【第66話】
テネブラシアの冷たく分厚い石壁の中で、彼女は物心ついた頃から、己の感情を殺すことだけを教え込まれてきた。
南の軍事国家の姫君。
他国との血の同盟を結ぶための、最も高価で美しい鎖。
それがセレーナ=テネブラという人間の唯一の存在理由であり、彼女自身もその残酷な運命を完璧な矜持で受け入れていた。
侍女であるアンネは、幼い頃から影のようにその傍らに控え、主人が見せることのない「本心」の微細な揺らぎを、誰よりも近くで観察し続けてきた。
だからこそ、アンネにはわかっていた。
このグレイヴァルという辺境の泥臭い小国に嫁いでからの数日間、セレーナがどれほど必死に、この環境に順応しようと己を律しているかが。
城の厨房から運ばれてくる食事は、テネブラの宮廷料理とは比べるべくもない、塩気の強い保存肉と、根菜をただ煮込んだだけの味気ないシチューだ。
与えられた私室も、大国の納戸と大差ないほど狭く、隙間風が容赦なく入り込む。
だが、セレーナはただの一度も不満を口にしなかった。
硬いパンを静かに千切り、冷めかけたスープを無言で飲み下す。
隙間風にはショールを一枚余分に羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばして耐え忍ぶ。
それは、自らの意志でこの盤面に立つことを選んだ彼女の、気高い意地であった。
しかし、アンネの目は、彼女の完璧な鎧の奥に宿る「ある変化」を見逃していなかった。
「——ですから、西の荒野の傾斜を考えれば、第三排水路の起点はここではなく、もっと北の尾根に寄せるべきです。そうすれば、春の雪解け水が自然な水路となって、乾いた土壌全体に均等に行き渡る」
領主執務室の一角。
財務参謀のミレイユが広げた巨大な地形図の上に身を乗り出し、羽ペンを手にして線を引くセレーナの声には、普段の冷たい硝子を打ち鳴らすような硬さは微塵もなかった。
その声のトーンは、驚くほど滑らかで、そして熱を帯びていた。
アンネは部屋の隅で静かに両手を組みながら、主人のその横顔を見つめていた。
農地の排水、土壌の改良、そして種を蒔き、国を根底から育てるための実務。
冷徹な政治や殺伐とした軍略の話ではなく、泥にまみれて「命を育む」ための議論をしている時だけ、セレーナの青灰色の瞳は、テネブラの重苦しい空の下では決して見せなかった深みを帯び、その色を鮮やかに変えた
(……これが、あなたの『本物』なのですね)
アンネは心の中で、そっと呟いた。
大国の箱庭に飾られていた高価な人形が、辺境の泥の中で初めて見つけた、自分自身の本当の熱。
その熱が、いつか必ずこの過酷な土地で、彼女を母という真の支配者へと押し上げる原動力になることを、アンネは確信していた。
その日の午後。
主人の使いで、城の地下にある書庫へ古い農業記録を取りに向かっていたアンネは、薄暗い石造りの廊下で、ふいに軽い足音とすれ違った。
「あ、こんにちは。アンネ、だよね?」
屈託のない、透き通るような声。
歩みを止めたアンネの目の前には、洗い立ての質素な平民の服を着た少女——エラが、ふわりと笑って立っていた。
ヴェインの傍らに影のように寄り添う、出自の知れない孤児の少女。
アンネは、到着の日に城門で交わされた、セレーナとエラのあの一秒間の「純粋な観察」の交錯を鮮明に記憶していた。
「……はい。エラ様」
アンネは、完璧な侍女の礼をとって静かに応えた。
エラは、アンネが抱えている分厚い農業記録の束にチラリと視線を落とすと、まるで昨日の天気を話すような、ひどく自然な口調で言った。
「セレーナって、農業が好きなんだね」
ピクリ、と。
アンネの肩が、無意識のうちに微かに跳ねた。
彼女は驚愕を押し殺し、慎重に言葉を選びながらエラの平坦な鳶色の瞳を見返した。
「……セレーナ様は、テネブラの姫君に在らせられます。大国の政略と歴史を修めてはおりますが、土に触れるような泥臭い仕事を『好む』などと、なぜそのようなことを?」
それは、アンネの警戒心から出た防衛的な問いだった。
大国の姫が農業好きなどと、貴族社会では嘲笑の的になりかねない。
何より、セレーナ自身が必死に隠し、ミレイユとの密室でのみ解放しているその「本物の熱」を、なぜこの無学な少女が、たった数日で見抜いているのか。
エラは、小首を傾げて、事も無げに答えた。
「だって、話すときの『目』が変わるから」
アンネの呼吸が、ほんの一瞬だけ完全に停止した。
目の色が変わる。それだけだ。
ヴェインやミレイユのように、相手の利益や論理の矛盾から腹を探るわけではない。
ただ、相手の魂の最も純粋な熱の在り処を、一切の計算を挟まずに、直感という真っ直ぐな矢で正確に射抜いてしまう。
その、底知れぬ無防備さと鋭さ。
「あ、ごめんね、引き留めちゃって。お仕事、頑張ってね」
エラはふんわりと笑うと、背を向けて、パタパタと軽い足音を立てて廊下の奥へと消えていった。
後に残されたアンネは、抱えた古い記録書の重みを感じながら、背筋に冷たい汗が伝うのをはっきりと自覚していた。
夜。
セレーナの私室で、寝支度の手伝いをしながら、アンネは静かに、しかし確かな緊張を孕んだ声で報告した。
「……セレーナ様。エラという方は、見えすぎる目を持っています」
鏡台の前で髪を梳かしていたセレーナの手が、ピタリと止まった。
アンネは、昼間の廊下での出来事を、一言一句違えずに主人に伝えた。
深い沈黙が、狭い私室に降りた。
セレーナは鏡に映る自分の青灰色の瞳を、瞬きもせずにじっと見つめていた
大国の謀略も、毒の入った言葉も通じない。
ただ「人間としての本質」だけを鏡のように反射してしまう、あの鳶色の瞳。
ヴェインが「感情の問題ではない」と切り捨てながらも、なぜか自らの傍らに置き続けている理由が、セレーナにも少しだけわかった気がした。
「……そう」
やがて、セレーナは鏡から視線を外し、手元の銀の櫛をことりと置いた。
「敵意がないからこそ、恐ろしい目ね。……気をつけなければ」
それは、大国ヴェルミリアの使者を相手にする時よりも、遥かに慎重で、深い警戒を帯びた声だった。
冷徹な計算式で組み上げられたこのグレイヴァルの城の中で、一切の計算を持たないエラという存在が、いかに異質で、そして決定的な質量を持っているか。
二人の間の、見えないが確かな「魂の測り合い」は、静かに、しかし後戻りできない深さへと沈み始めていた。




