【第65話】
グレイヴァル城に到着した翌日の朝。
長旅の疲労など微塵も感じさせない完璧な姿勢で、セレーナは領主執務室の分厚いオーク材の机の前に立っていた。
深い藍色のドレスの裾は一切乱れず、その青灰色の瞳は、机の奥で羊皮紙に目を通しているヴェインを真っ直ぐに射抜いている。
「……私は、何をすればよいのですか」
挨拶も前置きもすべて切り捨てた、極めて実務的で単刀直入な問い。
それは、大国テネブラシアの姫君が、自らが嫁いだ夫に対して「愛」や「居場所」を乞う言葉ではない。
盤面における自らの『機能』の明確化を要求する、冷徹なプレイヤーとしての宣言だった。
ヴェインは羽ペンを動かす手を止めず、薄灰色の瞳を羊皮紙に落としたまま平坦に答えた。
「あなたの最大の役割は、すでに終わっている。ここに存在し、テネブラの国章をこの辺境に刻み続けること。それ自体が大国ヴェルミリアに対する強烈な牽制になる」
ヴェインは一度だけ視線を上げ、セレーナを見た。
「それ以上の実務については、今はまだわからない。適当に城の中を見て回るか、休んでいてくれればいい」
それは、ヴェインなりの合理的な判断だった。
南の軍事国家の象徴である彼女が、危険な城外を出歩いたり、泥臭い内政に口を挟んだりして不測の事態を招くよりは、ただ「安全な盾」として飾っておく方が最も安定するからだ。
しかし、セレーナは微かに顎を上げ、冷たい硝子を打ち鳴らすような硬い声で即答した。
「それでは、働けません」
ヴェインの手が、ほんの僅かに止まった。
「……何?」
「私はテネブラの密室で、あなたに『私には意志がある』と申し上げました」
セレーナの言葉は、氷の刃のように研ぎ澄まされていた。
「ただの防壁として埃を被って座っているだけなら、それは意志のない道具と同じです。あなたが私を『厄介な存在』と評価したのなら、その評価に見合うだけの盤面を私に与えるべきだ。……私は、自らの意志でこの国を動かす歯車になりたいのです」
単なる政略の駒から、一個の独立した人間として、自らの足場を自らの手で抉り開けようとする気高い宣言。
執務室に、ヒリつくような重い沈黙が落ちた。
その静寂を唐突に破ったのは、壁際の長机で数字の束と格闘していたミレイユだった。
「……なるほど。気位だけが高い飾り物ではないというわけですね」
ミレイユは立ち上がり、硝子のように冷ややかな瞳でセレーナを見据えながら、束になった分厚い財政資料の束を、音を立ててセレーナの目の前の机に突き出した。
「口で言うのは簡単です。ならば、あなたのその『意志』が、どれほどの質量を持っているのか見せていただきましょう。これは、西の荒野における農地回復の三年計画の試算表です。読んで、あなたの見解を述べなさい」
身分も何も関係ない。数字という実務能力だけが絶対の基準である財務参謀からの、容赦のない洗礼。
背後に控えていた侍女のアンネが微かに息を呑むが、セレーナは全く動じなかった。
彼女は無言で資料を手に取ると、瞬きすら忘れたかのように、その緻密な数字の羅列を猛烈な速度で眼球に焼き付け始めた。
数分の間、紙の擦れる音だけが響く。
やがて、セレーナは資料を机にパタンと置き、青灰色の瞳でミレイユを真っ直ぐに見返した。
「……この農地回復の数字は、甘い」
「ほう。どこがですか」
「流浪の民を労働力として計算している点は合理的ですが、長年放置された土壌の『水はけ』の悪さを軽視しています。これでは、秋の長雨でせっかく撒いた種が腐る」
セレーナは、資料の一点を指先で正確に叩いた。
「南のテネブラ北部でも、過去に全く同じ土壌問題がありました。その際、単純な開墾ではなく、一定間隔で深い『排水路』を格子状に掘り巡らせることで、三年かかると試算されていた土壌回復を、二年に縮めた実績があります。必要なのは開墾用の鍬ではなく、排水路を掘るための土木器具と、その作業を指揮する専門の工兵です」
ただの知識ではない。
大国の軍事インフラを支えてきた、血と泥に塗れた現実的な「実例」と「解決策」。
ミレイユの冷ややかな瞳の奥に、初めて、明確な『評価』の光が宿った。
嫉妬も、女としての対抗心もそこにはない。
ただ、己の緻密な計算式をさらに完璧なものへと押し上げてくれる、極めて有能な『別の計算機』を発見した実務家としての、静かな歓喜。
「……なるほど。ハインツ殿の工兵隊を農業インフラに転用すれば、初期投資はかさみますが、二年目以降の収穫率は劇的に跳ね上がりますね。試算を組み直す価値は十分にあります」
「テネブラにおける当時の詳細な図面と土木記録なら、私の荷物の中にあります。後でお渡ししましょう」
「助かります。では、午後から具体的な数字の擦り合わせを」
二つの冷徹な知性が、音もなく、しかし強固に噛み合った瞬間だった。
ヴェインは執務室の中央に立ったまま、何一つ口を挟むことなく、その光景を静かに見つめていた。
薄灰色の瞳の奥で、グレイヴァルという国家の盤面が、また一つ、恐るべき速度で巨大化していくのを正確に計算しながら。
その日の夜。
城の奥に与えられたセレーナの私室。
華美な装飾のない実用的な部屋で、セレーナは一人、簡素な窓枠に手をつき、森に遮られることのない広大な辺境の夜空を見上げていた。
「……よかったのでは、ありませんか」
背後で寝支度を整えていた侍女のアンネが、気配を殺したまま、ぽつりと呟いた。
「何が」と、セレーナは夜空から視線を外さずに返す。
「ここで、必要とされる仕事が見つかりました。ただの政略の飾り物としてではなく、あなたの意志と知識が、この国に求められた。……それは、あなたにとって良いことなのでしょう」
アンネは、幼い頃からセレーナの傍らで、彼女が大国の思惑という重圧の中でどれほど息苦しい思いをしてきたかを、誰よりも近くで見てきた。
だからこそ、今日彼女がミレイユとの対話の中で見せた微かな『熱』を、正確に読み取っていたのだ。
セレーナは、少しの間だけ沈黙した。
大国の箱庭を自ら飛び出し、辺境の泥の中で、自らの足で立つための最初の足場を築いた。
それは確かに、彼女が生まれて初めて自分自身で手に入れた「役割」だった。
「……そうね」
窓の外の暗闇を見つめたまま、セレーナは誰に聞かせるでもなく、吐息のように短く呟いた。
その端正な横顔には、昼間の氷のような緊張は少しだけ抜け落ち、代わりに、一個の人間としてこの過酷な辺境に根を下ろそうとする、静かだが確かな覚悟の光が宿っていた。




