【第58話】
南の軍事国家テネブラ。
その王城は、華美な装飾を誇る大国ヴェルミリアの宮廷とは対極にある、黒鋼と切り出した岩をそのまま積み上げたような、殺伐とした巨大な軍事要塞であった。
廊下を歩く度に、冷たい石畳が靴音を重く反響させ、空気には常に鉄と油、そして微かな血の匂いが張り付いている。
通された無骨な応接室で、ヴェインは一人、静かに待っていた。
ほどなくして、重厚な扉が開き、南の絶対的な支配者である老公爵エドガーが姿を現した。
ヴェインが死地に飛び込み、刃のような知略で密約をもぎ取った相手。
老いた猛禽のような鋭い眼光は、一年が経った今も全く衰えていない。
「……生き延びて、盤面をひっくり返したようだな。若造」
エドガーは、椅子に座ることすらしようとしなかった。
挨拶も、労いの言葉も一切ない。
互いが国という巨大な化け物を生かすための歯車であることを、誰よりも理解し合っているからこそ成立する、極限まで無駄を削ぎ落とした関係性。
「セレーナに会え」
用件は、その一言だけだった。
エドガーはヴェインの返事すら待たず、翻した黒い外套の裾を翻して、踵を返して部屋を出て行った。
政略婚約。
両国を血の鎖で縛り付けるための、極めて実務的な儀式が、今ここから始まるのだ。
数分の重い静寂の後。
再び扉が開き、今度は足音すら立てずに、一人の女性が応接室へと足を踏み入れた。
金色を帯びた、透き通るような金茶色の髪——金茶色と呼ぶほかない豊かな色艶が、一本の乱れもなく後頭部に結い上げられている。
それは一本の乱れもなく、後頭部で完璧に結い上げられている。
身に纏っているのは、華やかなドレスではなく、テネブラの国章である『双頭の鷲』が銀糸で刺繍された、軍服を思わせる深い藍色の正装であった。
何よりヴェインの目を引いたのは、彼女の姿勢だ。
背筋は研ぎ澄まされた長剣のように一切の淀みなく真っ直ぐに伸び、前を見据える冷たい青灰色の瞳は、微塵の揺らぎも恐怖も見せていない。
彼女の斜め後ろには、地味な灰色の服を着た若い侍女——アンネが、気配を完全に殺して影のように控えていた。
二人は、互いの間に数歩の距離を残したまま、ぴたりと歩みを止めた。
ヴェインは薄灰色の瞳で、セレーナは冷たい青灰色の瞳で、互いを値踏みするようにただ無言で見つめ合う。
数秒、あるいは十数秒の沈黙。
それは、男女の出会いという甘やかなものでは断じてない。
互いが背負っている国家の質量、覚悟の重さ、そして『利用価値』を、一切の感情を排して測り合う、冷酷な交差点の静寂であった。
「……ヴェイン=グレイハルトです」
先に沈黙を破ったのは、ヴェインだった。
極めて平坦で、抑揚のない声。
そこには、相手を気遣うような温もりも、自らを誇示するような熱もない。ただの事実の提示。
「セレーナ=テネブラです」
セレーナの返答もまた、寸分違わぬ冷徹な響きを持っていた。
鈴を転がすような声ではない。
冷たい硝子を打ち鳴らしたような、硬く、澄み切った声だった。
互いに、今この場が何であるかを完全に理解している。
軍事同盟を成立させるための、生きた供物同士の顔合わせ。
そこに個人の幸福や、人間としての感情が入り込む余地など一ミリも存在しない——はずだった。
「グレイヴァルは今、人が集まっていると聞きました」
ふいに、セレーナが微かに顎を引き、定型句の挨拶を切り捨てて本題へ踏み込んできた。
ヴェインの呼吸が、ほんの僅かに止まる。
大国の箱入り娘であれば、恐ろしい辺境の王を前にして怯えるか、あるいは見下すか、そうでなくとも無難な天候の話でも持ち出すのが定石だ。
だが、目の前の女は、いきなり盤面の中央——グレイヴァルの内政の核心を突いてきたのだ。
「……なぜ、知っている」
ヴェインは、薄灰色の瞳の奥に探るような光を宿し、低く問うた。
三分の一税の噂は周辺に流しているが、テネブラシアの深部にいる彼女の耳に、ただの噂として自然に届くものではない。
「調べました」
セレーナは、姿勢を微塵も崩さぬまま、静かに即答した。
「私は、自らが嫁ぐかもしれない土地が、一年後に飢えで滅ぶような死に体の国なのか、それとも大国を相手に立ち回るだけの熱を持った国なのかを、知る必要がありましたから。行商人の動きや、北の国境の関所を通る難民の数から、おおよその推移は計算できます」
ヴェインは、一拍だけ完全に沈黙した。
——調べました。
そのたった一言が、彼女の持つ『質量』を劇的に書き換えた。
エドガーに言われるがままに売られる悲劇の姫君ではない。
彼女は自らの意思で情報を集め、自らの頭で盤面を読み、自らの足でこの交渉のテーブルに立っているのだ。
恐るべき能動性と、極めて高い知性。
南の軍事国家は、彼女をただの人形としてではなく、他国を喰い破るための高度な『刃』として育て上げていたのである。
傍らに控える侍女のアンネだけが、主人のその強固な鎧の奥にある、わずかな緊張の糸を黙って見守っている。
「……よく調べた」
やがて、ヴェインは一切の感情を交えぬ平坦な声で、短く返した。
それは皮肉でもお世辞でもなく、純粋な能力に対する、同じ計算機としての妥当な評価だった。
セレーナの青灰色の瞳が、その評価を受け取り、ほんの一瞬だけ剣呑な光を帯びて細められた。
感情の入り込む余地がない、凍てつくような政略の交差点。
だが、その氷の底で、決して飼い慣らされることのない二つの冷たい知性が、互いの首元に音もなく刃を突きつけ合った、奇妙で圧倒的な朝であった。




