう判断したブランシュは、ルナリアに声をかけた。
「ルナリア、もういいわ。十分よ」
そこでようやくルナリアは手を止め、手首に絡んだムチをはずし、そのままつまらなそうに放り投げた。
ルナリアは軽く神官服についた土ほこりを払いながら、ちらりとリュカに視線を向けてから、ブランシュに向けて話し始めた。
「ブランシュ、お久しぶりね。何年ぶりかしら。会わない間に、すっかり大きくなったのね。まあ、私もですけれど。
それに、あの時とは違う顔ぶれが揃っていますのね。人ではない道化師も混じっているみたいだけれど。それに――」
改めて周囲を見回したルナリアは、弾んだ声を上げた。
「よく見たら、ここは男爵領ではありませんわよね?もっと都会だわ」
「ここはグラスティ伯爵領の領都グラスティよ」
伯爵領と聞いた瞬間、それまで無表情だったルナリアの口元に、ふっと笑みが浮かんだ。
「まあ、伯爵様の街ですのね。それではきっと大きな街なんでしょうね」
ルナリアの笑顔を見て、ブランシュは背筋が寒くなった。この笑顔には見覚えがある。
昔、ブランシュが父の治める街を救いたくて、ルナリアを呼び出してしまったとき、同じような笑顔を見た。
確かあのときは、襲ってきた魔獣もすべて片付けて、そろそろルナリアを戻そうと思っていたときだった。
初めて外界に出たルナリアは、自らの力を自由に振るい、魔獣を倒すことにひどく興奮していた。
そのため、ブランシュの要請も無視したのだ。あのとき浮かべていたのも、今と同じ笑顔だった。
笑顔を浮かべたあと、ルナリアはブランシュの制御を離れ、街を壊し始めた。
あのときと同じことが起こる――ブランシュはそう感じた。そんなブランシュの不安を見抜いたように、ルナリアが言った。
「――安心してよろしくてよ。街を壊すのは控えてさしあげますわ」
ルナリアはそう言って、黒髪を手の甲でさらりと払った。
「久しぶりに外へ出られたんですもの。楽しみたいですわ」
久しぶりの外気を吸って満足げにしているルナリアに、ブランシュが何か言おうとした、そのとき――
「この匂いは……」
街中に立ち込めていた甘い匂いが、急に強くなったのだ。
ブランシュは急いでポケットからハンカチを取り出し、リュカの鼻と口を覆う。
ルナリアも、鼻先をくすぐる甘い香りに気づいたようだ。
「この甘い匂いは……人を狂わせますわね」
それから横たわって動かないヴェルナーを監視するように、じっと見つめ始めた。
土地神は油断なくあたりを見回しながら、ブランシュに警告した。
「急に接近してきたな、まだ距離はあるが……。ルナリアだっけ?お前の双子みてぇなのが刺激したのかもな」
もしルナリアが、土地神より高位だという“甘い匂いを放つ存在”の興味を引いているのだとしたら――。
すぐにでもルナリアを戻さなければならない。
ブランシュは、ルナリアを久しぶりに外へ出してみて、昔よりは制御できていると実感していた。だが、まだ完全とは言えない。
甘い匂いの存在が目の前に現れたとき、ルナリアを制御できるか、ブランシュには自信がなかった。
「ルナリア、戻ってちょうだい!いえ、戻りなさい!」
ブランシュの命令を、ルナリアは当然のように拒否した。軽く鼻で笑うと、片腕に抱いていたぬいぐるみを持ち上げ、芝居がかった仕草で頬ずりをしてみせる。
「戻るなんて嫌ですわ。久しぶりに外に出ましたのに……まだお茶もしていませんわ!」
土地神がやれやれと首を振るってから、呆れたような口調で言う。
「こんなとこで茶とか正気か?別の場所のほうがよくないか?」
確かにここはホコリっぽいし、商人たちが置いていった空き箱や樽が転がっていて、気持ちよくお茶を飲めるような場所ではない。
しかしルナリアの考えは違うようだった。クマのぬいぐるみを両手で目の高さに掲げると、そのままくるりと回り、ぬいぐるみを相手にダンスを踊り始めた。
そしてクマのぬいぐるみ越しに、土地神をちらりと見る。軽蔑の眼差しだ。
「別の場所でお茶会をするといって、私を再び封印し、二度と解かないつもりなのでしょう?騙されませんわよ?」
「そんなことしないわ!」
そう否定してみたものの、変わらぬルナリアの疑いの眼差しに、ブランシュの中で忘れかけていた記憶がよみがえった。
ルナリアを最後にブランシュの中へ戻したとき、彼女はお茶会をしたいと言っていた。それをお茶会の準備をするからと騙して彼女を戻し、そのまま祖母が封印してしまったのだった。
「――悪かったと……思ってる。あなたを騙すことになってしまった」
「ふん!私がどれほどお茶を楽しみにしていたことか、あなたには分からないわよね?」
ルナリアはぷいっと子供っぽく横を向いた。その仕草だけは、昔の拗ねた子供のままだった。
「でも、聞いてちょうだい!あの頃は、私も子供だった。私には何も決められなかったのよ」
ルナリアは片眉だけ上げてみせ、ダンスのパートナーにしていたクマをぎゅっと抱きしめた。
「大人になったあなたは、なにを決められるのかしら……」
痛いところを突かれて、ブランシュは返事ができなかった。
確かに、今回だって土地神の説得とリュカの窮地がなければ、ルナリアを解放する決断はできなかっただろう。
視線をさまよわせるブランシュに、ルナリアははっきりと要求を突きつけた。
「私、今ここで、すぐにお茶を飲みたいですわ。ホコリっぽい?危険だ?そんなこと、私には関係ありませんの」
クマのぬいぐるみを胸元に抱きしめ、そんなことを言うルナリアを見て、土地神がため息をつく。
「どうすんだ?さっさとこの双子の嬢ちゃんをしまわないと危険だぞ」
甘い匂いの存在の注目を引きたくない。だからこそ、ブランシュは一刻も早くルナリアを自分の中へ戻したかった。
だが、それが簡単ではないことも分かっている。ブランシュが大人になったぶん、ルナリアもまた成長しているように見えたからだ。
ブランシュが頭の中で作戦を立てていると、ルナリアが急に声を出した。
「あら?まさか起きてくるとは思わなかったわ。あれほど痛めつけたのに、さすが優秀な執事ですわね」
ルナリアの視線の先では、石畳の上から起き上がろうとしている執事ヴェルナーがいた。
ヴェルナーは体が痛むのか低くうめき、よろめきながらも身を起こした。何度か瞬きをしたあと、顔をしかめたまま、投げ捨てられていたムチを拾い上げた。
ルナリアがヴェルナーに目を向けたまま、ブランシュへ話しかけてくる。
「ねえ、私にお茶会を許したほうが、いいんじゃないかしら?あの執事、急に甘い匂いがし始めたわよ。」
「確かに執事の野郎が甘く匂う。嬢ちゃん、お茶会って……まだ言ってるのかよ」
土地神が、ぼそぼそと小さくぼやく。
「なにもできない道化師は、お黙りなさい。ブランシュ、あなた困ったから私を呼んだのでしょう?違うかしら?」
道化師呼ばわりされた土地神は、わざとらしく泣き真似をした。でも今は彼の小芝居に付き合っている時間はない。
ルナリアの言うように、執事ヴェルナーの様子がおかしい。かろうじて残っていた理性まで、どこかへ投げ捨ててしまったようだ。
唇の端からよだれがたれているし、目の焦点が合っていない。なにより、執事には似つかわしくない笑顔を浮かべている。
何をしてくるか分からないこの執事から、リュカを守って円形広場を出なければならない。
土地神は人間の争い事には関われないし、ルナリアがいなくなれば、ブランシュひとりでリュカを守るのは無理だ。
「お姉ちゃん、僕なら大丈夫」
ブランシュの視線に気づいたリュカは、両手を胸の前でぎゅっと握り、大丈夫だと言いたげにうなずいた。
だが、ドレス姿のうえ、目の横は赤く腫れている。とても大丈夫そうには見えなかった。
今まで戦えただけでも上出来だったのだ。これ以上、ヴェルナーの相手をするのは無理だ。
ブランシュは無理に笑顔を作って、リュカに微笑みかけた。そして、頭を優しくなでた。
「リュカ、あなたは私の騎士よ」
ひざまずいていたブランシュは立ち上がり、ルナリアと向かい合う。もう、迷いはなかった。
「ルナリア、お茶会を許可します」
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